「バイトなくなった」奇跡的に彼の予定が空いた、金曜の夜だった。
 二時間前に送られてきたメッセージを何度となく見つめる。そして、そのあとに表示されている「ごめん、今日会社の飲み会なんだ」という自分が送ったメッセージを見て、思わずため息が漏れた。ガヤガヤと騒がしい居酒屋で、同僚たちは楽しそうに歓談している。隣に座っていた男性社員は、アルコールで赤らんだ顔を隠すことなく、「元気ないやん。もしかして予定あった? 彼氏?」と笑いながら言って、わたしの返事を待つことなく他の会話に混ざっていく。弛緩した顔がこちらを向いていないのをいいことに、そちらを睨みながら毒づいた。
 ――彼氏と予定があった。そのとおりだ。
 厳密には、予定があったわけではないのだけれど。
 治から、今日のアルバイトがなくなったから時間ができたと連絡があったのは、今日の夕方になってからだ。治は、昨年まで通っていた専門学校近くの居酒屋でアルバイトをしている。週末はどこの飲食店も掻き入れどきだ。基本的に、治が金曜や土曜の夜にシフトを外れることはない。けれど今日は、テナントに入っているビルの管理会社の都合で営業がなくなったのだそうだ。本当ならもっと早くにわかっていたのに、店長から伝わってきたのが今日だったらしい。もっと早くに休みだとわかっていたら、会社の飲み会なんて断ったのに。わたしの怒りは、理不尽なことに顔も知らない治のバイト先の店長へ向かう。
 けれど、今更どうにもならないことだ。彼からその連絡があったとき、すでに同僚たちと飲み会の会場に向かってしまっていたから、理由を詮索されるのが嫌で抜け出すこともできなかった。立派な会社員としてそこそこ長く働いている女が、成人しているとはいえ、専門学校を卒業したばかりの年下と付き合っているだなんて、会社の人間には絶対に知られたくない。かと言って、治のことを偽るのも違う気がして、会社では恋愛関係の話題からは極力離れることに徹している。色眼鏡で見られることも、冷やかされることも、嫌だった。治は年下だけれど、自分のお店を持つためにバイトをしてお金を貯めたり、調理の修行に励んだりしていて、わたしよりずっとしっかりしている。今日のことも、会社の飲み会に来てしまっていることを伝えると、すぐに「わかった」と返事をくれ、店の場所を聞いて帰りは気をつけるようにと口添えるような人だ。ただ年下だからと、治をよく知りもしない人たちに、彼のことを括られたくはない。

 一刻も早く飲み会が終わることを念じているうち、ついにお開きの時間となった。そそくさと自分のカバンとコートを拾い、パンプスを引っ掛けたタイミングで、スマホが新しいメッセージを受信する。通知画面には治の名前と、「店の前におる」という一言だけが映し出されていて、一瞬息が止まった。
 同僚たちへの挨拶もそこそこに店を出ると、店に面した道路にスクーターを停め、スマホを眺めている治を見つける。白とカーキのバイカラーのスクーターは、治が二人乗りができるものがいいと言って中古で買ったものだ。

「治、」

 彼のところへ駆け寄って、名前を呼ぶか呼ばないか、というタイミングで、「みょうじさん?」と後ろから逆に自分の名前を呼ばれてギクリと肩が震えた。

「お迎え? もしかして彼氏?」

 店から出てきた同僚のニヤついた声に、返事をしたくなくて笑ってごまかした。お疲れ様でした、とだけ言って、すぐに移動しようと治を促す。少しだけ治の方から視線を感じたあと、彼は何も言わず、わたしにヘルメットを手渡してから、手早く自分もヘルメットを被りスクーターに跨った。手渡されたヘルメットを被って、治の後ろに跨ると、肩に添えようと思っていた手が、ぐっと治に掴まれる。

「わっ、ちょっと、治」
「……ちゃんと掴まりや」

 ぼそっと小さく聞こえた声は、どこか覇気がなく、冷たい。けれど、腕を治の腹部に回されるように引っ張られたわたしは、職場の同僚の前でそんな行動をされたことに気を取られて、治の様子にまで気が回らなかった。慌てて腕を引き抜き、治の着ているブルゾンをきゅっと握るに留める。本当はすぐにでも治の背中にしがみつきたかったけれど、同僚がそばにいる状況でそんなことができるほど、地から足を離しているわけではないのだ。
 治がスクーターを発進させてしばらくして、わたしはようやく治の体の前へ腕を回し、背中に頬を寄せる。風が強くて気のせいかもしれなかったけれど、ほんのりと彼の香水の匂いがするような気がして、アルコールと煙草の匂いをつけた自分が、少しだけ情けないように感じた。

