身にあまる願いはたてじ

弁護依頼というまともな仕事が舞い込み、銀時が珍しくきちんと働いた日のことだった。
玄関戸を開けた銀時は、いつもならすぐに聞こえてくるはずの●●の足音が一向にやってこないことに首を傾げた。
坂田家の住まいは古く、玄関の戸は開閉するたびにガラガラと大きな音を立て、夫が帰宅したことをすぐに●●に知らせてくれる。
●●はその音を聞くと、ロクに仕事もせずそこらをふらついてきただけの日であろうが飲んだくれ千鳥足で帰宅した日であろうが関係なく、いつも銀時を玄関まで出迎えてくれた。
それなのに、今日は●●の迎えがない。
家の奥からは明かりが漏れているが、いつまで経っても訪れない●●の「おかえりなさい銀時さん」の声がないことに少しの不安を覚えた銀時は、急いで履物を脱いだ。

***

「おーい●●ー。銀さんが帰りましたよーっと。」

居間へ足を踏み入れた銀時は、ちゃぶ台に突っ伏して眠りこける●●の姿を目に入れると、思わず安堵のため息をついた。
空の茶碗と箸だけが並べられたちゃぶ台から察するに、食事の用意を終えた後そのまま微睡んでしまったのだろう。
銀時は、●●の隣に座りこむとその細い肩を掴もうとした。

「●●。」

呼び掛ける銀時の声にも、●●は何も反応しなかった。
随分と深い眠りの中にいるようだ。
銀時は●●に触れようとした手を暫し宙に彷徨わせた後、着ていた背広の上着を脱ぎ●●の肩に掛けた。
●●の装いは、いくら夏が近いとはいえ夜の時分には少々薄手だった。
そろりと羽織らせた上着にも気付かず昏々と眠り続ける●●に、銀時は苦笑する。

「…ビビらせんじゃねーっての。」

ちゃぶ台に乗せた腕に頬を付けて眠る●●の寝顔を見ながら、小さく悪態をついた。
●●の出迎えがない。
それだけのことに慌てた自分を誤魔化す為のささやかな抵抗だった。
とうとう銀時に愛想を尽かし、実家に帰ってしまったのではないか。
働き先の土方家で、いけ好かないあの男とどうにかなってしまったのではないか。
そんな埒もない妄想をしてしまった銀時の焦りを、こうして夫婦になってもなお覚えてしまう不安を、●●に知られるわけにはいかない。
そんなつまらない意地を守るための予防策だ。
ぶつぶつと文句を言いながら、銀時は●●の髪を撫でた。
露わになっている●●のうなじが目につく。
結い上げ露わになった白い肌の上に、幾筋もの後れ毛が落ちていた。
今日も土方家へ女中仕事に出た後、忙しく家事もこなしたのだろう。
銀時は、乱れた髪に指を通しくるくると自分の指に巻き付ける。
あちらこちらに跳ね回る銀時の銀髪とはまるで正反対の流れるような髪だ。
絡めた傍からするりと指を離れていく髪の感触を楽しむと、今度は●●の頭を飾る櫛が気になった。
梅の絵が描かれた蒔絵のつげ櫛だ。
銀時は、半月型のその櫛をそっと引き抜いた。
●●の髪に絡まらぬよう慎重に取り上げたそれを、まじまじと観察してみる。
お世辞にも裕福な暮らしをしているとは言えない坂田家では、装飾品など贅沢の極みだ。
それゆえ●●は、髪飾りやら着物やらの女が集めたがるものをあまり多くは持っていない。
むしろ夫婦になってからそういった物を買い与えたことがない。
となれば、この櫛は●●が嫁入り前から所持していたものになるだろう。
質素な造りだが品の良さを表すその逸品を見ていると、銀時の胸に多少の罪悪感が込み上げた。
さすがに櫛の一つでも買ってやるべきか。
しかし同時に、銀時がそんな気を回そうものなら『一体何事ですか銀時さん。まさかどこぞの賭場にでも出入りしているのではないでしょうね。いくらお金を借りているんですか。』などと言われ、胡乱な目を向けられる様が容易に想像できる。
そんな画がすぐさま浮かぶほどに甲斐性のない己の生活態度を、銀時は少々後悔した。
ああ、しかし。
飲み代やら甘味代やらで生活費を使い込むたびに眉を吊り上げた妻を回想しながら、銀時はふと思い当たる。
まだ銀時が学生の頃に一度だけ、●●に櫛を買ってやったことがあった。
●●が寂れたカフェーの女給をしていた頃、なんとか宥め賺して店の外で会う約束を取り付けた。
そして、いいところを見せようと櫛を贈った。
あの時の贈り物がこの櫛ではないのか、と思い付いた銀時は目を凝らして模様を見てみた。
しかし、過去に●●に贈った櫛と手の中にあるこの櫛が同一のものなのか銀時には分らなかった。
普段、●●がどんな櫛を付けているのかも気にしないような野暮な男が、女にくれてやった装飾品の細かな柄など覚えているわけがない。
あの時の櫛は、牡丹柄だったような、いや、漆塗りで、いやいやそんな金があるわけないからやっぱり薄いつげ櫛か…?
ともすれば、独り身の頃火遊びをした女たちが付けていた煌びやかな櫛を思い起こしてしまっている自分に気が付き、銀時はひとまず櫛をチョッキのポケットに仕舞い込んだ。

