みじかいゆめ | ナノ



2月15日のチョコレート



どんよりとした2月15日の朝だった。

身支度もそこそこに済ませ、袖を通したスエード革のジャケットが重く、生乾きのような着心地の悪さを感じさせるのは気持ちの問題だろう。

眩しい朝日に誘われても日課にしている朝駆けはどうしても気が進まず、まだ誰も来ていない隊長の研究室へと足を向かわせる。

扉を開けると、物盗りでも入ったのかと思ってしまう相変わらずの散らかり様。自分の定位置まで足の踏み場を見繕って進むのには、もうすっかり慣れっこだ。

まだ眠っている大勢の仲間達と同じ部屋にいるよりも、行き場に困って沈黙する沢山の物たちの中にこじんまりと身体を埋もれさせている方が落ち着けた。こんなに今の気持ちにしっくりくる居場所は他に無い。
この部屋を巣と化している隊長に、今日はちょっぴり感謝した。


引き出しを引くと、迷子にしてしまったチョコレートが今日も私を見ている。

「こんなに綺麗なのに、迷子にしちゃってごめんね・・。」

ふっくらとしたリボンの輪は、何度も納得がいくまでやり直した結果だった。
失敗して解いたリボンはシワが付いてしまうので、用意していたリボンでは足りなくなって急いで店まで走て買い足したリボンだった。

調査兵団に入り、もうすぐ一年半になる。

去年の2月14日は特にこれといった目的は私にはなく、友人とチョコを作り、彼女の背中を押し、無事二人が頬を染める横顔を遠目に見守ってほっこりし、自分の取り分を残して余った分を適当な同期に配り、1日を終えていた。
ベッドに潜った時に後悔することも何も無かったし、しばらくつまみ食い出来るチョコレートの存在が嬉しくて寝付きも良く、我ながら呑気な幸せ者だったと言える。

そんな私も死の気配に怯える職場で一年半の間に憧れから恋心を育ててしまい、日に日に大きくなる気持ちを抱えきれなくなってしまったのだ。

おかげでこの一年半は、至極幸せだった。

書類の上から目だけを出してこっそり眺めたり、廊下で鉢合うと驚きと嬉しさの余り反対になった敬礼を鼻で笑われた日には1日中顔の赤みが治まらず、結局熱が出て友人に苦笑された事もあった。

踊るように楽しく過ぎた日々を一つ一つ振り返ると、昨日から下がりっぱなしの口角も緩く持ち上がってくる。


だから今年は満を持して、恋人へのチョコレートを作る友人の隣でチョコレートを作ったのだ。
贈り先の決まったチョコレート。
あの人の事を想えば、生地をかき混ぜる手にも愛が混じった。

出来たのは味見用の小さなチョコレートと、あの人用のチョコレート。
大切な、何にも代え難い2つのチョコレートだった。

じわりと視界が歪み、慌てて上を向いて涙が溢れるのを防ぐ。
昨日布団の中でこっそり夜中泣き通して痛いほど腫れているというのに、なぜまだ濡らそうとするのだろう。私の体なら、私の要望を聞いて欲しい。もう立ち直りたいのだ。

背もたれに体を預け、木の椅子が軋んで音を鳴らす。

瞬きをせずに天井と見つめ合い、涙を乾かしていると視界に顔がぬっと現れた。

「わわわ!!」

「こんなに早くどうしたの?」

モブリット副隊長だった。
そういえば、いつもこの部屋に最初に入るのは副隊長だったけれど、まさかこんなに早く来るなんて・・迂闊だった。

「いや、あの、えっと・・!」

煌びやかな箱が見つからないうちに、後ろ手でそっと引き出しを閉める。

「チョコ・・!チョコレートはどうでしたか?!」

「ああ!ナマエと作ったんだったね。すっごく、美味しかったよ。」

焦りながらも質問を逸らし、副隊長はチョコレートの話にニッコリと笑う。苦労の多い副隊長の心からの笑顔は私たち部下の心を癒し、それを支えているのは紛れもなく友人なのだから、さらに幸せを感じるというものだ。

「そうですか!良かったです。足を引っ張らなかったか心配で。」

「ナマエが一緒に作ってくれるから心強いんだって喜んでたよ。仲良くしてくれてありがとう、なんて言うのは変だよな・・はは、でも、これからもよろしくね。」

副隊長と友人は、この一年半で私の憧れのカップルになるほど信頼関係を築いている。
友人は副隊長と恋人になってからも私と疎遠になる事はなく、むしろ副隊長までよく世話を焼いてくれるようになって申し訳ないくらい、二人に挟まれて居心地が良かった。

