祭りの女

なんとなく嫌な予感はしていた。

先日吉原で大きな捕物があり怪我人が多数出たおかげで人手が足りない百華の手伝いをしてくれ、という日輪から依頼は、銀時の常人より優れた第六感に警告を鳴らした。
咄嗟に断りの言葉が口を衝いて出たが、今月の給料もロクにもらっていない従業員達の強烈な蹴りで万事屋を追い出され、それでも話だけ聞いて断ればいいとひのやを訪れてみたのだが、抗い難い迫力のある笑顔を浮かべた日輪と口より先にクナイが出てくる月詠を前にそんな抵抗は通用するわけがなかった。
嫌々依頼を受諾してみれば、珍しく怪我をするような物騒な事件にこそ直面しなかったが、やれ昼飯を買ってこいだの角町を一周して見廻りに出ろだの顎で使われる始末。
挙げ句の果てに先日の捕り物の影響で壊れた家屋の修理までさせられることとなり、体力仕事ばかり押し付けられた銀時はヘトヘトになりながら1日を終えた。
ああやっぱり自分の感は当たっていた、と項垂れながらも日輪から受け取った報酬で暖まった懐を撫で、まあ、こんな日もあるか、と家路に着こうとしたところに待っていたのは、吉原の英雄様、と騒ぐ遊女たちからの遊郭へのご招待。
禍福は糾える縄の如しと今朝から感じていた虫の騒ぎなどすっかり忘れて喜んで座敷に上がれば、待ち構えていたのは酒乱の死神太夫だったのはもはやお約束であった。
やはり今日はロクな日ではないと再びうなだれたころにはお座敷遊びという名のスパーリングが始まる。
お猪口一杯で酔っ払った月詠にアッパーカットを決められながら、銀時は結局酒の一杯も飲まないうちに意識を飛ばすことになった。
薄れゆく意識の中で今朝見た結野アナのブラック星座占いを思い出す。

本日最もラッキーなのは天秤座でもじゃもじゃ頭のあなたでーす。
仕事終わりに素敵なご褒美が待っているでしょう。

太夫からの拳はご褒美なのか?
お座敷でボクシング体験はラッキーなのか?
どこの業界のご褒美だよ!と銀時は心の中で結野アナへの恨み言を叫んだ。

***

掠れ声のような細い弦の音。
他の座敷から漏れ聞こえてくる酔客と遊女の姦しい笑い声よりも更に小さなその音。
空気をそっと揺らすか細い音が銀時の意識を浮上させた。
最初に視界に映ったのは見知らぬ天井。
鼻をくすぐるのは部屋に焚かれた伽羅の香。
聞き取れるのは座敷遊びに興じる誰かの壁越しの声。
そして、弦の音。
ここはどこだろうか。

「お目覚めですか?」

ぼんやりと五感で現状を把握しようとした銀時に、小さく声を掛けられた。
弦の音が止む。

「…ここ、どこ?」

夢うつつのまま聞こえた声に向けて問いかければ、ひんやりとした手が銀時の額を覆った。

「お倒れになった座敷の奥の間です。」

お熱はないようですが、御気分はいかがですか。
額に当てられた手が遠ざかると、見知らぬ女が顔を覗き込んできた。
遊女にしては地味な着物。
化粧も簪もかぶき町の娘たちよりは派手だが、春を鬻(ひさ)ぐ女にしては落ち着きすぎた雰囲気。
記憶を飛ばす前には座敷にいなかった女が、気遣わしげな顔で銀時を見下ろしている。

「…月詠にぶん殴られてそのまま気絶しちまってたのか。」
「はい。月詠は別室で横になっています。」

少し、飲み過ぎたようで。
月詠がこの場にいないことを詫びるように目の前の女は眉を下げた。

「いや、あいつがここにいてもどうせまだ酒も抜けてないだろうし、またぶん殴られるだけだから。いない方が俺も心安らかに休めるわ。」

本心から安堵のため息を吐くと、女は銀時から身を引き静かに頭を下げた。

「申し訳ございません。月詠も悪気はなかったのです。旦那様とご一緒できた喜びを素直に表せず、羽目を外してしまったのでしょう。」

留める事の出来なかった見世(みせ)の者の責任です。
そう言うと、女は三つ指ついて謝罪した。
銀時は慌てて女の顔を上げさせる。

「あんたが謝ることじゃねえよ。あいつの酒乱は今に始まったことじゃねえし。あいつが座敷に上がってた時点でこうなることはわかってたよ。」

不本意だけどな、コンチクショー。
そう付け加えながらがっくりとうなだれると、女は銀時の顔を下からそっと覗き込むように目を合わせてきた。
間近で重なった視線に媚の色はない。

