ふたりきりでいるというのに、珍しく静かな夜だった。ベランダに続く窓を全開に、そこから脚を夜闇に晒し投げ出して。となりの彼はというと、片手にアルコールの入ったグラスを握らせたまま膝に顔を埋めて沈黙を受け入れていた。その所為かもしれない、情けないことにこの静寂に包まれた空間で一言も声を発することができないのだ。自分の中にある普段の彼からは想像もできない程にしおらしい、いまこの状態の彼に戸惑い、困惑していることは明らかで。喉奥でつっかえていた酸素を溜め息という名で吐き出すと、手中のグラスの氷が甲高く鳴いた。


「……ねえ」


沈んでしまったような空気を孕ませてやっとのことで紡いだ言葉の儘、目線を彼の方向に流す。視細胞を占領したのは言葉と同時に跳ねた肩。何をそんなに恐れてしまっているのだろうか。沈んだ夜のベランダで、ふたりきりにしか存在していないのに。…あるいは、ふたりだけだからか。


「顔をあげなよ」


躰と躰の間にあった一人分の隙間を一気に詰めて、横から彼の顔を覗き込むように諭す。昼間の兵戟をきれいに忘れてやさしい仕草でグラスに縋りつく手を触れると、一層、躰ごと全部がせつないほど飛び跳ねて、反動で滑り落ちたグラスがベランダの床と奏でる不協和音。耳を劈く乾いた音が鼓膜とふたりを鋭く撫ぜた。ベランダに散らばる硝子が月とアルコールに反射して眩しい。細めた瞳の端で、彼は罰が悪そうな顔をしていた。


「なんだ。顔をあげないから、てっきり泣いているのかと思ったよ」
「…馬鹿じゃねえの、」


そんな顔をしながらも謝罪の言葉がないところを見ると、やはりそれは彼らしいと思う。指先の微かな体温が触れるだけでも、人肌に慣れないその無意識が反応して牙をむいてしまう、おくびょうなところも。それがひどくかわいそうに思えた。


「馬鹿って」
「…それ以外になんていうんだよ」
「心配してあげたんだよ」
「……、頼んでない」


近すぎる距離に困惑するように視線を逸らしてしまう、それでもその後に、その行動自体に後悔を示唆する彼は馬鹿みたいに純粋で。逃げてしまいたくはないけれど、近すぎる距離に慣れてしまうのが怖いとでも嘆くように、いつかは離れてしまうと、無駄に未来のことばかりを想像してしまって。今現在の幸福をまっすぐに享受できない彼はある意味で自分に素直で純粋だけれども、どこかで大きく歪んで捩れてしまっているのだと思う。何も不安になることはないのだから、安心して、全てを受け入れてほしいと願っているだけなのに。


「…、好きだよ」


手持ち無沙汰な右手で、隣の彼の左手をあまい動作で包み込む。手を握る行為は幾億としてきた筈だけれど、この言葉を伝えながらの行為は心を掻き毟る何かがあった。逃げられないか振り解かれないか、そればかりが躰中を満たしていくから。言葉の後にいっしゅん見開いた瞳が次第に戸惑いに染まっていっているような、そんな気がした。好きだと伝えた後に逸らされる視線が怖かったから、彼のことは見ていないのだけれど。なんとなく、そうだと解った。


「………」
「…シズちゃんは、」


意を決して見上げた顔は、先ほどのようにまた俯いていて。厭に明るい月に照らされた重なる手を視線に捕らえて、その視線に宿る困惑や抵抗や戸惑いや不安を容赦なく突き立てる。聞いてしまってから、少し後悔をした。彼の気持ちを急き立てる意味は微塵もなかったけれど、その質問によってそうだと思われてしまったならば。掌には熱が集中した。その熱の中で、細い指がぴくりと鳴く。目の前から聞こえる息が詰まる音のあと、ちいさく歪んだ口許から言いにくそうに言葉が零れた。


「そ、…の…、」


この状況からうまく逃げ出す言葉も見つけられず、喉奥を擽られるような感覚に戸惑う指先を弄びながら、だけどそんな姿が酷くいとおしく感じた。


「……ごめん、急き立てるような、そんな意味で言ったんじゃないよ」


彼が戸惑うことは解っていたからこその、この言葉で。そのやさしい心が少しでも平穏を取り戻せるように、静かに目を細めて笑う。それなのに、彼は苦しそうな顔をそのままにして、未だに先ほどの質問の答えを求めている、そんな真面目な性格の彼を全部、抱き締めてしまい衝動に駆られる。いつの間にか、掻き集めた理性で、重ねた手は彼の手を痛いほど握り締めていた。そのぎこちなく籠められた力によって、もしかしたら彼の肩を震わせてしまうのではないかと思うと怖い。全身を満たす焦燥を落ち着かせるために息を大きく吸い込んで、繋いだ指をゆっくり手放した。


「…手前は、」


手放した瞬間に、泣き出しそうな声を聞いた。


「俺がどんな答えを言っても、……っ」


喉奥で消え入りそうな声で呟いたそれは、肝心な言葉を発する前に完全に消えてしまう。俯くせいで顔は見えないけれど、触れそうに近くにある肩が震えているのがわかった。沈んでしまいそうな夜に、滲んだ視界を見られたくないのか。月明かりからなら、心情の底辺からでも蔽い隠してあげるのに。だから顔をあげて、滲む瞳でも構わない、その儘で世界を見詰めていてほしい。解像度の低い感情に苛まれて訳もなく震える手を、それ以上に強張る頬に伸ばして、愁いに愛されたその視細胞と無理矢理に視線を噛みあわせた。


「ぜんぶ信じていいよ、シズちゃん」


飽和状態を超えて仕舞いそうな、その目の前の泪を口付けで塞き止めて、ゆっくりと笑う。その瞳にうつる自分の表情が確認できてしまうほどの距離の近さが、ただ素直にうれしいと思った。やさしい気持ちに満たされた想いをくちびるに乗せて、ちいさく彼のそれと重ねる。労わるような余韻のあとに目を開いて彼を見詰めると、その中に泣き出しそうな情けない顔を見て。それでも、この表情が意味するのは嘘では無いことを十分に知っていたから。


「好きだよ」


今度こそ、その言葉に確かな答えをもらえると確信していたから、細い躰を抱きしめて、飽きれる程に思った言葉を囁いた。





指切り





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