二人が幸せなら、私はそれでいい。
”わたしも”なんて望まなくても、こんな気持ちになれるんだから。

「ふふ、勿論ですよ!
こちらこそ、私の親友をよろしくお願いします!」

「ナマエ、また敬礼逆になってる。
俺は気にしないけど、兵長に見つかったら怒られるぞ。」

「あ・・、」

しまった、と、思った。

鼻で笑い、「心臓は左側だ馬鹿。」と言われたあの一瞬の兵長の顔が脳裏に眩しく浮かんで、顔が歪んでしまった。

俯いた私に、副隊長は何を思うだろう。

恋心も、チョコレートを渡せなかったことも。

まだ膿んだ傷口に気づかれたくはない。


「ー・・ナマエは・・・誰かに渡したの?」

「・・・いいえ。」

副隊長が溜息をつき、隣の椅子に座った。

「どうしてか、聞いてもいいかな?」

握った拳が震える。

一番怖いのは、副隊長に話して兵長に気持ちが伝わってしまうことだった。

昨日、伝えるつもりだった気持ち。

バレンタインというのは、本当にいいイベントだと思う。
気持ちは受け取って貰えなくても、チョコレートは受け取って貰える。

気持ちだけが兵長へ先走って芽を摘まれてしまったら、何も残らない。
残るのは傷と喪失感だけ。
そうなれば、枯れたような私を死が飲み込むのは早いだろう。
ほとんど兵長への想いを糧に生きてきたようなものだった。きつい鍛錬も日課の朝駆けも、遠すぎる兵長に少しでも近づくためのものだ。


「今年はナマエも本命なんだって聞いてたからさ・・渡さないなんて勿体無いと思うんだ。

だって、あんなに美味しいチョコレートなのに。」


ああ、もう駄目、泣いてしまう。

副隊長の顔が曇りガラスの向こうみたいに見える。

涙が頬を伝わって、首筋を濡らす。

副隊長は頬笑んでいると思う。
部下であり、恋人の親友である私が感情を破裂させ、スッキリしてしまうのを待っている。

きっと顔を覗いた時から、泣き出しそうな全身に気づいていたんだろう。

優しさが沁みて、痛い。

なんで私、昨日チョコレートを渡さなかったんだろう。

渡せなくて、去年みたいにつまみ食い用にしようって思った。
いい方向に考えようとした。


でも無理だった。

あんなに一生懸命結んだリボンすら、崩したくないんだから。


「おい。」


二人きりの部屋に発された一言で、あれだけ勝手に溢れ出ていた涙が止んで、驚いた瞳が開く。
胸がドキドキし始めて、激しさに息苦しさを感じる。
聞き間違えるはずがなかった。

「モブリット、お前が部下を泣かせるほど厳しくやってるとは思いもしなかったが・・鬱憤でも溜まってんのか?」

「へ、兵長!違いますよ!な、泣かせてません!いや、泣かせたかもしれませんが決して憂さ晴らしなどでは!!」

敬礼する副隊長を片手で制し、「まああんな上司なら仕方ねえが。」と私の目の前まで歩み寄り、足が止まった。

「お前は腹でも痛えのか?」

俯いた鼻先で見つけた兵長の香り。いつもこんなにいい香りがしてたんだ。知らなかった、なんて。
こんな時でも兵長に夢中なのに。

首にくっつけていた顎を長い指先で掬い上げられ、腫れた瞳に切れ長の涼しい瞳を当てられた。

「〜っ!!」

見ないで欲しい。こんな真っ赤で腫れた瞳を。

初めて間近で見た兵長が好きでたまらないって、染め上がる顔を。

「モブリット、こいつは今日休むとハンジに伝えてこい。
お前、体調悪いだろう。そんな状態で訓練に出ても身につかん。休め。」

「・・はい・・。」

呆れられちゃったな・・これは・・。
体調管理は兵士の基本。当たり前のことなのに、兵長に目をかけてもらった初めてがこんな台詞なんて・・。
いつか、いつか認められようと必死に登ってきた坂道から、転げ落ちてしまう。

「なんで泣く。」

「え・・?」

「モブリットにフラれでもしたか?」

「ちが・・!」

兵長は、副隊長にフラれた現場に居合わせたと思っているのだろうか。
そんなこと、「全然違いますっ、副隊長にはお相手もいます!私だって・・!」

好きな人が、います、と。
言ってどうなる。

好きな人は、私の好きな人は、

今目の前で怪訝な顔をしている兵長なのに・・。

「ほう、お前にも恋人が居たとは知らなかったな。」

「い、いえ、あの、恋人なんかじゃないんです・・一方的なもので・・。」

兵長にこんな話するなんて、どんな拷問なんだろう。

「それは兵長です」なんて白状する勇気なんか、私には全くないのに。


「昨日何してた。そういう日だったんだろ?ケリつけるにゃ最適な日だったと思うが。」

部屋を見渡し、「クソ眼鏡のやつ汚ねえなチクショー」と丸められた紙くずと崩れ落ちそうな書物に眉を顰める兵長の気持ち。
私に関心がないことだけは、確実な事だ。
そんなことは、分かっていたけど・・・でも、それでも・・。

「渡せなかった、んです・・。」

そう言えば、足元の紙屑を見ていた目線が私に向けられる。

兵長、貴方に渡したかった。でも出来なかった。

「兵長は、沢山もらっていましたね。」

机に積み上げられたチョコレートたち。
一つどこか動かせば、途端に雪崩れ落ちてしまいそうなほどの山を見て「毎年恒例の光景なんだ」と肩をすくめる隊長の隣で、私もその山にチョコレートを積み上げることが出来なかった。

