有償の献身(前編)

始まりは、行きつけの居酒屋で隣の席に座り、酒を飲んだこと。
居酒屋の常連同士というよくある関係から始まった●●への情は、いつしか「気の合う飲み仲間」から「気になる想い人」へ変化した。
よくある話だと思う。
けれど、あまりにもベタな関係だからこそ、そこから先をどう進めるべきかわからなくなる、とも銀時は思っている。
銀時にとって●●は、「あと一歩」の女だった。
あと一歩で恋愛対象として意識してもらえる、あと一歩で特別な存在になれる、そういう女だと思っている。
その「一歩」をなかなか詰めることができないでいる理由は、いくつかある。
たとえば、●●の生真面目さ。
働いている時間よりも昼寝の時間の方が長い日もザラにある万事屋を営む銀時には、到底理解の及ばない世界ではあるが、●●は所謂“社畜”と呼ばれる女であった。
小綺麗な言い方をするとOL、あるいはバリキャリと呼ばれる部類である彼女は、とかく責任感が強く仕事に埋没し気味である。
それ故、私生活は二の次三の次になってしまうことが多々あり、限界まで己を追い詰める悪癖があった。
愛だの恋だのと浮ついた雰囲気を漂わせるシチュエーションを作れるほど、●●は女の隙を見せてくれない。
それ以前に、人として心配になってしまうほど自分自身の事をおざなりにする。
「あと一歩」を詰める段階から先に進められないのは、●●がそれ以上先に踏み出すチャンスを与えてくれないからだ、と銀時は思っていた。
あと一歩を詰める勇気が自分にないだけだとは、露程も思っていなかった。

「───今日も荒れ果ててんな。」

●●の部屋を見渡しながら、銀時は感心したように呟いた。
いつ干したのかわからない洗濯物がハンガーやら洗濯バサミやらが付いたまま床に散らばっている───おそらく物干し竿から下ろし取り込んだまま捨て置かれたのだろう。
空になったペットボトルの山は、お茶の一杯も沸かす気力がないという表れ。
ゴミ箱から溢れた割り箸や弁当がらが、最低限の食事を摂取していることを物語る。
そんな荒れ果てた部屋のど真ん中で、缶チューハイをちびりちびりと飲みながらぼんやりとテレビを見ている●●は、まるで幽鬼のような存在感しかなかった。

「ちゃんと三食摂ってんの?」
「まあ、うん。食べてるよ。時々。」
「時々じゃダメだろ。」

テレビから視線を逸らさないまま生返事をする●●に、銀時は深いため息を吐く。
部屋の隅で敷きっぱなしになっている布団の足元からは、くしゃくしゃに丸まった毛布が飛び出ている。
布団の上げ下げはもちろん、整える余裕すらないという雰囲気だ。
食事と睡眠という人間の基本的な欲求だけは「こなしている」程度に満たしているのだろう。

「ちゃんと休まないとそのうちぶっ倒れるぞ。」
「家帰ったらすぐ寝てるし、休日も一日寝て過ごしてるからだいじょーぶ。」

睡眠を優先しているという割に、●●の目元には、隈が浮かんでいた。
良質な睡眠を取っているとは言い難い顔色の悪さだ。

「晩飯は食ったか?まだだったら、外に食いにでも………」
「食欲ないからいいや。」

銀時の提案を即座に切り捨てた●●は、ちゃぶ台に頬をべたりと付けるように突っ伏した。
無気力なその様に、銀時は再びため息をこぼす。
仕事が忙しくなると、●●は生活の質をとことん下げ、不摂生を極めるようになる悪癖があった。
かろうじて風呂には入っているようだが、「身だしなみも仕事のうち」という意識が働いているからであろう。
●●は、仕事に関係のない習慣はどんどんおざなりにしていく女だった。

「食うもん食わねーと疲れが取れねーぞ。」
「んー…。」

最近では、そんな●●の世話をやくことが、銀時の役割になりつつある。
行きつけの居酒屋で遭遇することがなくなり、かつ電話にもロクに出ない期間が1ヶ月ほど続くと、銀時は●●の家まで様子を見に行くことにしている。
それが、●●が人間生活に手を抜き始めるアラートだからだ。

