愛しの死神

※黄瀬女体化。怪我による欠損ネタを含みます。緑間ヤンデレ風味。
5000hit御礼リクエスト第一弾。わかる方にはわかると思いますが高校のころに読んだ村/上/春/樹のレ/キ/シ/ン/ト/ン/の/幽/霊という話をオマージュしました。




緑間くんが黄瀬さんと結婚をしたという報せが入ったのは初夏のことだった。ポストに舞い込んだ葉書の存在に気付いた僕は、ミルクがたっぷり入っているコーヒーを啜りながら葉書の宛先を見る。喉に詰まりかけたコーヒーを何とか飲みほし、震える手で葉書をひっくり返す。「結婚式のご案内」と書かれたその文面を読んで、僕は今度こそフローリングに向かってコーヒーを吐き出してしまった。
 落ち着いた僕はよくよく文面を確認する。パソコンで加工された葉書には水彩画のような淡いテイストのイラストが描かれており、その横には結婚式の日取りが書かれている。参加不参加関わらず返信してほしい、と書いてあり僕は迷わず参加をまるで囲んだ。


「あいつはな、黒子。あの子の足になると言っているんだ」
 階段の踊り場にさしかかった頃、赤司くんがそうぽつりと漏らした。視線の先には恭しくお姫様だっこをしながら黄瀬さんを運ぶ緑間くんが見えた。まるでこうするのが当然だと言いたいかのように軽々と膝に腕を回し、肩を抱いている。黄瀬さんの車椅子を紫原くんが折りたたんだ状態にして片手で持ち上げている。眠たそうな目が緑間くんの背中を見て「ミドチン王子様〜」と言っているのが聞こえた。
「緑間は孤独な男だった。そしてあの子も。緑間はあの子を中学で初めて見たとき、運命だとそう言ったんだ。俺は緑間になら、あの子を託してもいいと本気で思っている」
 黄瀬さんと緑間くんの因果は彼らが六歳のころから遡る。緑間くんの母と黄瀬さんの一家はたまたま同じバスに乗って、そして事故に巻き込まれた。幸い黄瀬さんは生き残ったが、生存者は彼女だけだった。そんな彼女も、両方の足首から下を失い、両親を失ったばかりか五体満足の生活を送ることはできなくなってしまったのだ。
 そんな彼女を哀れに思ったのは、赤司くんの父だった。赤司くんの父と黄瀬さんの父は大学時代の親友で、黄瀬さんの名づけ親も彼だったのだ。当時6歳のまま天涯孤独の身となった黄瀬さんは苗字を変えることなく、戸籍上赤司くんの姉になった。一方、緑間くんは父と二人暮らしをしばらく続けていたが、彼が小学五年に上がるころ緑間くんは父方の祖父母に預けられる。詳細は分からないけれど、お父さんが亡くなったのだと風のうわさで知った。
 かけがえのないものを失った幼い二人はまるで運命の糸に手繰り寄せられるようにして出会うのに時間はかからなかった。当時、車椅子の黄瀬さんは血の繋がっていない弟である赤司くんや、同じクラスの紫原くんの介助を必要としていたものの、よく自力で赤司くんの様子を見に体育館に来ていたのを僕は幾度か見ている。暑い日でもブランケットで膝を隠し、寒そうにカーディガンから指を出してバスケットボールを目で追っていた。
 ハンデを持ちながらも、黄瀬さんの性格は溌剌としていてしかも彼女の容姿はまるでビスクドールのように整っていたので、不躾な理由を携えて彼女に近づこうとする輩も少なくはなかった。
赤司くんは部の主将だったため、黄瀬さんにつきっきりと言うことはできない。その隙を伺って彼女に触れようとする如何わしい理由を携えた手が伸びたことがあった。顔を歪め伸ばされる手を必死に払いのけようとしていた黄瀬さんを助けたのが緑間くんだったのだ。
 実質、戸籍上では赤司くんが黄瀬さんの弟であるはずなのに、彼は黄瀬さんを妹のように扱う。名前を呼ぶときだって、一緒に帰るときだって、まるで兄が妹を気遣っているような仕草だった。その時ばかりは、赤司くんはバスケ部を取り仕切る鬼の部長ではなく、黄瀬さんの家族としてとても穏やかな顔をしていた。