「眠りこけちまうくらい疲れてんなら家にいりゃあいいのに。」

銀時の不埒な回想など露知らず、安らかな寝息を立て続ける●●にため息を吐く―――そもそも●●が外に働きに出てしまったのは、銀時の収入が不安定であることが原因であるのだが。
それを棚に上げながら、銀時は思い通りにはならない妻の逞しさを苦々しく思った。
よりにもよって学生時代から反りの合わない男の実家に妻が稼ぎに出ている事実は不愉快極まりないのだが、楽しそうに日々を過ごす●●を見ていると家に縛り付けるのも気が引ける。
自分の為だけに仕舞い込んでしまいたいという独占欲と、その笑みを見守っていたいという庇護欲。
夫の相反する願いなど、●●が知る由もない。

「…どこまで跳ねっ返りなのかね、ウチのカミさんは。」

そんなところも可愛いのだけれど。
本人には伝えたことのない気持ちは、いつも憎まれ口となって零れ落ちた。
飾らない関係が心地よくありいつしか恋情に結び付いたのだが、想いを素直に伝える術を銀時は未だに持ち合わせていない。
言わずとも伝わっているだろう、というのは男の矜持と傲慢だ。
銀時は、寝息を漏らす薄く開いた唇を撫ぜた。
この口から生まれる小憎たらしい言葉が、銀時を呼ぶ声が、恋しかった。

「………●●、」

呼び掛けた声は、銀時自身が驚くほど甘ったるかった。
●●の変わらない呼吸の速度を見定め目覚めていないことを確かめてから、銀時は唇を重ねた。
●●の唇に残る紅をゆっくりと舌先でこそぎ取り、柔らかな皮膚の厚みを味わう。
湿った吐息を己の体内に取り入れるように吸い、自分の吐く息を送り込む。
互いの呼吸を交換する行為は、二人の命脈を共有しているような錯覚を抱かせた。
口に出せない本心を、同じ感情を共有できているような、そんな錯覚を。
だから銀時は、こうして何度も●●に口付けていた。
密かに、彼女が知らぬところで。

「………ん…」

苦しくなった呼吸に違和感を覚えたのか、●●の眉間に皺が寄った。
●●が目を開ける前に唇を離す。
口端に微かな紅だけを残し唾液に濡れた●●の唇が、銀時の女々しさを示しているようだった。
一方的な恋情の跡が、面映ゆい。
銀時は●●の掛けていた上着を音もなく取り上げ、忍び足で部屋を出た。
そろそろと玄関まで戻る。
上着を着直し、靴を履き直す。
自身の唇を親指で乱暴に擦り、●●から奪った紅を拭い取った。
証拠を隠滅したことを確かめると、銀時はわざと乱暴に戸を開ける。

