ダイニングテーブルの柱に、514を書き込む。514の、意味は、一緒に星になって。

(星に、)

 さっきまで、外は雨が降っていた。九月の残暑にはよくある、強い夕立。まるでなにかを伝えようとするみたいに、強く、降り続けていた。わたしが203号室のチャイムを押したのも、ついさっきだ。折り畳み傘ではどうにもならないと、学校に居残っていたから。
 時姫さんは、まだ学校から帰っていないらしい。アークくんが、なぜだかすこし、そわついていて、雪柳さんはいまさっき、梨紅さんを連れて夕飯の買い出しに向かった。雨が、止んだから。

 星がみえそうだな。

 雪柳さんはそう、言い残していった。梨紅さんはうれしそうに笑ってうなずいて、雪柳さんに手を引かれていった。
 わたしは黒梨の部屋で、カーテンを閉めきって、枕を抱き締めてベッドに横たわる。星になってしまって。黒梨はいま、なにをみてるんだろうか。わたしはわからなくて、ゆらゆら、してしまって、困ってるんだよ。
 この暗い都会の空で、眼鏡をかけて、がんばって、すっごくがんばって、ポラリスをみつけても、黒梨の声は、聞こえないし。笑顔なんて、わからないし。体温なんて、感じられないし。黒梨じゃないみたいで、なのに、それが黒梨だっていう、だとすれば有機質な光。

 慎さんの残した数字は、71だったらしい。慎さん自身はよく憶えていなかった、みたいで、愛さんがあきれたふうに助け船を出していた。残した数字がどんな意味を持つのか、それだけをぼんやりと、憶えていたらしい。

(黒梨は、三桁だったんですね)
(え、と、そう、ですね)
(しかも、割りきれる)
(それが、なにか)
(いえ、たいしたことじゃないので)

 割りきれたら、三桁だったら。
 いけないのだろうか。秋雨は三桁だったけど、奇数で、偶数では、割りきれなかったなぁ。割りきれるって、多分、偶数だねって、そういうことなんだろう。秋雨の数字については、三桁であることにしか、触れなかった。
 抱き締めていた枕を手放して、油性ペンを手にとる。キャップをはずしたけど、どこに書き込んだらいいのか、わからなくて、キャップをつけて、ペンを握りしめた。
 忘れてない。
 忘れてないから、それを証明したくて、書き込むけど。書き込めば書き込むほど、黒梨の感覚が遠ざかっていくような気がして、すこしだけ怖かった。
 黒梨の匂いがしない部屋に、いつまでもひとりで取り残されているのは、寂しかった。床を探る手が、星には絶対に届かなくて、遠くて遠くて仕方なくて、ここに来ることなんて、無意味でしかないのに。知ってるのに。

 割りきらせないでよ。
 約束、なんでしょう。忘れて欲しくないんでしょう。
 一緒に星になれって、そういう意味だって、言ったのに。割りきれたら、忘れちゃうよ。

(ひどい、よ)


 三橋、と、呼ばれた。そんな気がした。眠っていたらしく、まぶたが重い。視界も普段以上にぼやけて、誰がわたしを呼んでいるのかわからない。黒梨でないのは、たしか。
「三橋、起きて」
「……雪柳、さん?」
「そうです俺です。ほら、起きろって、お前の顔もみたいらしいから」
「だれが、」
「動けないからさ。はやく」
 制服のまま寝ていたわたしの腕をつかんで、部屋の外まで連れ出す。雪柳さんはなんだか上機嫌で、わたしはあくびをしながら、雪柳さんの背中を追っていった。

 リビングは、いつもよりにぎやかだった。わたしは油性ペンを握りしめたままで、楽しそうなみんなとは、どうにも噛み合わない表情をしていた。どことなく沈んだ、ぎこちない、星を探してうろつく、目をしていた。
 泣き声が聞こえた。わたしが書き込んだ514をみつめていたのをやめて、そちらをみる。ふたり、泣いていた。いつの間にか帰ってきていたらしい、時姫さんと、残暑用の、毛糸じゃないマフラーを巻いた、アークくん。泣いていたのは、ふたり。そのふたりに抱き締められて、困ったような顔をしている、

「あきさ、め」

 黒梨より、先に、星になった少年。割りきれない約束を残して、どこかへいった、わたしの友達。好きなひとに好きを伝えるより先に、約束を残した、ばか。
 やさしく笑って、泣いているふたりの頭や背中を撫でていた秋雨が、わたしをみつめた。痛いくらいに透明な瞳の色は、変わっていない。星になっても、星になったあとも、まだ。
 秋雨が、時姫さんの背中と、アークくんの頭を撫でながら、わたしになにか、伝えようとする。唇だけが動く。いやにやさしい、顔をしていた。

『ただいま』

 わたしも、笑おうとして、不細工な笑顔になった。秋雨があきれたふうに笑う。まだ泣いている時姫さんに、なにかをささやく。時姫さんの肩が揺れて、秋雨は満足そうに笑っていた。秋雨の着ている白いシャツの肩口は、涙で湿って、色が暗くなっていた。
 なにを言ったのか、興味がないわけでは、なかった。だけど訊いたらいけないように思えた。アークくんがそれを読んでも、秋雨はきっと、怒らないけど。わたしは時姫さんでも、アークくんでもないから。三人が知っていて、大切にすべきことがあって、わたしと黒梨だけが知っていて、割りきってはいけないことも、ある。
 わたしは知らなくていい。
 いつか、わかるかもしれないし。いまじゃなくたっていい。いまわたしが知りたいのは、黒梨がどこにいるかであって、秋雨が帰ってきたことはうれしいけど、それ以上にはならない。

 黒梨の部屋に戻ると、みんなの声が遠くなった。世界が区切られたように思えて、わたしはベッドの柱に、514を書き込んだ。いくつめかもわからない、約数。
 約数は、なにかをそれで割りきれるから、約数なのに。割りきりたくないなんて、おかしなはなしだ。黒梨はそんな矛盾なんて、考えずに言ったんだろう。黒梨らしい。

 こんなに寂しいのは、はじめてだ。
 秋雨は、約束を守った。慎さんも。黒梨は、約束を守ってくれるのかな。わたしが黒梨を思い出せるうちに、かえってきて。きてよ。星のままでいないで。

 声が聞きたいの。
 笑って欲しいの。抱き締めて欲しいの。ここにいて欲しいの。

 それも割りきって、捨てなくちゃならないくらい、黒梨の約束はつめたく光って、いたのかな。




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