「きっとあいつなら、あの子を幸せにしてくれる」
 黄瀬さんの金色の髪が揺れている。いっそ映画のワンシーンのようにガラス細工のように優しく抱きかかえられ、緑間くんの腕の中に納まっている黄瀬さんの表情は、失ったものを埋めてくれる存在をすでに見定めたかのように抱き上げる腕の主を見つめている。緑間くんは何も言わないし黄瀬さんもまた特別表情を変えるわけではなかったけれど、二人の間に流れる穏やかな温度が僕の胸にも染みわたっていく。二人がこの先も変わらずゆっくりとした時間と穏やかな関係を保ってくれたらいい、僕はあの日確かにそう思ったのだ。

 あっという間に季節は初夏を過ぎて秋を連れてきた。チャペルでの結婚式は滞りなく終わり、海を臨めるホテルで立食パーティーが催された。僕が年代物のワインを飲んでいた時のことだった。潮風は冷たい温度を運ぶから、と式が終わると黄瀬さんはブランケットを膝にのせ、上着を羽織りながら桃井さんと赤司くんと紫原くんと青峰くんを交えて談笑をしている。シンプルな白いドレスを着ている彼女の足の先は、初めて見たときから変わらず足首から下がなく、つるりとしたふくらはぎがあるだけだ。
 しかしそれすらも彼女の美しさの一部かのようになめらかな白い足首は黄瀬さんと共に時を刻んでいる。
 不意に手元が陰ったので顔をあげると、隣に緑間くんが立っていた。黒いタキシードを着た緑間くんは、厚い前髪をオールバックにしている為、いつもよりも顔立ちが険しく見える。子供が見たら泣いてしまいそうだ。
「黄瀬さん、とてもきれいですね。ドレスもとても似合っています」
「ああ。だが赤司がな、未だに白無垢がよかったと言って聞かないのだよ。写真は白無垢にする予定だ」
「黄瀬さんならどちらもとても似合うと思いますよ」
「当たり前だ、俺の妻だからな」
 そういえば、もう彼女も黄瀬さんではないんだな、と思いだし僕はむず痒い思いをしながらも今度から彼女の下の名前を呼ぼうと内心で思っていた時だった。海から風が吹き、黄瀬さんの髪留めとして飾られていた生花のコサージュから一枚の花弁が風に乗って飛んでいく。白い花弁は空に舞い上がって宙を漂い、そのままひらひらと緑間君の足元に降りていく。花弁の行先に緑間くんがいることに気付いた黄瀬さんは、顔を綻ばせていた。
 悲しみと喪失から始まった二人の関係は、今ではこんなにも優しさと幸せにあふれている。二人を祝福するかのように頭上を白いハトが数羽、羽ばたいていく。黄瀬さんを囲む人たちの笑顔を見た僕もまた、つられるように口が緩んでしまった。


 母が亡くなったのは俺が六歳の夏休みの時だった。彼女は定期的に受けていた産婦人科での検診のため、俺を祖父母に預けて都営バスに揺られていたという。ちょうどそのとき、黄瀬は両親と一緒に水族館に行くため、母と同じバスに途中から乗り込んだ。黄瀬はいったい、どんな気持ちで水族館までの道のりを過ごしていたのだろう。きっと、そこには嬉しさと楽しさしかなかったのかもしれない。この先の交差点で、両親と自分の両足を失う未来があるなんて、きっと小さな彼女は思いもしなかったはずだ。そしてまた、母も胎内に宿った我が子と一緒に命を落とすなんて、夢にも思わなかったのだろう。
 祖父母の家にある黒電話がけたたましく鳴って、俺は詳しい事情も聞かずに病室のある部屋へと通された。そこには寝台に寝かされた白い布を顔にかけた母と、憔悴しきった父が腰かけに座っていた。父は穴が開くのではないかと言うくらいじっと母を見つめていた。母は搬送されたものの、すでに呼吸はなく、処置を受けることなく死亡が確認されたらしい。当時の俺はよく意味が分からず、布を取った母の顔を見ても眠っているようにしか見えなかった。それよりも、幼い俺にとっては、まるで魂が抜けてしまったかのようにぐったりと椅子に座っている父の方が気がかりだった。
 バス事故の被害者の告別式は合同で行われた。母の隣の部屋では夫婦の式が執り行われていた。下世話な噂話によると、どうやら夫婦には一人娘がいて、その娘も足を切断しこれから車椅子での生活を強いられるという。ちらりと見た娘の顔は人形のように固まっていて、礼服を着た式場のスタッフに車椅子を押されている。かわいそうに、と自分も母を失った立場ながら、彼女を哀れに思った。黄瀬と出会ったのは、それが最初だった。