「旦那様が帰りましたよーっと。」

いつもより大きな声で家の奥へと呼び掛け、すぐに戸を閉める。
どしどしと荒い足音を立てながら、●●のいる居間へ真っすぐに向かった。

「あ…おかえりなさい、銀時さん。」

玄関に向かおうとしたのかちゃぶ台に手を付き中腰の体制になっている●●を見て、銀時は素知らぬ顔を作る。

「寝癖。涎も垂れてっぞ。」
「え!?」

唇を指しながら言ってやると、●●の寝ぼけた顔が一気に赤くなった。
銀時が乱した髪を慌てて撫でつけ、銀時の唾液が付いた唇を拭う●●の姿をじっくりと観察してからわざとニヤニヤと笑ってみせる。

「なんだ、寝てたんですかァ●●さん。随分早寝じゃねーの。」
「あ、えっと、少し休もうと思ったら、その…」
「旦那様の帰りが待ちきれなくて眠りこけていた、と。」
「あ、その…」

嫌味たらしく文句を言うと、●●は視線を彷徨わせた。
今日はきちんと銀時が労働をこなしてきたことを知っているため、決まりが悪いのだろう。
普段はなかなか見られない●●の困ったような姿を見ると、銀時の口端はますますいやらしく歪む。

「べっつにィ?俺はかまいませんけどォ?旦那様があくせく働いてるのにカミさんがぐーすか寝てよーが。飯の用意もロクにしてなかろーが。」

居眠りするほどに●●が疲れているのは、銀時の甲斐性のなさがそもそもの原因なのだが、それを棚に上げ大げさに呆れてみせた。
もちろん銀時は、●●が家事を満足にこなしていないと思ったことなどないし、腹を立てることなどありえない。
しかし、申し訳なさそうに首を垂れる妻の姿は、銀時の嗜虐心を大いに満足させた。
いつもの『おかえりなさい、銀時さん』がすぐに聞けなかったことに対するささやかな仕返しも含まれている。

「あ!すぐに夕飯にしますから!」
「別に急がなくてもいいけど。ちゃんと目ェ覚ましてからでもいいんですけど?」
「も、もう目は覚めています!………あれ?」

珍しく優勢な立場に胸を反らしながら銀時が横柄に言ってやると、●●は慌てて身なりを整えようとして………首を傾げた。
後れ毛を撫でつけながら何度も後頭部を触っている。

「どーした?」
「あ、えっと…櫛がなくて…。」

寝ている間に落としたのだろうかと足元に視線を走らせた●●のその言葉に、銀時の心臓がどきりと跳ね上がった。

「ど、どこか他所で落としてきたんじゃねーの?」
「いえ、夕飯の支度をした後に一度付け直したので外で落としてはいないと思います。」

畳の上に這い蹲り探し始めた●●を見ながら、銀時は脇腹を押さえる。
背広の上着の下、チョッキのポケットの中に、それはある。

「へ、へェ。じゃあ後でゆっくり探せば?腹減ったし飯食ってからでもいいだろ。」
「でも、もし踏んだりしたら危ないでしょう。食事の用意は出来ているから、今探してしまった方がいいわ。」

危ないから座って待っててください。
そう言って大真面目に櫛を探し始めた●●を見て、銀時の頬に嫌な汗が伝う。
どれだけ探しても櫛など見つかるわけがない。
だが、銀時が櫛を持っていることを伝えてしまえば、今帰って来たばかりだという小芝居を打った理由を問い質されるだろう。
妻の寝顔を眺めていました。
可愛かったです。
唇も奪っちゃいました。
そんな自分を晒すのは気恥ずかしいから、今帰ってきた体を装いました。
………言えるわけがない。
亭主関白を気取りわざと●●を詰って喜んでいる銀時が、そんな甘ったるい真似をしていたなどと白状することは到底無理なことだった。

「どこで落としたんだろ…」

銀時の足を傷付けないようにと必死に櫛を探している●●が、すぐに捜索をやめてくれるようにはとても思えない。
はてさてどうするべきか。


服越しに感じる櫛の硬さを確かめながら、銀時は途方に暮れた。
どうすれば、亭主の威厳は保たれるのだろう、と。

坂田家の亭主関白は風前の灯火だった。




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