さらりと新緑に濡れる葉が揺れる。上田城に来てから3度目の夏の訪れだった。初めて登城したころは短かった髪の毛も伸びて1つに纏め上げなければいけないほどになった。少し汗ばむ額を拭い、静かに廊下を歩いていく。主は現在甲斐の虎、武田信玄様の元へいらっしゃるようで城を長く空けている。時折従者である猿飛様が城に変事はないかと顔を覗かせるくらいで特に変化はない。
越後の上杉領と甲斐武田領に挟まれるように存在する上田の領地。非常に緊張感の走る昨今ではあるが、城主は余り意に関してない様子であった。 武芸に長けている主。政が分からない訳ではないようだが、どうにも決断の時期を失うお人のようだった。それはひとえに彼の人の優しさから起因していることなんだろう。 「夏だからと言って、お腹を冷やしていないといいけど」 仰ぎ見る太陽は思ったよりも高い。頭に浮かぶ素直な顔を振り払うように私は再び廊下を歩き始めて執務室に戻った。 「持とうか?」 「いえ、ご心配には及びません」 「あは、了解」 積み上げた兵法の記載された冊子を指さしながら笑う猿飛様に頭を下げて丁重に辞退する。城はなんだか気ぜわしい。久しぶりに城主が帰ってきたのだ。 「相変わらずだね、アンタ。安心したよ」 「そうですか」 「もう3年だっけ?」 「はい」 「そっか。…そんなに経つっけ」 小さく言葉を零した猿飛様は空を仰ぎ見る。私もそれにならって同じように視線を上にずらした。遠くの空に積乱雲ができている。それはゆったりとこちらに向かってきているので、夕立になるかもしれない。 「全然変わらないんだな。アンタ」 「…そうでしょうか」 猿飛様は縁側に腰掛けて、ぐっと伸びをする。流れる雲が生み出す日陰が私と猿飛様を覆い、すぐにまた別の場所へと行ってしまう。仄暗くなっていく空が纏う空気は僅かに水気を含んでいた。 「真田の旦那、今回は長く城にいる予定だぜ。執務、いい加減に溜まってるからなぁ…。誰かさんが旦那の仕事ほとんど仕上げちゃってるから実質目通していくだけなんだけどね」 「へえ、それは良かったです」 「…旦那を避けるのは、わざとな訳?」 ぽたり。 一粒の水が空から零れてくる。それに続くように次々に落ちて、次第に大きな音を立てて雨となった。激しい雨音。いっそ、私に今突き刺さっている猿飛様の視線を全て洗い流してくれればいいのに。 「避けておりません」 「ふぅん」 「…殿は、私が傍にいるのがお嫌なんですよ」 思わず零してしまった言葉に猿飛様は目を丸くして、身を乗り出して私の先ほどの言葉の真意を問いただしてくる。それが思いのほかものすごい剣幕だったので、口を引きつらせながら後退していると、とんと背中に柱が当ってしまったのでこれ以上後ろに下がることもできず溜め息が零れる。 「私と目が合うと視線を逸らされます。姿が見えると飛んで逃げます。言葉をかけようとすると、目を白黒させながら飛んで逃げます。…これは私がお嫌いだと思うほかないでしょう…?」 「あー、………それは、」 「……申し訳ございません、執務に戻りますので…失礼致します」 立ち上がり一礼して猿飛様に背を向けて廊下を歩く。視界の端に一瞬移った影が見覚えのある後姿のような気がしたけれど、それを確かめずに執務室にまっすぐに向かった。 城内を歩く人は随分と少なくなってしまっている。城の手入れも行き届かないのかところどころで埃や汚れが目立っている。しゃがみこんでそれを拾い袂に突っ込む。ふと顔を上げるとひび割れた城壁の隙間から草の葉が身をねじ込ませている。それに手を伸ばすと、手元にあった書類がひらりと庭先に落ちた。それを追いかけるように手を伸ばすと、横から別の手が伸びてきて、ひらりひらりと飛んでいる書類を捕まえる。しなやかなその紅色が目に入る。こちらにくるりと振り返ると、後ろ髪がやわらかに風になびく。 「これで全部か?」 「………はい、申し訳ございません」 「…どうして謝るんだ、某は、」 「殿、」 どうかそれ以上はと言いたい言葉は、くっと口を閉めることによって防ぐ。それを見た真田様はぐにゃりと顔を歪ませる。酷く辛そうな顔。最近この人のこんな顔をよく見る。そんな顔を見たいわけでは、ないのに。 ぺこりと頭を下げて、書類を拾うなんて手を煩わせたことに対しての非礼を詫びて立ち去ろうと踵を返す。 「貴女も某を呆れているのか…?」 「………、」 俯いてそう呟く真田様の横顔は年よりも幼く見えてしまう。この方は、この城の主なのだ。そうよく言い聞かせなければ忘れてしまいそうなほど、この方は私に感情を抱かせる。 「私には……分かりません」 失礼します、と一言告げて歩き去る。後ろで真田様が小さく呻いた声も聞こえないフリをした。今一番迷い辛い境遇に立たされているのは彼だというのに私はどうすることもできない。自分がなにをすべきなのか分からない。