 治がスクーターで向かった先は、彼が一人暮らしをしているアパートだった。てっきりわたしのマンションへ送ってそのまま泊まっていくものと思っていたけれど、今日はそういう気分ではなかったらしい。普段からおしゃべりなわけではない治は、今日は特別に無口で、スクーターを降りてからも黙りこくったままでいる。部屋に向かって前を歩く治の様子がおかしいような気がして、彼の名前を呼んだ。

「あの、治」
「なんや」
「迎え、ありがとう」

 わたしがそう言うと、ちらりと後ろにいるわたしを一瞥したあと、すぐにふいと顔を逸らす。「べつに」とそっけない返事がかえってくるものだから、わたしはさすがに焦りはじめた。治がポケットから鍵を取り出して、無言のまま鍵を開けて部屋に入っていく。キッチンには夕食を食べた後の食器が洗って伏せてあって、特別おいしいわけでもない大衆居酒屋の料理なんかより、治の手料理が食べたかったと、飲み会に行ったことを余計に後悔した。
 黒いブルゾンを脱いで、それをハンガーラックにかける治の背中に、小さく声をかける。

「……治、怒ってる?」

 ハンガーから手を離した治は、背を向けたまま少し動きを止めてから、振り返った。無表情でわたしを見下ろす治の顔を見上げる。部屋の天井が一際低く感じた。
 治は、しばらく閉じていた唇をようやく開く。声は、いつもみたいに静かで、でもいつもみたいな穏やかさはなかった。

「なんで、俺のこと彼氏やって言わへんかったん」

 わたしの質問には答えず、治はそう聞いた。怒鳴られたわけでもないし、睨みつけられたわけでもないのに、ただ冷たく静かな声と視線に晒されて、スッと指の先が冷たくなっていくのを感じる。治は、わたしにはいつだって優しい顔ばかり見せてくれていたから、その治が見せる色のない表情が、すごく怖い。口の中が途端に干上がっていく。

「それは……」
「俺と付き合うてんの、知られたくないんか」

 違う、とすぐに言いたかった。けれど上からじっとこちらを見つめる視線の圧と、有無を言わせない頑なさを孕んだ声に、わたしは言葉を吐き出すどころか、息を呑むことで精一杯だった。
 下唇をかみしめたところで、治は無表情だった眉間にきゅっと力を入れて、目を伏せる。瞬間に見えた寂しげな目に、心臓が大きく収縮した。

「もうええ」
「待って、治」

 ふいと身体を翻す治を引き止めたくて、腕を掴んだ。Tシャツ越しの太い腕は、わたしが両手で包み込むように掴んだところで、治がその気になればわたしは軽くいなされてしまうのだろう。けれど、治はそうしない。顔を背けてこちらを見ようともしなくても、その腕はわたしを拒まないのだ。
 そんな治に、あんな目をさせてしまった自分が情けなくなる。年上だなんて言って、ただ自分の体裁を守るために治を傷つけてしまっているだけだ。

「違うよ、知られたくないわけじゃない」

 ごめんね、と続けると、「……うそや」と答える治の声が震えているように聞こえたから、「うそじゃないよ」と腕を掴む力をぎゅっと強くする。むこうを向いていた顔が、ちらりとこちらを見た。すらりと高い鼻筋の輪郭を照明が縁取って、この人を誰にも見せたくないと思う。

「治が年下とか、そういうので治のことを悪く言われたくないだけ」
「……言わせとけばええやんか、そんなん」
「わたしが好きで付き合ってるんだから、他人に口出しされたくないの」

 治のことを話したら、きっと周りの人たちはわたしたちのことを好奇の目で見てくるに違いない。年下って何をやってる人? とか、付き合ってて大丈夫なの? とか、言われることは想像がつく。治のことも、治のことを好きなわたしのことも、何も知らないのに。治がそれを「言わせておけばいい」と言っても、わたしは嫌だ。わたしたちのことは、わたしたちだけがわかっていればいい。
 そう言っても、治は納得いかないのか、眉間の皺を深くする。喉の奥から絞り出すようにして吐き出す声は、焦燥感で掠れていた。

