:無重力と彼
:響と番井
「番井」
「どうした」
桜が舞うのは得意ではないこと。数え切れないものは怖い。液体のようにいつの間にか身体の中にするりとしみこむようで、
「溺れるような気がした」
「そうか」とだけ彼は言って、俺が握り締めたままの服のすそを引いて、ほどいて、手を握った。
「じゃあ、溺れるときは一緒だ」
桜の落ちるよりも早く、俺たちは9.8m/sに逆らわずに落ちている。
:付加価値戦争
:歩と柚浮
「俺、時々思うんだよね」
ちょっとは有名になったりしてさ、なんか少しくらいネームバリューというかそういう付加価値みたいなもんでもあったらいいな、的なことをさ。
酒に酔った弾みで笑って言うには、ちょっとだけしんどずぎるようなこと。
例えば君と別れた後に、君は俺のこと嫌いになっているだろうけれど、有名なアレと付き合ってたとか、それがいやでもせめて知り合いだったとか。そういう価値で、ちょっと残ったら良いなって言う。でっていう。
「何、くだらないこと言ってるんですか」
あんたが良いから付き合ってるんですなんて、きっと酔っ払いの幻想だけど、君が言ったような気がして笑う。
ああ、そんな風に顔を歪めて、泣きそうにしたりなんかしたらさあ。
ヒドイ人間だからうれしくなっちゃうよ。
:桜歌
:日宵と蒼陽
出会いと別れの季節にはうってつけの季節だった。桜が咲くのなんか悲しいし、苦しいし、面白いことなんて何一つなかった。
春なんてものは基本的に大嫌いで、暴力的なセンチメンタルにはいつだって殺意があった。
「ハァ? 花見?」
「すごい咲いてるんだよ、満開で」
「いや、そりゃ俺もね外出てるからね知ってるけども」
「うん」
「そんなん、俺なんて誘ってどーすんだよ」
番井でも誘えば、と、言うのは辞めておいた。たぶん。絶対こいつはもうその夢は見終わった後だから。
「日宵には花が似合うと思ったから」
ていうか、桜が。ピンクでばかっぽくて、そういうところが俺に似てる? とかいう三重くらいに痛々しい自虐は飲み込んで、蒼陽なんて名前からしてお前のほうが似合うだろって、笑った。
桜にも、春にも、いいおもいではない。いつもこの季節は不幸が振り込んできた。大切にしていた青色のグラスで手を切ったのも春だった。だったのに。
「場所、どこ」
「え、」
「え、じゃねーだろ、え、じゃ」
ああ、ばかだなそういう顔。俺にもしちゃうんだ。泣くぞ。俺じゃなくてあいつ。桜なんかよりもその顔のほころぶ方がずっと見たくて。俺はこれからの春はいつでも桜が咲くのを待つのだろうな。
:ピアニッシモ
:柳哉と雲雪
上書きはいつも上手くはいかなくて、俺の手にいつまでも残ったピアニッシモ・アイシーン・クリスタ。
「柳哉が煙草吸ってんの、俺、好き」
銘柄を変えるタイミングがなくて、随分前に付き合っていた人のものを真似たままだ。その前はアイシーン・グラシア。先生の煙草。我ながら重たい上に雑。そんなことは知りもしないで、目の前の男は俺にへらりと笑った。
「雲雪だって吸うじゃん」
「そうだけど、柳哉が吸ってるのがすきなのとは別だろ」
年上のこの男は、ばかで、不幸で、どうしようもないのだけれど、俺はそれがやっぱりどうしようもなく好きで。
「でもこの煙草、柳哉は好きじゃないんだろうな」
「何それ。好きで吸ってるよ」
「うそつかないでよ」
しん、と、心の奥深くまで届いてしまいそうな声と視線。不幸せの数だけ人の心を見て触れてきたのだろう君の、その匂いと呼吸が憎い。
無言の数秒は彼にとってどのような意味を持ったのだろうか。おもむろに煙草を取り出して火を点けた。バージニア・エス・アイスパール。この人がこの華奢な煙草を選んだ理由を俺は知らない。けれど、それでも。
「俺は雲雪が煙草を吸っているのが好き」
じきに俺の煙草が変わったら、君は三年気が付かないで。気が付かない振りをして、笑ってみせてほしい。
:刷り込まれる
:歩と柚浮
「なんで吸ってんの」
「……特に意味とかはないですけど」
慣れた吸い方をするもんだから、意外だとかなんだとかばかにしてやるタイミングすら逃したままだ。いつぞや三橋が吸ったときも思った。その指になんて似合わないのに、なんて自然に吸うものだろう。
「煙草って美味いかなー」
「吸わないんですか、あんた」
「あっ、なんだその『意外』的な顔! どうせクソバンドマンは吸うもんだと思ってんな?」
とか言ってみちゃたりして、正直に言いまして時々吸うんですけどね。言いながら机に置かれたままの彼の煙草に手を伸ばす、「痛い!」「学生からたからないで下さい」「学生吸わないで下さいー」容赦なくはたかれた。
ふう、と、彼の薄い唇から細く煙が吐かれる。独特の香りに少しだけ目を細めた。この匂いは好き。煙も、匂いも、好きだし憧れるんだけど。
「ご自分で買ったらどうです」
「いやー、だめなんだよね俺。続かなくって」
憧れる。一つの銘柄の匂いの記憶と、自分の名前がつながること。ピースのインフィニティはゆらちゃん、ピアニッシモは日宵くん。
そうなんですか、と関心なさげな君に俺のノドが弱い話しはまだしてやらない。存分にこの部屋で吸って、そしていつか怒って。
「いつも吸ってのはこれ?」
「まぁ、大抵」
匂いに自分の名前をつけられない俺は、君の名前を匂いにつける。
:11th、
:響と番井
「灯取」
と呼ぶと彼は少しだけ驚いた。
「何だ、響」
「呼んでみたかっただけ」
灯取という名前は少しだけ寂しい。ふたりでいるのに、ひとり。ひとりなのに、つがい。ざんこくな名前だ。
「名前があるっていうのは、呼んでも良いかも知れないと思わせてしまうものだから」
もしくは、呼んでみたいかもしれないとか、呼ぶべきなのではないかとか。
俺が君の名前を呼んだのは今ので11回目。まだ11回なのか、もう11回なのか、灯取が今まで何回他人にその名前を呼ばれてきたのか。
「良いんだが、少し驚くな」
「そっか」
これから俺は何回君のことを番井と呼んで、何回灯取と呼ぶのだろうか。どちらがどれだけ多くなるのか、いつしか呼んだ回数が思い出せなくなるだろうか。例えば呼び名が変わっていくとき、それは名付けに非常に似ている。
「番井」
「なんだ」
「灯取」
「そうだな」
そして12回目はたやすくやってきた。
手書き小説まとめ
2015.12.16編集