「すぐに御医者様を呼んで参ります。お休みになってお待ちくださいませ。」

そう言って立ち上がろうとした女の手を銀時は咄嗟に引き寄せ阻んだ。
立ち上がりかけた女はバランスを崩し、銀時の足元に倒れ込む。
ふわりと女が纏う香の匂いが鼻をかすめた。
蜂蜜のような美味そうな匂いだった。

「旦那様…?」
「あー…別にいい。んな大層な怪我ってモンじゃねえし。医者なんて呼ばなくていいって。」
「しかし…」
「いいから。それよりも酒くんね?ここに来て一杯も飲んでねえんだけど。」

座敷に上がってから食らったのは月詠のジャブとアッパーだけであることを思い出した銀時は、へらりと笑いながら酒を要求した。
女は、でも、と不安そうな表情を崩すことなく言葉を繋ぐ。
ハの時になった柳眉は初めからその形で完成された1つの絵のようだ、と柄にもないことを考えた自分はまだ本調子ではないのかもしれない、と銀時は思った。

「頭を強く打たれたようですし、起きてすぐにお酒はあまり…」

先ほど顔を覗き込んできた時とは異なる上目づかいで、顔を覗き込まれた。
銀時に無理やり手を引かれたせいで横座りの恰好で座り込んでいる女の着物の裾は乱れ、白いふくらはぎが覗いていた。
女が纏う黒の着物に描かれた胡蝶蘭と同じくらい白いその脚に、銀時は思わず唾を飲み込む。
薄暗い部屋で浮かび上がる白磁の肌が妙に艶めかしい。
裾下にしか絵柄のないシンプルな着物を纏った女は、吉原らしからぬ清楚な色香を纏っていた。

「じゃ、じゃあ、なんか芸でも見せてくんね?ちょっと静かに休憩すっから。」

行燈の灯りが揺れるたびにゆらゆらと照らされる女の生脚から目をそらし、銀時はわざと大きな声ではしゃいで見せた。
女の脚の1本や2本でドギマギしている中二のような自分になにより動揺した。
耳の奥でどくどくと血管が脈打った。

「では、芸者たちを、」
「あ、いや。ちょっとまったりしたい気分だから、他の女は呼ばなくていいって。」
「そうですか。お茶でも入れましょうか?」
「…えーっと。…たまにはのんびり茶ァ飲むのもいいな。うん。」

遊郭に来たのに芸者も遊女も呼ばず、茶を啜る。
一体自分は何がしたいのか。
目が覚めてから妙に落ち着かない自分の心持を持て余して銀時は目を泳がせた。
ふと、座敷の隅で横たわっている太棹(ふとざお)に気が付く。

「…あれか。」
「はい?」
「三味線みたいな音で目ェ醒めた気がしてたんだけど、あれ弾いてたのか。」
「…ああ。申し訳ございません。お休みになっていたところに。」

恥じ入るように再び頭を下げる女に、銀時は再び慌てふためく。
彼女と2人ゆっくりと過ごしたいばかりに他の遊女たちを呼ばないよう頼んだばかりなのに、恐縮させてしまったようだ。
今日は空回ってばかりだ。
だが、なぜこの女と2人で過ごしたいと思ったのか、自分でもまるで分らなかった。

「あれ三味線?オメーさんの?」
「はい。私は雇われの芸者ですので自分の三線を持ち込んでいるのです。」
「雇われ?」

銀時は首を傾げた。
ここ吉原では芸者も遊女たちと同じく年季奉公している者がほとんどだ。
見世を渡り歩く芸者がいないわけではないが、江戸一番の花街である吉原の遊女たちは芸の道にも精通しているオールラウンドタイプが多いと聞く。
そんな街でフリーランスの芸者として生きていくには、目の前の女はあまりに若過ぎるような気がした。