「なんか簡単なものでも作るか?」
「いいよ。冷蔵庫空っぽだし。」

こうして、●●の自宅を訪れることができる仲になれたことを喜ばしく思ったのは、いつのことだったか。
●●のプライベートな空間に招き入れられ、素の姿を見ることができる権利を得た。
それだけ二人の仲が深まった証だ、と当時の銀時は浮つき胸をときめかせたものだ。
それが最大の山場であり、最大のチャンスであったのだと今ならわかる。
温かい食事を用意してやり、部屋を整え、●●の健康に気を遣う。
それが一度や二度ならば非日常を演出し特別感をアピールできるエピソードにもなっただろう。
しかし、それ以上女扱いもせず小さな子供のように何くれと世話を焼き続ければ、新鮮味など薄れてしまう。
通い妻のような真似事が、銀時を男として意識させる手助けになるはずがなかった。
今や銀時は、●●にとってただの保護者に過ぎない。
一人暮らしの大学生の様子を伺う母親とさして変わりなかった。

「最近、食欲ないし………寝ても寝ても疲れが取れないのよね………」
「そりゃあ、アレだろ。身体よりも心が疲れてんだろ。」
「かもね。はぁ………なにか癒しが欲しい………。」

怠そうにため息を漏らし、酒を舐めるように飲む。
怠惰な生活がより一層、心からも余裕をなくさせているのだろうが、それを指摘したところで今すぐ●●の生活態度が改まることなどありえないと、銀時はよくわかっていた。
だから今日こそは、少しだけ踏み込んでみる。

「そんなに余裕がねェなら、アレだ。銀さんが癒してやろっか?」
「えー………?」

おちゃらけた口調で下心を誤魔化しながら、銀時は●●の反応を探った。
いつもだったら、甲斐甲斐しく食事の支度をしてやったり、部屋の掃除を手伝ってやったりと、●●が人間らしい生活に戻れるような手助けをしてやる。
そうして●●が本調子に戻った頃に、口説く。
銀時は、そうやってタイミングを見計らい続けてきた───実際には、口説く段階までたどり着けたことはないのだが。
しかし、なぜかこの日に限っては、そんなまだるっこしい真似をする気にはなれず、一歩踏み込んでみようという気になった。

「癒すって?定春でも貸してくれるの?モフらせてくれるの?」

銀時の下心が過分に含まれた問いかけに、●●は訝し気な眼差しを向けた。
今日初めて●●と視線が合ったというだけで喜んでしまう情けない自分を内心で叱咤する。

「定春モフりてェの?アイツ貸すのはいいけど、頭齧られるぞ。」
「そこの躾も込みでお願いしたいわ。万事屋さん。」
「飼い主でさえ毎日噛み付かれてんだぞ。無理に決まってるだろ。」

定春の毛並みを思い出しているのか、●●は虚空を撫でる仕草をした。
ゆらゆらと揺れる白い指の残像を無意識に追ってしまう。
なぜか喉が渇いた。

「………それよりだな………」

銀時は、ごくりと唾を飲み込むと、●●が飲みかけていた缶チューハイを奪い取り、一気に煽った。
アルコールが喉を焼き、ぐらりと目が回るよう酔いを感じる。

「私のチューハイ勝手に飲まないでよ。」
「ロクに飯食ってねェのに、酒だけ飲んだら悪酔いするだろーが。没収だよ没収。酒よりも、もっといいモンやるから。」
「良いもの?」

銀時は、宙を彷徨う●●の手首を掴むと、自身の胸元に引き寄せた。
●●のほっそりとした指で、右胸を触らせる。

「ハグすると癒されるってよく言うじゃねーの。銀さんのたっくましい胸を貸してやるよ。」

着物の片袖を抜いた銀時の胸は、ジャージ越しでもその厚みがよくわかる。
女の細指が男の胸板に添えられる様子は、●●の指の白さも手伝い、どこか淫靡な雰囲気を漂わせた。
女の物とはまるで違う銀時の身体に、●●が自分を男として意識してくれたら───それは、酔いに任せた細やかない戯れのつもりだった。
しかし、銀時の中途半端な打算は、まるで明後日の方向に事態を進めていくことになる。