 生前、母が気に入っていたソファに父が寝そべっている。まるで母が残したぬくもりを探しているように。父は母を失ってから仕事を辞め、一日中家にいるようになった。何をするでもなく、ぼんやりと虚空を見つめていたり、心配してきてくれた祖母の出した料理をもそもそと咀嚼し、それから泥のように眠る。俺は小学校に通い、帰宅すると父の眠る寝台のそばに立って、可能な限り父を監視していた。俺が見ていないと、父はすぐにでも死んでしまいそうだったからだ。
 そんな生活が一年以上続いたが、さすがに命日になると父は糊のきいたシャツを着てネクタイをしめ、礼服のジャケットを羽織って昨日までの生気の抜けた顔が嘘のように目を鋭く光らせて海沿いにある母の墓に花を手向けた。母が生きていた時の父は、それほど母を愛しているという仕草を見せたことはなかった。いつも母の問いに必要最低限の言葉で返し、何も言わずに職場へと出勤する。母のお腹に新しい命が宿ったと聞いた時でさえも、そうか、とだけ言ってそれっきりだった。
 失ってしまってからでは、何もかもが遅い。父は母の墓を見て葬儀の時ですら流さなかった涙を、切れ長の目じりからとめどなく零していった。どこからともなくやってきた白い花弁が、母の墓前に迷い込む。なぜなのかは分からないが、その花弁はまるで母の指のように思えた。
 花弁はまるで父を慰めているかのように、するりと頬を撫で飛んで行ってしまった。青い空の向こうへと消えていった花弁の行方を追っていた俺に、父が何かを囁く。よく聞こえなかった、と思って父を見上げると、彼は墓から目を離し、涙を眼に浮かべながら俺を見つめていた。
「すまない」
 父の声を聞いたのはこれが最後だった。あの時、父は俺に声をかけたのではなく、母に謝罪していたのかもしれない、と俺は思う。俺を残していくこと、後を追ってしまうこと。あの言葉に母への気持ちすべてが詰まっていたと思う。父はこの時から、死の影を見つめていたのかもしれない。愛する妻との思い出を手繰り寄せるように、父は帰宅した後昏々と眠り続けた。俺が四年生に上がるころ、父は亡くなった。瞼を閉じて、口元に微笑みを浮かべたまま、母の気に入っていたソファに体を預けて眠るように死んだ。

 夜、目をつぶると父の死に顔みたいな寝顔を思い出す。うつらうつらとしたころ、必ず瞼の裏に過るその映像は、俺を不眠症の気がある子供にした。母が死んだときよりも、父が亡くなったことの方が幼い俺にとってはショッキングなことだったのかもしれない。しかし、父がそうであった時のように俺は父の死を思って眠ることはなかった。少しでも疲れて眠れるように、と医師に勧められて俺はバスケットを始めた。これが体にあっていたのか、ミニバスから帰った日はぐっすりと眠れる。父の夢も見ずに済んだ。
 母の月命日が近付くと不思議と俺は、あの告別式の日に見た車椅子の少女を思い出す。人形のような横顔は、まるでソファに寝そべる抜け殻のような父のようだった。大切なものを失った人間は、一様にああなるのだろうか。それなら、母の死にも動じず、父の死さえも見送った俺はいったい何なのだろうか。俺は平然と生きているし、父のように廃人にはならず、彼女のような人形にすらなりきれない。もしかしたら、俺は自分が思っている以上に非常な人間なのかもしれない。
 布団に頭からもぐりながら、俺は目じりから一粒の涙をこぼす。バッシュのスキール音が耳元によみがえり、俺は安堵しながら冷たくなった枕に顔を寄せて俺は瞼を閉じた。
 それからも俺の不眠症は続いていた。