「…といっても独立したのはつい最近のことです。それまではこの見世で遊女として奉公しておりました。」

銀時の困惑を読み取ったのか、女は困ったような笑いを浮かべた。
火鉢から降ろした鉄瓶でお茶を入れながら語り出す。

夜王・鳳仙の支配から解き放たれた吉原では、遊女の扱いは大きく変わったという。
これまでは、鳳仙とその配下の者たちが利益を得られるように遊郭はもちろんそこらの雑貨屋さえも徹底した管理の下に置かれていたが、その楔から解き放たれた吉原の経営者たちは自由に商売をするようになった。
これまで遊女たちは10年程度の契約期間―――年季―――に、借金を返すべく見世で奉公していたが、身を粉にして働いたとしても借金を完済できるほどに稼げる遊女は少なかった。
彼女らが稼いだ花代の大半が、見世への取り分の他に鳳仙たちへ上納されていたからである。
着物や簪などの身の回りの品の全てを遊女自らが負担しなければならない上に、座敷に上がれるようになるまでにかかった教育費も借金として上乗せされている遊女たちは、結局死ぬまで借金を返せずに花街で朽ちていく者がほとんどだ。
鳳仙たちが強いた管理は、女たちを一生遊郭に縛り付けるためのシステムの一部であったために、吉原に足を踏み入れた女たちが生きてこの地を出ることは絶望的であった。

「…でも、旦那様が吉原を解放してくださったおかげで、私たちは吉原の外へ出るという選択を得ることができたのです。」

借金の額が減ることはなかったが、鳳仙への上納金がなくなった分、遊女たちの借金返済は容易くなった。
また、見世の外はもちろん吉原の外へ出ることも許されるようになり、遊女たちの売り出し方も多様化した。

「元々、私は唄や三味線が得意でしたので、そちらでおもてなしする方が性に合っていました。
見世の方もその方が向いているだろうと後押ししてくれ、私が一番売り出しやすい方法を考えてくれたのです。」

おかげで見事に借金を完済し、自由の身となれた。
そして、芸の道で生きていくことを選べたのです。
女は、心底嬉しそうな笑みを浮かべながら茶碗を差し出した。
銀時は、芳ばしい香りを漂わせる煎茶を受け取りながら、ぼんやりと女の顔を見つめる。
年の頃は銀時と同じくらいだろうか。
年季が明けたばかりならば30歳手前と思われるが、それにしては笑顔が幼い。
しかし無邪気な笑みというには、あまりにしっとりと持ち上げられた口元に、彼女が生き抜いた遊女時代の苦労を見たような気がした。

「…別に俺ァ、吉原を救おうだとか、そんな大義名分を持ってたわけじゃねぇよ。
気に食わねぇ奴をブッ飛ばして、酒飲みに来たってだけだ。」

行きがかり上そうなっただけだ。
小さく銀時は、本音を零す。
名も知らぬ遊女たちの境遇は、確かに同情するにあまりある。
しかし、銀時もまた、若い時分には遊郭の女たちには幾度となく世話になった身分であり、彼女らを苦しめる欲にまみれた男の1人だった。
そんな自分が、遊女たちの英雄と祭り上げられるのはなんとも滑稽な話だと苦笑する。

「旦那様にその気がなかったとしても、結果として私たちは救われたのです。
その恩に報いたいと思うのは私たちの勝手ではありますが、どうかお付き合いいただけないでしょうか?」

困ったように笑う女に、銀時はがりがりと頭を掻いた。

「まあ、ただで美味い酒と飯にありつけて、こんな綺麗なねぇちゃんと一杯やれるってなら文句はねぇけどよ。」

ぼそぼそと零されるフォローとも言えない言葉にも女は柔らかな笑顔を返した。



「で?自由の身になっても結局吉原で生きることにしたのか?
あんたほどの器量がありゃあ表の世界でも生きていけんじゃねーの?」

吉原の外―――たとえばかぶき町だとか―――でも、多くの芸者は存在する。
特に城下町の料亭や観光地では綺麗どころの三味線弾きなんて引手数多であろう。
それでもこの苦界に身を置き続ける女の真意は、客として外からの視点でのみ吉原を見る銀時には理解できなかった。

「私が三味線を究めようとした始まりは、この見世…吉原です。
津軽の田舎から出てきた私には、吉原の外は眩しすぎましたし。」
「津軽?えーっと…リンゴとかねぷたとか岩木山の?」
「よくご存知ですね。」

テレビで聞きかじった程度の知識を引っ張り起こせば、女は嬉しそうに笑った。
白い八重歯がこぼれれば途端に幼くなる。

「吉原へ来たのは7つの時でしたから、故郷のことはほとんど覚えていません。
ただ父が津軽三味線の家元でした。
流派と言うのもおこがましいような慎ましいものでしたが。」

それでも、三味線は彼女と故郷を繋ぐ縁(よすが)であったのだろう。
いとおしそうに、消え行く記憶を手繰り寄せるように三味線を見つめる女の眼差しは、どきりとするほど儚かった。

「昔、私を贔屓にしてくださった御仁の中に津軽出身の方がいらっしゃったのです。
その方に請われて何曲か覚えるうちに三味線の腕も上がっていきました。
私がこうして芸だけで身を立てられるようになったのは、ここ吉原での縁なのです。」

