一番気持ちよく歌えた日


ああ、やっぱり。
壇上に立つエルヴィンと目配せし合えば、益々気が重くなった。

「ミョウジ家のご令嬢」とエルヴィンが言葉を発した途端、それまで静かに様子を伺いナマエを品定めしていた兵士達がどよめいて会場中が一気に騒がしくなった。

ついさっきまで「すげえ綺麗なひと」とか「何か同じ造りだとは思えないよな」とか好き勝手に祭り上げていた隣の男達に至っては、「げげっ!」とこちらまでゲンナリしてしまうような失礼な声を出し、「どうりで余裕ある訳だよな」と吐き捨てた。

せめぎ合い収拾のつかなくなってしまったどよめきに、なす術もない。
エルヴィンが怒号を張り上げ、黙らせたところで慰問の雰囲気もクソも無くなってしまっているのだから。

だから言ったのにな、止めておけと。

もはや晒し者になりつつある壇上のナマエはどんなに酷いカオをしているだろうと憂鬱な気持ちを溜息として吐き出す。
始めこそ敵意を剥き出しにしちまったが、話してみれば自分にとってナマエはそれなりに悪くなく、後で一言二言、それとなく慰めるくらいはしてやってもいいと段取りを考えていたのだ。

そのうちに手拍子でブーイングでも上がりそうな最低の雰囲気に満ちた足元の上に立つナマエは何を考えているだろう。立ち去るタイミングでも計っているのだろうか。
どんな状況でも歌い上げると言い切っていた眩しいナマエを思い出し、思い切って表情を伺う。悪い人間では無いと知っている分、傷付いた顔を見るのには勇気が必要だった。

しかし、面喰らったのは俺のほうだった。

ナマエは予想していた全ての表情とは全く見当違いの涼やかな表情で、何も言わず、言おうともせず、自分に指を指し隣とコソコソやってる俺達を眺めていたのだ。

その表情は楽しそうにも見えた。
幼い頃に通りでちらりと目にした、母親が手を引く先の子供を見ているようなそんな表情だった。

どうしてそんなカオが出来るんだ。
今この会場を満たしているのはお前に向けての誹謗中傷の言葉だ。

いつも敬われ、甘ったれた言葉に塗り固められたお嬢様の反応じゃねえだろう。
負けじと感情的な言葉を投げ付けたり、受けた屈辱をすぐに持ち帰って父親に見せびらかし、制裁を請う。
そういうのがお嬢様じゃねえのか?

でもどういう訳か、ナマエのその顔を見ていると自分も楽しくなってきた。
おかしな話だが、ナマエの歌声を聴いた事も無いのに「聴かせてやれよ」と期待に胸が高まった。わくわくしている、というのだと思う。

一人場違いな気持ちを抱える俺の表情が浮いていたのか、示し合わせたようにナマエがちらとアメジスト色の瞳を俺に見せて一層笑みを濃くした後、瞼を下ろした。

始まるのだと気付いていたのは恐らく俺だけだろう。

一度の言葉も動揺も見せなかったナマエの唇がようやく開き、すぅっと酸素を吸った様が見えて、息を飲んだ。

そして吸い込んだ空気を歌声に変えて送り出し始めた途端、会場の雰囲気は一転した。

周りの声に紛れて微かに聴こえるくらいの一人の歌声が、あれだけ騒々しかった誹謗中傷の声を潮が引くように黙らせていき、鳥肌が立つほどの才能を思い知らされる。

ついにナマエの美しいとしか言いようの無い歌声だけが会場を、ここにいる全員の意識を支配した。

ー「歌っている間だけでも、嫌なこと全て忘れさせてみせる。
勿論貴方も。一人残らず全員よ?」

自分を鼓舞させてるんだと思っていた。
そうでもしないと足が竦んでしまうんだろうと。

見回さなくても分かる。

全員がナマエに釘付けになっていて、言葉を奪われているのだと。

壇上でいかにも貴族らしい上品なドレスを身に纏い、時折切なそうに顔を顰め、その歌声を響かせ始めた瞬間から、嫌悪感、拒絶、苛立ち。全てをナマエは棄てさせた。

目を閉じて空っぽの身体を歌声の中に放り出すと、自分もこの声のように澄んでいて何処までも行けそうな錯覚に落ちて行ける。

とっても綺麗だ、と。素直に認めた。
ナマエの歌声は人柄さえ手名付けてしまうのだろうか。

佳境に入ったらしく、洗練された美しい歌声は踊るように抑揚を増す。

一体どこから絞り出しているのかと驚く程に響き上げる声量と対極し、まるで囁いてくるような声質が鼓膜を通っていくのは快感だった。

今日この歌声を聴けて良かったと、誰もが心の底から感じていた。

歌声の主がミョウジ家の令嬢であることなど、どうやら隣の男が泣き始めたらしいという事くらいに、どうでもいいことだった。