「なまえちゃんがそう思っとっても、他の奴はわからんやろ……なんで自分の女がフリーやって思われなあかんの」

 言いながら、まるで睨みつけるような強い眼差しに、思わず呼吸が浅くなる。腕を掴むわたしの手をそっと外して、代わりにきつく抱き寄せられた。同じ人の動作とは思えないくらいの力強さに、息が苦しくて、それが心地いい。
 背中に回された腕が簡単に肩までを抱え込んで、腰を引き寄せる力で胸が潰れそうだ。分厚い胸板に頬を寄せて、熱と、鼓動をずっと感じていたかった。

「あんたには俺がおるて、周りの奴にわからせたいねん」

 苦しいくらいの独占欲に溺れそうで、それでもいいとさえ思える。
 身体のどこかが傷ついているのかと思わせるくらいに歪んだ眼差し。いつだってあたたかくて美味しい料理を作ってくれる手が、今はわたしの身体を力任せに締めつけているのだと思うと、痛みよりも、充足感でいっぱいになる。治は、わたしがそんなことを思っているのだと知ったら、どう思うだろう。何かと競い合うみたいに外堀を埋めたがる彼のことを、わたしは誰にだって知られたくない。治の可愛いヤキモチよりも、ずっとたちが悪くて陰湿だから、わたしはずっとそれを喉の奥にしまったまま、治の言葉を飲み込み続ける。
 抱え込まれた腕をそっと引き抜いて、治の頬を両手で包みこんだ。引き寄せるように力をこめると、治は顔を寄せて、二人の鼻筋が触れ合うくらい近くなる。

「……治が好き」

 唇よりも先に額をコツンと合わせた。ピントがぼやけるくらい近くにある治の目が、ぐらぐらと揺れて、ぽたりぽたりと、熱がしたたっていくように見える。背中に回っていた手が頭の後ろへ滑って、指が髪を一度梳いてから、髪の下をくぐって首の裏を支えた。少しカサついた指の先が耳の後ろをかすめて、背中が粟立つのがわかる。

「……ほんま、ずるいわ」

 そう、一言だけこぼして、あとは唇が塞がれた。この距離でなければ聞こえないくらいの声が、低く甘く響いて、キスの間中頭の中を痺れさせる。唇は乾いているのに、その内側は熱く濡れていて、唇同士を離すたびにちゅ、と水の音がした。キスの合間に漏れる吐息は、首筋に感じるてのひらと同じくらい熱い。息継ぎが追いつかなくて、鼻から抜けるような声を溢すと、腰を引き寄せる腕にいっそう力がこもるのを感じた。

「……気持ちいな」
「ん、もっとして」

 誘うようなことを言ったら、治がもっとわたしを好きになってくれるんじゃないか。そんな悪い考えで治の首に腕をまわす。少し首を伸ばせばまた唇が重なってしまう距離で、治が息を詰めるように喉を鳴らす音を聞いた。
 けれど、宛てが外れたのか、治はすぐに食らいつかず、少し距離を開けて視線を合わせるようにわたしを覗き込む。先ほどまでの無表情やきつく眉間に皺を寄せたそれではない。まなじりを赤くして、今にも溶けてしまいそうな。

「……俺のこと好きなん」
「好きだよ、一番」
「二番がいんの」
「いないよ。治だけ」

 それは本当のことで、これから先もずっと変わらない。治だけがわたしの好きな人で、わたしだけが治の心の溶けてねじれた部分を知っている。そうなりたいと願ってしまうわたしは、治の言うとおり、ずるい人間だ。
 離された距離を詰めるように、首に回した腕で彼を引き寄せる。晒された右耳に軽くキスをしたら、治はすぐにぎゅっと抱きしめてくれた。コートも脱がずにいるわたしを子どもみたいに抱え上げて、治がゆっくり眠れる大きなサイズのベッドに引き倒される。後ろから照明を浴びて、余裕のない表情でわたしを見下ろす治の顔が、一番好きだ。

「ッ今日、あかん。痛くしたら、殴ってな」

 そう言って口を開ける姿を見たのを最後に、目をつむる。あとはその牙で噛みつかれるのを、何も知らない顔で待っていればいいだけだ。

シロップまみれの牙で良ければ

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