懐かしそうに語る女の眼差しに、銀時の胸に暖かな灯りとそれを消し飛ばさんとする嵐が吹き荒れる。
郷愁に浸る優しい彼女の表情は、こちらまで優しい気持ちにさせるような柔らかさがあるのに、それを与えたであろう顔も知らぬ男の存在は彼の胸を焦がす。
銀時は、飲み干した茶碗を置くと、三味線に近寄った。

「弾いて見せてくれよ。」

意外に重いそれを手渡すと、彼女は一瞬目を丸くした後、目を細めてみせた。

***

調弦から始まるその音は意外に荒々しかった。
皮の貼られた胴を叩きつけるように弾く右手と自在に棹を行き来する左手の軽やかさ。
急かされるような早い音の粒と腹に響く弦の振動は、祭りの喧騒を思わせる。
耳の奥で祭り太鼓のリズムが聞こえてくるようだ。
目を伏せ指先の動きに集中する女の顔は、座敷に上がる艶やかな芸者というよりも職人のそれに近かった。
寡黙な東北人の気質が奏者に現れるのだろうか。
しかし、生まれた里で過ごした時間よりも吉原で過ごした時間の方が遥かに長い彼女には、田舎者特有の野暮ったさは窺えず、洗練された江戸の女の強かさの方が濃いように思われた。
おそらく彼女も、銀時と同程度にしか津軽という地の知識を持ち合わせていないに違いない。
それでも、この”じょんから節”と呼ばれる津軽三味線を通して、銀時も女も同じように津軽という地に想いを馳せているのだと思うと、妙にこそばゆい気持ちになった。
会話を交わして1時間も経っていない浅すぎる2人の間に、共通の情景が浮かんでいるという錯覚が、2人の距離を近づけてくれるような気がした。
目では捉えられないくらいに素早い動きで棹の根元を押さえる彼女の手からは、消え入りそうな、しかし芯のある高音が次々に紡ぎだされる。
やがて、少しずつ音量が上げられていき、棹の間を飛び回るようにあちらこちらを左手が押さえ、音の粒が更に細かくなる。
焦燥を覚えていた胸が、名残惜しさを感じるより前に、唐突にテンポが遅くなった。
部屋に終わりを知らしめるように響く弦の音がいくつか零され、その曲は終わった。

***

本当にここは吉原の遊郭なのか。
まるで祭囃子を聞いていたような錯覚に囚われた。

「ご清聴ありがとうございました。」

銀時は息を詰めて女の動きを目で追っていた自分に気が付いた。
唐突に、他の部屋の喧騒が耳に届く。
ぺこりと下げられた女のつむじを見て、慌てて拍手を送る。

「初めて聞いたが、いい曲だったわ。」

月並みな感想しか出てこない自分が歯がゆい。
それでも、女は無防備な笑顔を返してくれた。

「ふふ…。せっかく廓(くるわ)に御出で下さったのに、お祭りのようになってしまいましたね。」

銀時が思っていたことと同じことを言う女に、思わず笑みを返した。

「いいんだよ。江戸の人間はみんな祭り好きだしな。これはこれで一興だろ。」
「廓らしからぬ演出ではありましたが、お楽しみいただけたのなら幸いです。」

笑う女の顔はやはり幼く、だが、眼差しには彼女が遊女として生きた年月を思わせる憂いが滲んでいた。
その笑顔を見やりながら銀時は結野アナの占いを思い起こす。

『仕事終わりに素敵なご褒美が待っているでしょう。』

ふんわりとした綿菓子のような雰囲気と、艶やかな色気と、幼い笑顔と、どきりとするような達観した眼を持つ女。
数時間余りで様々な面を見せた彼女から目を離せない自分を銀時は自覚した。

自分の感も、占いも正しかったのだと今度こそ確信する。

やはり今日は厄日だ。
年中金欠のくせにまたこの遊郭に来たいと考えてしまうなんて、本当にどうかしている。
それも、女を抱くのではなく、芸者の笑顔と三味線のためだけに高い金を出そうとしているだなんて酔狂にもほどがある。

銀時は、近く廓通いを始めるだろう自分の未来を想像して嘆息した。
吐き出された吐息に混じったのは、今後の懐具合への不安と、目の前の女に惹かれる自分への焦りだった。


後日、肝心の女の名を聞き忘れた銀時は、日輪に「月詠にアッパーカット食らったあの店にもう一回行きたいんだけど」と尋ねたところ、何を勘違いしたのかSMクラブの割引券をもらうことになったのは全くの余談である。



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