「確かに逞しいわね。意外だわ。」

●●は、素直に銀時の言葉を肯定した。
感心したようにまじまじと銀時のジャージ越しの胸を観察する。
そして、銀時によって押し付けられた手を引っ込めることなく、そのまま胸を撫でさすった。
胸筋の形を確かめるように、手のひら全体で円を描き始める。

「へ………?」

まさか肯定されるとは思ってもいなかった銀時は、●●の率直な感想に面食らう。
擽られるようなもどかしい感触に一瞬肩を跳ねさせ、そのまま硬直した。

「男の人の胸って硬そうに見えたけど、案外柔らかいのね。」

感心したように呟くと、●●は銀時の胸に5本の指を押し付けた。
ジャージ越しの胸に●●の指が沈んでいく様を、思わず凝視する。

「ま、まあ力を入れてねーと、他の筋肉とそう変わらねーし………?」
「ふーん。そういうものなんだ。」
「うお!?おま、ちょッ………!」

探るように銀時の胸を擦っていた手に、ぐい、と力を込められた。
●●は、銀時の胸を鷲掴むように指を食い込ませ、その柔らかさを確認し始める。
思いもよらぬ不意打ちに、銀時の声が思わず裏返った。

「ちょ、ちょっと●●さん?なにしてんの?」
「銀時の胸を借りてる。」
「いや、確かに胸を貸すって言ったけど、俺が言ったのはそういう意味じゃなくて………って!おい!揉むな!」

●●の指の動きは更に大胆になり、銀時の胸を揉み解すように動き回る。
筋肉の付き方を確かめるように、脇から胸の中心を辿っていくと思ったら、その厚みを確かめるように深く指を食い込ませる。
5本の指がそれぞればらばらに銀時の胸を這い、やわやわとその感触を確かめていった。
衣服の上で蠢く●●の手は、それぞれの指が意思を持っているかのように這いまわり、酷く官能的な動きに見えた。

「なによ。貸してくれるって言ったじゃない。」
「普通、胸を貸すっつったら、胸元に顔を埋めるとか抱き合うとか………そういう時に使う表現だろ!」
「使い方の指定なんてなかったでしょ。借りたものをどう扱おうが私の勝手よ。」
「いや、なに自分のモンみたいに言っちゃってんの!?貸しただけだから!持ち主は銀さんのまま!」

ケチ臭いこと言うな、とばかりに理不尽なことを宣う●●に、銀時は冷や汗をかきながら反論する。
しかし、●●は納得していないのか、銀時の胸を弄ることをやめようとしない。

「わかってるわよ。銀さんの胸だから借りてるの。」
「は………?なに、それ。どういう………」

まるで、『銀時が特別だ』とでも言いたげな口ぶりに、銀時の思考が一瞬止まる。
しかし、真意を問い質そうとするより前に、●●の手の動きの方が激しくなった。

「ちょ!ちょっと待て!コラ!」

不覚にも息が詰まった。
●●は、銀時の乳首が位置する辺りを、人差し指で円を描くように撫ぜた。
分厚いジャージ越しでも、●●の指圧がよくわかる。
爪の硬い感触が自身の胸を這いまわる感覚を意識すると、銀時の背筋がぞくりと痺れた。
胸を性感帯として意識したことなど一度もない銀時にとっても、惚れた女が自身の胸を執拗に攻める姿は、どこか異質で淫らな光景だった。
俯き加減で銀時の胸を弄る●●の表情は、まるでわからない。
それでも、銀時の情欲を煽るには十分な仕草だ。

「………ッ!●●!おま、いい加減に………ッ」

銀時は、どうにかなっていまいそうな自分の理性を繋ぎとめようとして、●●の手を振り払った。
思わぬ「使われ方」をされている自身の胸を庇うように身体を丸める。
マズイ。これ以上はマズイ。
●●がなぜ唐突にこのような行為に及んだのかはわからないが、銀時の方はすっかり火が付き始めていた。
このままでは互いの気持ちも確かめぬまま、なし崩しに行為に及んでしまうかもしれない。
なあなあで事を進めると大変なことになる、と学習していた銀時は、残る理性を総動員し自身に歯止めをかけた。
酔った状態で本能のままに行動すると、長屋で同居だとか5人同時デートだとか後々ロクでもない事態が起きるということは、過去の実績が物語っているからだ。
そして、惚れた女が相手ならばなおさら慎重になるべきだ。
互いの為にも順番を守らねばならぬ、と必死に自身へ言い聞かせる。

