冬服を着ても寒くなってきた、十一月の末。黒梨がいなくなって、三ヶ月と、すこし。現文の範囲である山月記は終わってしまいそうで、期末が近づいてきている。十二月に入りそうな、部屋のあちこちに残した514が、掠れてきてしまった、そんなころ。つめたい麦茶が、からだに痛い季節が、流れ込んでくる。
 金曜日、いつもみたいにすこしの手荷物だけを持参して、学校帰りに黒梨の部屋に泊まった。ひとりだと、ベッドが広く感じて、それ以上に、ふとんをかけても寒くて。心細い。どこかに黒梨はいて、でもここじゃなくて、わたしの手は届かない。それが、切なくて仕方ない。黒梨がここにいないことを、受け入れて飲み込んでしまいたくはない。
 ふとんを頭のてっぺんまでかぶっても、もう黒梨の匂いはしない。それが寂しくて、泣きたくなるけど、泣いたら黒梨に馬鹿にされるから、やだ。

 中間の点数はまぁまぁで、秋雨がノートを写し終えていなかった現文で、なんとか一位をとれたくらいだった。それでもわたしにはすごいことで、黒梨に褒めて欲しかったけど、アパートにいっても黒梨はいなくて、雪柳さんと梨紅さんが、わたしの頭を撫でて、わたしの点数を褒めてくれた。
 うれしくなかった。
 黒梨がいないだけなのに、それが本当だったとわかったとたん、世界がぜんぶ、つまらなくてくだらないものになった。テストを褒めてくれる黒梨がいなかっただけ。それだけ。でもおおきなことだった。それだけじゃなかった。
 学校にいくときもおなかが痛くて、帰りまでずっとそのままで、アパートについたからって、黒梨はいなくて。学校を休みたくて、そのたびにみんなに、学校いかなかったら黒梨に叱られるよって、諭された。
 足取りは重くて、秋の花粉はばしばし飛んでるし、わたしはずっと不機嫌でぶすったれていて不細工極まれりで、秋雨がよく苦笑いしていた。中間の前に秋雨がわたしに言ったことも、少なからずわたしの機嫌に影響していることに気づいていたのか、あまり深く、なにかを言われることはなかった。

(ねむたい)

 毎日、黒梨が帰ってくる想像をしてから、眠りにつく。もう、妄想でもいいくらいの、ぼんやりした夢。黒梨がそこにいて、わたしがいて。なんにもなくて、あたたかくて、抱き締められることも、キスもないけど、わたしは幸せで。幸せって、なんにもなくてもそこにいることだ。
 声が聞きたい。あいたい。となりにいてくれたら、どんなにか安心して眠れるんだろう。最近うまく寝れてないって言ったら、叱ってくれるかな。それだっていまはなつかしくて、遠くて、いとしい。離れることは、こんなに痛かったっけ。黒梨が星になる前だって、アパートから帰りたくないと駄々をこねて、黒梨を困らせたことはあったけど。こんなに痛くはなかったはずだ。
 ひとりなわけじゃない。自分で勝手に、まわりのぜんぶを拒んでしまっているだけだ。わたしは、黒梨を割りきってもよかったはずだった。誰もわたしに強制なんてしなかった。忘れるなと、黒梨すらわたしに言わなかった。

 でも、忘れたくなかった。
 割りきりたくもなかった。

 数字を書き残す手がふるえて、もう黒梨に会えないんじゃないかと怖くなっても、514を書き込み続けた。机に、椅子に、ノートに、下敷きに、消しゴムに、目につく場所に書き続けた。黒梨が帰ってきたら、どうするのかもわからない。ただ、忘れないために、割りきらないために、黒梨を見失わないように、ずっと書き込んだ。黒梨がわたしを、思い出せなくならないように。
 一緒に星になって。
 プロポーズみたいな、秋雨にだって似合わないくらいに綺麗な意味。黒梨じゃなかったら、笑い飛ばした。夢をみる女の子が考えたような、意味だったけど。わたしには大事だった。なにより大切だった。


 まだ、カーテンの外が暗い時間。なにかの物音に、目が覚めて、携帯をみると、真夜中すぎだった。机の上に無造作に放り出してある、黒いカーディガンを、パジャマの上から羽織って、部屋を出る。