去年は、兵長のバレンタイン事情に目を向けようとも思っていなかったから、あまりの光景に完全に怖気づいてしまった。

迷ったけれど・・1日中迷ったけれど・・あの山には積めない。その気持ちは変わらなかった。

だってこのチョコレートは、大切なんだもの・・。

贅沢だ!って、自分を追い立てても、あの沢山の中の一つとしてじゃなくて、私だけの想いなんだって。

「沢山貰ったからって、嬉しいとは限らんがな。」

兵長が一つ紙屑を拾って、溢れ返っている屑入れの山に乗せた。

「お前の渡せなかったチョコとやらはどうした。」

「え・・?あ、あれですか?
もう捨てようと思って・・そこに。」

「出せ。」

「は・・?」

「出せと言っている。」

「は、はい。」

何が何やら分からないままでも、身体は兵長の声に従う。
このチョコレートは大切な物だったけれど、兵長にならどうにだってされてもいいけれど、足蹴にするのだけはやめて欲しい。そんなことされてしまったら、生身を蹴られるよりダメージが大きい。
引き出しを引くと、やっぱりチョコレートは私を見上げている。

「バレンタインに欲しい奴から貰えた事は一度もない。寄越せ。」

あんなに女性陣の好意を総なめにしていて欲しいチョコが貰えていないなんて不思議な話だけれど、つまり兵長は片思いなのかと行き着いて肩も落ちる。
ズイッと差し出された手に急かされ、戸惑いながら、でもどこか浮つく気持ちを抑えて、ぎこちない動きでチョコレートを乗せると、兵長の手の上でリボンが誇らし気に見えた。

兵長の指先がゆっくりとリボンの片方を引っ張り、しゅるるっと擦れる音がして解かれていくにつれて、私の後悔もほぐれていく。

どんな形であれ、兵長に開けてもらえたのだ。
兵長が私のチョコレートに手を伸ばすことに特別な理由は無くとも、自分の手で捨ててしまうよりずっといい。

蓋が取り払われ、パウダーを纏ってめかしたチョコレートの粒が姿を見せる。

包みを全て丁寧に解いた兵長の指は、迷うことなく真っ直ぐにチョコレートを摘み、口に運んだ。

「え、え?あの、え?」

「・・・・・。」

兵長の口が動いている。

渡せなかったチョコレートを食べている。

信じられない。
バレンタインデーに渡せていなかったのに。もう気持ちごと諦めようとしたのに・・!

もう一つ、指がチョコレートをはさみ、目の前に掲げられる。

わ、わたし・・?!

「口開けろ。食べたそうな顔しやがって。晩飯を食わねえからそうなるんだぞ、ったく。」

「あ、あの!あの!」

「早く。」

有無を言わさずな瞳にそっと開いた唇に、兵長がチョコレートを捩込む。

唇を掠めたあり得ない指先の感触が、不謹慎なことをしてるような気がしてすごく恥ずかしくって、チョコレートを味わうどころではない。

それでも「満足か。」の言葉に必死に頷いて、口内で兵長に捻じ込まれたチョコレートを溶かした。

「捨てようなんて考えるんじゃねえぞ。」

優しく、呆れたように、私を見る兵長がいる。


「付いてる。」

じわじわと込み上げるものを慌てて指で拭ったあと、右側の口角をなぞる。

「ちげえ、反対側だ。
お前はどうして何もかも反対なんだ。」

左の口角を拭うと思った兵長の手は、肩を掴んで指がうなじに並ぶ。

「心臓も、口に付けたチョコレートも、昨日だって。なあ?」

ぐっと引き寄せたのは手だったのか、私を見る兵長の目つきだったのか。

ぶつかった先の唇が信じられなくて、それでもついばむ様な動きに少しずつ着実に溶かされて、し雪崩かかる身体を支える兵長の身体はビクともしない。

「お前が持って来るのを待ってた。」

キスの合間に言い残された言葉。

「お前が好きだ。」

これはバレンタインに渡せなかった後悔に伏せる私の夢?

ゆっくり離れた熱が名残り惜しくて瞼をあけると見えた兵長の顔は想像も出来ないような毒の抜けた顔。
手の届かない人だと思い込んでた。
そっと頬に触れると、照れ臭そうに目をそらす。

「・・・ー兵長、兵長。」

「なんだ。」

今私が触れているのは、人類最強とか団の兵士長とかそんな肩書きを取り払った、

「好きです、私。兵長が好きです。」

考えるだけで熱を出してしまうくらいに好きで仕方のない、私が好きな人。

「遅えよ馬鹿。」


ねえ、来年は落ち込んだり迷ったりしないよ。
ちゃんと間に合うように美味しく作って持って走るから、だから今みたいに抱き締めて、とろけるようなキスをして、新しい愛の言葉をください。

例えば「愛してる」って囁いてくれたら・・・・倒れちゃうかもしれないけれど。

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