ざぶざぶと流れ込んで来るのは感情と言う名の甘い水。私はそれに溺れないようにもがくけれど、それは難しい。春のような柔らかさをもつそれを受け入れようと手を伸ばせば、私を拒絶するようにぴしゃりと冷たく色をなくす。さながらそれの瞬間を待ちわびる人のように。ぶくぶくと、息が零れて落ちていく。まばたきをしたらするりと頭から大切な記憶が落ちていく。水面を仰ぎ見ると、星のか細い光がぐにゃりとねじ曲がり消えていく。全てが海に溶けていく。












「………」
テキパキと包帯を巻いていく。随分と手慣れてきたなと溜め息をついて、捲り上げていた袖をもとの位置に戻して立ち上がる。足の甲に畳の痕が赤く残っている。長時間座っていた証。これは見られないほうが得策だなと苦笑いを零しながら部屋の障子を後ろ手で閉める。ひたひたと廊下を歩いていると、春の日差しが私の肩に降り注いだ。じわじわと浸食されるような感覚。いつにも増して今日は暖かい。一番角部屋に辿り着いたので、膝をつき、背筋を伸ばす。中に人の気配。ぴりっと空気が変わる。
「只今戻りました」
「はいりなさい」
失礼します、と一言かけてから障子に手をかける。右に障子を開くと、薄暗い茶室に座っている人物がひとり。
背筋をぴんと伸ばしてこちらを見つめる。切れ長の瞳が私をとらえた。越後の軍神。我が主。
「むりをしいてもうしわけなかったですね、ながたびごくろうさまです」
「いえ、そんな事は…」
私が戸惑いながら視線を伏せると、くすりと笑い声が零れた。
「あなたははたらきものだからとてもたすかります」
「そんな、…勿体ないお言葉」
「つるぎもあなたをしんようしていますよ。ながくあけてもあんしんだと」
「……買いかぶりすぎですよ、謙信様も、彼女も」
つるぎ。
その言葉にぴくりと反応してしまう。今の謙信様の口ぶりだと、彼女は越後を空けているのか。心のどこかで、ほっとした。私の目から見ても彼女は忍としては酷く不格好だ。感情に流されやすく、愚かしいと思うことでさえやろうとするし、口にする。生まれた時代を間違えているんじゃないのかとも思ったことがある。彼女と同郷だと名乗った武田の忍のほうがよほどそれらしい。
「さて、あなたのはなしをきかせてもらえますか?」
「…畏まりました」
この人には全て見透かされているのだろうか。
すっと細められた瞳に私は写っている。この人のこれは癖だ。ずっと苦手で、治らない癖。もっと欲を持ち、他国に攻め入れば容易く国を奪う事だってできるはずなのに、それをしない。彼女も謙信様も、似た人間だ。
「………」
いつまで経っても自分の気持ちすら吐露できない私とは違う。