「……だれ」

 電気もついていない、ほとんどまっくらな部屋のまんなか。ダイニングテーブルの柱に寄り添うように、もぞもぞと動く影に、問いかけた。影が動く。「あお、い?」耳にやさしい、低い声。きらきら光る、銀髪と、指先。カーディガンをきちんと着ながら、影に歩み寄る。

「こくり、だ」
「……満点です」
「ばか」

 ふざけないでよ、ばか。眠たくて、まだ意識もはっきりしてなくて、黒梨の銀髪と、うっすら光る、黒梨の困ったみたいな笑顔だけが、よくみえた。テーブルの柱あたりに座り込んでいる黒梨のとなりに、座る。冷たい床に、一瞬身震いした。
 となりに座ると、わかった。黒梨は除光液と布を持っていて、わたしが柱に書き込んだ、514を消しているらしくて。蛍みたいに光る黒梨の手に触れると、びっくりするほどつめたかった。星だから、なんだろうか。光るのも、つめたいのも。
「消しちゃ、だめ」
「書きすぎだろ」
「だめだもん。消しちゃだめ」
 だめなの。消したら、いなくなっちゃう。黒梨、どこかにいっちゃう。やだ。「いかないよ」うそ、いっちゃう。「いかないって」いっちゃったもん。黒梨、いなくなっちゃったもん。わたしのこと、置いて、星になっちゃった。
 眠いから、涙が出るとか、そんなんではなかった。むしろ安心して、必要以上に眠くなりさえした。黒梨の肩を叩こうとしても、力が入らなくて、ぱすぱすと頼りない音しかしない。叩くたび、黒梨の肩はぼんやり光った。幻想的で、夢の中にいるみたいだった。

「黒梨、光ってる」
「そりゃ、星だしな」
「蛍みたい。きれい」
「いや、星なんだけど」
「きれい。すき」

 蛍は虫だから、遠くから眺めるだけがいいけど、黒梨なら傍にいたいな。ずっとずっと近くがいい。距離なんてないくらい近く。
 抱き締めたりはしないまま、となりに座ったまま、黒梨を眺めていた。ぼんやりと。眠くて仕方がなかったけど、寝てしまうのはもったいなくて、黒梨の色素の薄い瞳をみつめていた。
「ポラリスに、花は咲いてた?」
「咲いてねーよ」
「咲かせてよ。おみやげに、ほしいな」
「はいはい、出来たらな」
 黒梨がわたしの額をこづく。額を押さえて、流れ込んできた冷気に、寒気がした。「もう寝ろよ、葵」どうして。顔を上げる。
 寝たらいなくなっちゃうのに?「いなくならねーから」「うそだ」本当だって、と、黒梨はわたしの頭を撫でた。黒梨の手だ、そう思ったら、とたんに眠気が強くなって、わたしはしぶしぶうなずいた。黒梨が満足げに表情をゆるめる。

 黒梨は部屋までついてきてくれて、カーディガンを脱いだわたしがふとんに入ったら、頭を撫でてくれた。

「俺の布団なんだけどな」
「一緒に、はいる」
「……そう、だな」

 おやすみ、葵。
 黒梨の手が、するりと離れる。目を開けられない。吐息が遠ざかる。(おやすみなさい、)意識の底でつぶやいて、それきりなにもみえなくなった。

(おやすみ、黒梨)


 土曜日の朝。目を覚ましたとき、まだ朝の七時で、二度寝が出来ると思ったけど、喉が渇いていたから、カーディガンを着て、ダイニングに向かった。夢だったんだろうか。いやにリアルな、ファンタジーとも言えない不思議な夢だったなぁ。黒梨にあいたいんだなぁ。わたし。つぶやきは宙に浮かんで、朝の冷えた空気に埋もれた。
 コップにつめたい麦茶を注いで、それを持ったまま、ダイニングテーブルの柱をみやる。夢の中で黒梨は、たしかこのあたりの数字を消していて、

「……あれ、」

 数字が、ない。
 ひとつ、ここにあった、514が。消されたみたいに、こすった跡が残ってる。誰が。

(葵、)

 声が、聞こえた気がした。




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