グラスに入った水越しに、机に書かれた数字が揺らめく。淡い色をした平らな面のあちこちに書き込まれた、暗号みたいな数字。514。
 あなたはいない。
 いま、どこにいるのか、なにをみてるのか、なにを想っているのか、わからない。わたしは知らない。透明越しにきらきら光る数字は、あなたが最後に残した、言葉の代わりの約束で。


 秋雨が消えたのは、二年生に上がってすぐの、五月に入る直前だった。
 それまで話したことはおろか、見たこともない慎さんと、初めて顔を突き合わせた、その数日後。秋雨が消えたことを、黒梨は「星にさらわれた」と言った。ファンタジーな説明に、困惑するわたしをなだめて、黒梨はひとつずつ、ゆっくり説明した。いまでも鮮明に思い出せる。
 一生に一度、星にならなくてはならない、青年のこと。会えなくなる。代わりに残すものがある。黒梨はわたしの頭を撫でながら、そう言った。

(たったひとりにだけ、伝える)
(そう。ひとりにしか言えないから)
(じゃあ、黒梨はどうしてわかるの? 秋雨が、……星にさらわれたの)
(シンパシー的な?)
(なにそれ)

 三桁の、数字。123。それはわたし達部外者には直接伝えられずに、たったひとりにだけは、言うんだって。それは秋雨の場合、時姫さんだったとも、言われた。黒梨も数字が123であることは時姫さんに聞いたらしい。
 秋雨がいつか帰ってくるまで、時姫さんがそれを忘れなければ、秋雨はもう星にはならない。(だから責任重大なんだよ。愛はちゃんとしてたけど)時姫のことだから、無理矢理にでも忘れないんだろうな。黒梨は優しい目をしていて、傷んだ銀髪が星の欠片をまとったみたいに光った。
 星にさらわれるのに、どうして残すものが数字なのか、よくわからなかった。それ以上の説明は、なかった。黒梨も慣れっこ、というわけではないようで、寂しくなるなと、わたしの背中を叩いて、肩を寄せた。

 星に、さらわれる。
 一生に一度、青年は星になる。
 残すのは、数字。
 ひとりにだけ、直接伝えられる。
 数字の意味も、理由も、わたしはわからない。なんにも知らなかった。

 根拠もなく、黒梨はわたしの隣にずっと、いるんだって、わたしには数字を残さないんだって、そんなふうに考えていた。それはうれしいけど、ちょっと寂しいなって、秋雨と時姫さんを、すこしうらやましくも思った。
 優しく撫でてくれる、黒梨の手のひらがすきだった。はじめて黒梨をみたとき、星のひとだと思った。銀色をした髪が、星みたいで綺麗だと思った。それは多分、黒梨が星にならない代わりだって、思っていたけど。

 秋雨のいない日々は、最初は不便だったり寂しかったりしたけれど、いつか帰ってくるんだろうと思えば、そのうち平気になっていった。大事な友達なのだから、寂しくないわけではないけれど、時姫さんがノートの隅や、単語帳に書き込んだ数字を眺めて、泣きそうにしているのをみていたら、なにも言えなかった。
 アークくんは毎日暇そうに、たまに秋雨の電波を探そうとしているのか、厳しい顔をしていた。夜になると、微弱ではあるけれど見つかるらしくて、うれしそうにしているのを、よく見かけた。電波があるということは、秋雨はどこかに存在しているということだ。時姫さんも、アークくんの報告を聞くと、すこしほっとしていたみたいだった。

 秋雨がいなくなってからやって来た夏が、一番辛い時期に入ったころ。わたしの誕生日をすぎたくらいに、黒梨は星にさらわれた。
 まだ、秋雨は帰ってきていなかった。

(葵、ちょっと)
(なに?)
(いまから、教える数字、絶対忘れるなよ)
(……すうじ)

 最初は急すぎて、わけがわかっていなかったけど、そのうち思い出した。数字を残す、青年の話。
 ねぇ、まさかとは思うけど、黒梨、(いいから)黙ってろって。断ち切られた言葉を飲み下して、黒梨がいままでで一番淡く笑うのを、みていた。笑わないで欲しかった。実感なんてなくて、お遊びみたいに、黒梨は三桁の数字を口にした。
 意味があるんだよ。黒梨はそのへんにあったメモとボールペンを手にとって、さっきわたしに伝えたばかりの数字と、その下に、短い言葉を書いた。そこまでされてもまだ、実感がわかなかった。黒梨がいなくなることなんて、考えられなかった。寂しいとも思わなくて、平気だとも、思えなくて。

『514』

『一緒に、星になって』

 プロポーズみたいな言葉だと、思った。秋雨は数字が違ったから、意味も違ったのだろうか。黒梨はどうして、この数字に、こんな意味を持たせたんだろう。514なんて、星にもなんにもかからない数字なのに。
 メモを切り離して、折り畳んだ、そのちいさな紙を、わたしの手に握らせて。漠然とした不安に、黒梨の色素の薄い瞳を、必死に見つめていたら、黒梨は真面目な顔をして、わたしの髪を指で鋤いた。

(不安そうにすんなよ、帰ってくるから)
(わかん、ない、そんな、わたし、)
(不安そうだよ。馬鹿みたいに)
(馬鹿、じゃない、不安でもない。わたしは平気だよ、だって黒梨は、)

 あなたは、帰ってくるって言うから。だから、わたしは不安にもならないし、泣いたりしないし、焦ったりもしないよ。ひとりだからって、迷わないから。だってあなたは星になっても、わたしを憶えていてくれる、はずでしょう。
 そうだなって、あなたは笑った。わずかにふるえるわたしの手を、おおきな手のひらで包んで、星には似合わないくらいに、あたたかい瞳をした。

(どこでお前が泣いてても、絶対わかるよ)
(なん、で)
(ポラリスに、なるから。俺は絶対、空から消えないから、お前が俺を呼んだら、すぐそこにいるよ)
(……わたし、ポラリスわかんない)
(あぁ、目悪かったもんな。でも、ほら、俺がみてるから)

 わかんないよ、あなたがわたしを、みてるかどうかなんて。
 あなたは自分がいなくなるのに、不思議なくらい落ち着いていて、わたしはあなたの声を聞こうと、笑顔をみようと、肌に触れようと、ずっと必死だった。
 わたしの左手に握られた514は、まるでプロポーズの数字みたいだと、言ったら笑ってくれる気がした。抱き締めてくれるかもしれないと、思ったけれど、それは帰ってきたあなたに、うんと綺麗な笑顔を浮かべて言ってあげることにしよう。
 あなたはなにをみていたのだろう。揺れる数字と光は、噛み合うものではなくて、寄り添うものでもなくて、それをあなたは約数と名付けていた。数学? と尋ねたら、「約束の数字」の略だと、あっさり流された。単純な、言葉遊びだったらしい。

 秋雨の約数は、123だった。
 あなたは、514。
 約数は、あなたそのものだった。


 いま、あなたはいない。
 油性ペンを握り締めて、冷蔵庫の壁に、514を書き込む。203号室には、わたしが書き込んだ数字が、あふれかえっていて、時姫さんみたいに、ひそやかでかわいらしい数字の憶え方では、なかった。
 冷蔵庫に書き込まれた514は、これで六つ目。夕飯を作りに来る雪柳さんが、冷蔵庫を見て、怨念を感じなくもないとか言って、梨紅さんに叱られていたなぁ。
 確認作業だから。これは。

 黒梨がいつか帰ってくるための、わたしの約数の答え方だから。




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