瞼を持ち上げれば、そこは揺らめく水面だった。水底から差し込まれる光を見つめている。こぽり。口の端から零れた空気の球は弾かれるように上に上がっていく。ぱちぱち、とどこかで手を叩くような音が聞こえる。不思議だ。暖かい。心が落ち着き離れがたい気持ちになる。
『………、だ…、』
閉じかけた瞼と意識の隙間で、声が聞こえた。
聞きなれた、その声。
ああ、起きなければ。
「……大丈夫ですか」
「…………ええ、勿論」
半ば白昼夢のようなものだったのかもしれない。
ぱちぱちと数回瞬きをすれば、そこは水底なんかではなかった。雨に濡れる森の香り。けぶる視界に張り付く前髪は心底鬱陶しい。やはり髪を伸ばすのはやめよう。
ちゃきりと腰に当たる鍔が音を鳴らす。しんと静まり返ったその場所で、私を含めた5人が息を潜めてその場が過ぎるのを待っている。
ほんのすぐ近くに武田の陣営。
燃える松明が甲斐の虎の姿を映し出す。そうしてその隣には、若虎。いつの間にこんなに越後の領土に侵入していたのか。気がつくのに時間がかかってしまったことに焦りを覚えるが、すでに起こってしまったことを悔やんでも仕方がないと言い聞かせ、今の状況を打破することにだけ集中することにした。
拙攻として他国へ足を向けている途中に気がついた森の異変。数人の部下しか連れていなかったのが幸いしてか、まだあちらには気づかれていないようだ。
「………」
それにしても、大胆不敵。
謙信様と生涯の好敵手として立ち続ける甲斐の虎。その思惑は、どこにあるのか。至急近くの忍隊に知らせるために走らせた部下が行ってから、どれくらい経ったか。…いくらなんでもかかりすぎか。勘付かれている、か。
「……、合図したら走れ」
「隊長…」
「振り返らず、走れ。…命を無駄にするな」
ざっと感じる纏わりつくような視線。全員生きて帰るのは不可能かなと妙に冷静になる部分がある。柄を握る。手になじむそれは、家を出るときに持たされた唯一の品物。一気に抜き払い、足元の小石を蹴り上げ気配の元に投げつける。それを合図に部下が四方に散りながら走り去る。追随するように影が追いかける。それに目がけて小刀を放るが、割り込んできた影によってすべてそれは地面に落ちて刺さった。
「…………武田の忍、」
「悪いね。…部下を死なせたくないってアンタの気持ち、分かるけどさ。俺も、ここであんたらを帰すわけには行かないんだよ」
「…そうだろうな」
巨大な手裏剣を両手に持ち、こちらのことをじっと見つめる武田の忍。言葉は飄々と淡々と口にされているが、それ以外は私の一瞬の隙を探るために全身を緊張で張り詰めている。あんまりにも強い視線だったので、疲れてしまって溜め息をつくと不審そうに眉を顰めた。
「あんた、本当に冷静だね。いや、冷静っていうか…興味、ないの?自分のことでしょ?」
「……怖いさ、とんでもなく」
「ふぅん、そうは見えないけど」
「ええ、まあね。…私にも譲れないことがあるから、引けないだけだよ」
あなたと、同じ。
腰に挿していた鞘を引き抜いて地面に放り投げた。この男相手に、こんなものぶら下げていたら邪魔くさい。何が致命傷になるか分からない。全力で、闘わなければ。
「………部下も心配だから、さっさと始めないか?」
「…アンタ、仲間だったら楽しかったかもね」
「…かもしれないな」
風のように吹き抜ける、きらめく残像。時間稼ぎにもならないか。それでも、さすがに部下にこの男の相手は荷が重過ぎるだろう。私も決して軽いというわけではないけれど。彼女だったら、どうだろうか。ふとそんなことを考えた。あの子は優しいけれど弱くはない。愚かだけれど、阿呆ではない。ごぽり。水面が視界にちらつく。濁っていくそれに、私は嘆息する。白んでいる光。降り積もる雪。庭に咲く椿。落ちる花弁。散る赤。視界が歪む。ぐにゃりぐにゃり。瞼を閉じる。視界は黒に塗りつぶされた。