「何が駄目なの。」
「何がって一から十まで全部駄目に決まってんだろ!お付き合いというものには手順があってだな───」
「ふーん。そう。わかった。」

すると、●●はあっさりと身を引き、顔を上げた。
露わになった面には何の感慨も浮かんでおらず、つい先ほどまで卑猥な手つきで男の胸を弄っていた女とは思えないほど素っ気ない。

「そうそうわかればいいんだよわかれば………って、ちょっと待て。何がわかった?」
「触るなっていったでしょ。もう指一本触らないから安心して。そろそろ眠くなってきたし。」

明日は、仕事休みだし昼まで寝るわ。銀さんもそろそろ帰った方がいいんじゃない?神楽ちゃん一人で留守番させてるんでしょ。
先ほどまでの突拍子のない行為などなかったかのような涼しい顔で●●は言い放った。
あくびを噛み殺しながら玄関を指差している。

「オイコラ待て。揉むだけ揉んだらそれで終わりですか。ヤリ逃げですか。」
「すぐにやめたでしょ。」
「いやいやいやおかしいだろ!この流れでいきなり放置プレイはおかしいだろ!」

眠そうな顔を迷惑そうに顰めた●●に、銀時は納得がいかず食い下がる。
おかしい。
先ほどまでの妙な雰囲気はどこに行ったのか。

「別にプレイじゃないし。癒すって言ったのは銀さんじゃないの。」
「いや、そうなんだけど。確かにそうなんだけど!」

でも、そうじゃない。
銀時が意図したことはそういうことじゃない。
けれど、そのもどかしさを明確に言葉にすることは難しかった。

「もういいよ。銀さん。無理強いしたいわけじゃないし。」
「いや、だからね?癒すっていうと他に色々あるでしょ?な?」

一体自分は何をどう説得しようとしているのか。
着地点も定まらぬまま銀時は、●●を引き留めようとする。
しかし、●●はこれ見よがしに大きなため息を吐くと、のそのそと敷きっぱなしの布団へ向かってしまう。
本格的に寝る準備を始めるらしい。

「貸すって言いながらダメって言ったり何がしたいの。」
「オメーこそ俺をどうしたいんだよ!」
「なによ。私が悪いっていうの?具体的なことを言ってくれないのが悪いんじゃない。」

表情が変わらないから気付けなかったが、どうやら●●は酔っているらしい。
ロクに食事を摂らず酒だけ飲んでいたのだから酔っていても不思議ではないのだが、いつになく辛辣な言葉に銀時は動揺する。
仕事で疲れている時の●●は、どこかぼんやりしていてこちらの言葉にはロクに返事をしないことも珍しくない冷めた女だった。
しかし、今日の●●の目はどこか鋭く、言葉もとげとげしい。
いつにない展開に、銀時は内心で冷や汗をかく。

「優柔不断。嘘つき。」

とどめを刺すかのような冷めた声に、銀時の頭は一瞬真っ白になった。
それがどういう含みを持つ言葉か、察することができない。
それでも、常にないこの状況は決して好ましいものではないということを本能で察していた。

「う、嘘じゃねーよ!何でもするし!銀さんはやるときはやる男だっての!」

背を向ける●●の手を掴み、引き留めた。
ここでうやむやのまま終わらせてしまっては、またいつもの繰り返しだ。
いつもの曖昧な関係に戻ってしまう。
そんな焦りが銀時におかしなことを口走らせた。
銀時も、自身では気付かぬうちに酒に酔っていた。

「───ふーん。何でもするんだ?」

銀時が己の失言に気が付いた時には手遅れだった。
より一層、おかしな事態に転げ落ちていくのではないか、と脳内で警鐘が鳴る。

「そこの布団に寝て。」

●●は、感情の分からぬ眠たそうな眼のまま銀時を見つめ、言い放った。



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