御館様としたっていた信玄公が倒れた今、甲斐を纏め上げるのは彼しかいないのだから、私が何か言える立場ではないと言ってしまえば楽だ。彼を突き放してしまえばいいだけのことなのだ。そうして私から遠ざかってくれたらいい。そうすれば、いいのに。 「………馬鹿ね」 1人きりの廊下で呟いた言葉は誰に聞かれることもない。 今この上田の外での状況は不安定だ。いつここが戦場になるかも分からないのに、いつまでも気づかないフリをして優しい彼を傷つけている。全部彼のせいにして何も考えないことがいいことだと言い聞かせた。春の日差しが差し込む。ひやりと冷えた風が何もかもを冷たくしていく。 次々と人が去っていく。たて続きに起きる戦と、今の世の流れがそうさせていくのだろう。東軍西軍と徐々に日ノ本が二分されていく。大きな戦が引き起こされるのも近いのだろう。つい先日、最後まで勤めていた女中の女の子まで辞めてしまった。 「………、」 そこまで考えて、思考をやめた。ぐっと口を手でふさいで息を止める。身体を小さくかがめて物陰に身を隠す。戸一枚後ろでバタバタと荒っぽく走り去る数人の足音と怒号を聞くと思わず身を固くする。何か大きな声で会話をした後別々の方向へと走り去っていく。その音が完全に聞こえなくなってから、ようやくそろっと緊張を解いて、立ち上がり逆の方向へと走る。真田様が留守の間に他国が攻め込み、上田城内には兵が入り乱れている。突然の奇襲で対応が遅れ城は乗っ取られた。足がもつれる、呼吸が乱れる。自分の荒い呼吸音が耳の中を支配する。早く逃げないと、と思えば思うほど心が焦る。どうして?ただ生きたい、というだけじゃあない気がする。なぜ?どうして?浮かんでは消えていく疑問。汗が滲む。足元を見ていなかったので、木材に足を取られて派手に頭から転んだ。膝や腕がすりむけて血が流れる。ぐっと拳を握って立ち上がり、再び走り出す。こんなにも何故懸命に走っているのか。何もかも諦めて運命だと言ってしまえば簡単なのに。 「ッ、…っは、はぁ、はぁ、」 今思い浮かんだのは、彼の顔だった。 あんな顔が最後の顔。悲しそうに歪めた顔が記憶に焼きついている。 どうしてそんな風に思うのか。息が切れて、酸素が足りずに胸が苦しい。それでも思考はどんどん鮮明になっていく。ああ、私は。 「っ!ぐ、」 がしりと腕を取られる。振り返り視界に入るのは見覚えのない、他国の甲冑の男。手元の白銀がきらめく。唇をかみ締め、自由なままの腕を懐に突っ込んで目的のものを手探りで探す。すぐに中指に触れるそれを思い切り引っ張り抜く。腕を振り上げ、それを真っ直ぐに振り下ろす。 彼が優しいけれど優しいだけの人ではないことを知っていた。戦場で俯き槍を握る手が震えているのも知っている。何もかもを覚悟して生きている人だ。自分のこれから生きる生き方の覚悟を決めた人だ。そう分かっていた。分かっていたのに。分かっていたから、私はここにいたのに。そうだ、分かっていたから、気づかないフリをした。気づいてしまったから。私は、あの人を。 「、大丈夫か?!け、怪我は…?!」 焦ったように私に駆け寄る真田様。疲れ果てて座り込んで下を向いていた頭を持ち上げると、視線が合う。すると彼は驚いて目を丸くさせる。無理もない。長かった私の髪は今はもう肩にもつかないほどにざんばらに短くなっている。追っ手をまく際に邪魔だったので自ら切ったのだが、それほど驚かれるとは思っていなかった。 「どうした、それは…?それに、怪我も、……すまない、某がもっとしっかりしていれば、」 私の手に手を重ねて、自分を責めるように瞳を閉じる。手が震えている。優しい人。震える手に、私も手を重ねてそっと握り締める。驚いたように、弾かれたように顔を上げる。 「違います、真田様。…違います」 「どういう、」 「ここにいるのは私の意志です。誰に強制されたわけではありません。…貴方について行きたいから、ここにいるんです。全て、覚悟の上です」 「……それでも、某が嫌なんだ」 そっと伸ばされた手が私の身体を包み込み、その胸にすぽりと収まる。 熱と鼓動が伝わる。生きている。今のこの瞬間も、私も彼も確かに生きているのだ。そう思うと、涙が一筋こぼれた。これほどまでに心揺さぶるものなのか。まばたきをすると、彼の肩に落ちて染みを作っていく。 「傷つけるのが嫌なんだ。貴女は、某が守りたい。……我侭を申して、すまぬ」 もえがらの微光 少し震える声で肯定の意を伝え、頷けば彼はどのような反応を見せてくれるのだろうか。嬉しいと、言ってくれるだろうか。私1人の思い上がりにならないだろうか。自分の保身ばかり考えてしまう私でも、いいといってくれるのだろうか。 伝えたい言葉が頭に浮かんでは溢れて零れていく。1つに決まるまでの間、私は彼の背中に精一杯手を伸ばし、想像以上に広い背中に触れる。 それは確かに私の中に届く小さな光。 笑うポラリス様提出 「もえがらの微光」 H24.1.1 ブラウザバックでお戻りください。 |