「お前、この前の戦でいい働きをしたそうじゃないか」
「はぁ…、」
「謙信様にも認められて…!!」
「あー…、」
「…なんだ、さっきからその反応は」
「いえ、そんなこともあったなぁと」
「そ、そんなこと?!」
謙信様に認められてそんなことなんてよく言えるな!と怒り心頭の彼女は手当たり次第にクナイを放り投げてきたので、懸命に逃げたのが一番最初。元々は謙信様の首を狙って忍び込んできた者が、同士を裏切りこちらについたのだという話を聞いて漸く彼女が謙信様に固執する理由が分かった。…陶酔というのが正しい。思えばあの頃から彼女と接することが増えていった。謙信様の一挙手一投足を逐一私に報告する彼女の相手をするのが私の日課。先ほど謙信様がどうしたとか、こうしたとか、あんなことを言ったとかいわなかったとか、そんな他愛のない話。
ほかの女中に話せばいいじゃないかと思った時期もあったが、そう思うのも暫くすると止めた。忍の上に、元他国の人間。彼女を恐れて女中が近寄らない様子を私も目にしてしまった。彼女と目が合うと、一瞬驚いた顔をして、すぐに顔を背けて拗ねたように唇を尖らせる。なんだ、見られたのか。そう零す彼女を私は黙って見つめる。
「そんなこと、気にしなくていい」
「……え」
「謙信様、向こうにいたよ」
「そ、そうか」
「行っておいで、かすが」
ごぽり。
水が流れ出す。澱みも光も全て連れて行く。
暖かく甘い泥のような水。身体を包み込むものが剥がれ落ちていく。現実味を帯びた香りと冷たさが身体を冷やしていく。
行かないでほしい。まだ、一緒にいたいのに。
「…、おきろ、起きてくれ……頼む…」
遠くで小さく呻くような声が聞こえた。
重たい瞼を動かす。上手く動かせない。
「…たのむ…ッ」
かすむ視界に移るのは、彼女の顔。
震える手を伸ばして頬に触れる。指にかかる山吹の髪が光に当り金色に煌く。さらりさらりと髪の毛が零れ落ちる。やっぱり髪は伸ばそうかななんて場違いなことをぼんやりと考えた。血に濡れた手で私の手を握る彼女の顔はぐにゃりと歪む。
酷い顔だ、と掠れた声で私が呟くと彼女は怒ったように泣く。
「おきろと言ったのは、貴女でしょうが…」
「うるさい…っ!何だ、この有様は…!大馬鹿者が!帰ったら容赦しないからな…!」
「怖いこわい……」
くすくすと笑うと彼女は怒る。時々苦しくて顔を顰めると、泣きそうになりながら、怒る。どちらにしても怒るのかと呆れにもにた感情。それでも。最後というのに、どうしたってこんなに心が静かなのか。恐れの感情も、悲しみの感情も感じない。ああ、そうか。彼女が私の代わりにたくさん泣いてくれているからか。
「眉間に皺を寄せたら、…美人が勿体無い」
「うるさ、い……ッ!!」
ざぶざぶと流れ込んで来るのは感情と言う名の甘い水。私はそれに溺れないようにもがくけれど、それは難しい。春のような柔らかさをもつそれを受け入れようと手を伸ばせば、私を拒絶するようにぴしゃりと冷たく色をなくす。さながらそれの瞬間を待ちわびる人のように。ぶくぶくと、息が零れて落ちていく。まばたきをしたらするりと頭から大切な記憶が落ちていく。水面を仰ぎ見ると、星のか細い光がぐにゃりとねじ曲がり消えていく。全て。落ちる涙も全て海に溶けていく。
「かすが」
あなたの名前を呼ぶ。
あなたを友だと呼びたかった。








あなたの海はとても静かだ









「………あ」
「あ」
校舎の影でこそこそと動く姿。目を凝らさなくても、誰だかはっきりと分かる。卒業証書が入っている深い緋の色をした筒を片手にひらりと手を振ると、彼女は居心地の悪そうに視線を泳がせた。人一人くらいの間隔を開けて、彼女と並ぶ。まだ冬の冷たさが残る風がスカートの裾をひらひらと揺らす。
「行かないの?」
「……そう簡単にいったら苦労しない、大馬鹿者め」
「ふうん。…上杉先生、人気だから先越されても文句はナシってことね」
「…………」
じと目でそう人を見るな。美人なんだから迫力が凄いんだから。
私がわざとらしく肩をあげて溜め息をつくと、きゅうにしゅんとしぼんですまないと声を零す。唇を尖らせて、よそを向く。
「ワンポイントアドバイス」
「え、」
「かすがは十分魅力的。貴女と何年友達やってると思ってるの」
「……、ああ、」
「自信もっていきなさい。頑張る姿は誰にも負けないでしょ」
「…っ、ありがとう!行ってくる!!」
スカートを翻して、走って校舎の角を曲がり姿が見えなくなる。笑顔で振っていた手を止めて、ゆっくりとその手を下ろす。




「今度こそ幸せになってね」





それは私の譲れない願い。


「青藍」
H23.12.21
彩りで世界を染めて様提出。

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tittle by みずうみ