 中学に入学してもそれは変わらずに俺に付きまとった。眼鏡をしているせいか目の際に張り付いた隈は少しは目立たなかったが、ちゃんと眠るべき時間帯に睡眠のとれない俺の体調は芳しくなく、それは性格のゆがみにもかかわってくるほどだった。眠気は襲ってくるが、深く眠ることはできない。イライラが募ってクラスメイトへの態度も入学早々冷たくあたったせいか、クラスでの俺の風当たりは強かった。
「緑間は仏頂面ばっかしているな」
 額に張り付いた厚い前髪をかき分けていると、バスケ部に入部して以来何かと行動を共にするようになった赤司は笑いながら俺を見て言った。赤司といると、なぜか気が抜けてしまう。それは彼自身の放つオーラだとか、人格だとかそういったものではなく、赤司にまとう甘い残り香が俺に眠気を呼び込むのだ。
「隈も酷いな」
「いつものことなのだよ、不眠専門の医者に何度もかかったが、答えは同じだ」
 俺の不眠は精神的なもの。睡眠薬を服用しても俺の脳がそれを拒絶するという。
「でも不思議だ、お前のそばにいるとなぜか不眠がなくなりそうな…そんな気がする」
「それは光栄だな」
 先輩が赤司を手招きしているのが見える。赤司がすまない、と俺に言うと駆け足で行ってしまった。閉じかけていた瞼が上にあがり、俺は気だるい体に鞭を打って立ち上がる。赤司と出会ったころから、頻繁にキイキイ、と車輪の鳴く音が頭に付きまとうようになった。それは母の死に顔も、父の寝顔すら霞むくらいの頻度で。思えば、この頃から俺は赤司を通して彼女の面影を見つめていたのかもしれない。そして赤司も、それを悟って極力俺のそばにいてくれたのだ。
「あ、きせちんだー」
 いつの間にか立っていた紫原が、赤司が走って行った入口の方を見て言った。逆光のせいで赤司が誰と話しているのかは分からない。しかし、紫原の言った言葉に俺の体は電流が走ったかのように震え上がる。キイキイという車輪の音が、イメージではなくダイレクトに鼓膜に響くのは、これが二度目だった。太陽が陰って入口に降り注ぐ陽気が抑えられるのに、チカチカとした何かが目に入る。紫原も眩しそうに目を細めた。
「きせ…?」
 ショートカットの金髪がさらさらと稲穂のように揺れている。白い肌はまるでビスクドールのように透き通り、遠目でも肌のきめ細やかさが見て取れる。しかし、あの時と全く違うのは、彼女の顔に浮かぶ満面の笑み。赤司を見上げて惜しみない笑顔を送る彼女は、告別式で見かけた少女とは考えられない変貌を遂げていた。
「みどちん知らないんだっけ。きせちんはね、赤ちんのお姉ちゃんなんだよ?血はつながってないらしいけど、なんかあの二人雰囲気似てるよねー」
 珍しく饒舌な紫原の言う黄瀬の話を聞きながら俺はぼんやりと赤司と黄瀬を見ていた。足の先はやはりつるりと足首から下は存在しない。あのころと変わらないのは、失われた足首だけだった。
「こっちに手振ってる、かわいいねー」
 初夏だというのに学校指定のカーディガンを羽織っている黄瀬は太陽の光を一身に浴びながら大きく手を振っていた。大切なものを失った人形のようだった少女は、俺の知らない間に血の通った人間に変わっていた。紫原もまた手を振るのを横で感じながら、俺は恍惚と少女を眺めていた。自分でも抑えの利かないくらいの眠気が俺の全身を包み込んでいく。もう、瞼の裏に両親の死に顔が映ることはなかった。
 黄瀬を見たその晩から三日間、俺は自分でも信じられないくらいに眠りつづけた。永遠に起き上がれないのではないのだろうか、と祖父母に心配されるくらいに深い意識の底にある泥に沈んでいたのだ。起き上がってメガネをかけて鏡を見ると、目の下にくっきりとこびりついていた隈はなくなり、土気色をしていた頬に血色が戻っている。俺はその時、確信した。父にとっての眠りのきっかけが母であったように、俺もまた運命の人と呼べるべき夢の国の使者に出会ってしまったのだと。

 それからは、言うまでもなく俺はすべての愛を黄瀬に捧げた。赤司や紫原が近くにいたせいか、俺は容易に彼女に近づく切掛けを掴めずにいた。口下手が災いしてか、黄瀬は俺に対して苦手意識を持っているらしく、俺が黄瀬の介助をするだけで体をこわばらせた。そういった背景もあって、赤司は不必要に俺を黄瀬に近づけたがらなかった。だが、不幸中の幸いと言っていいのか、黄瀬のことをよからぬ目で見る男から彼女を救うことで赤司は俺が黄瀬のそばにいることに関して寛容になるようになったのだ。双子座のラッキーアイテムである消臭スプレーを、黄瀬の車椅子に仕込んでおいてよかった、と俺はおは朝の放送局のある方角に向かって深々と礼をしたものだ。

 バスケ部のメンバーで水族館に行くという話が上がった時も、終始黄瀬は首を振って苦笑をしていた。どういう経緯だったかは覚えていないが、その時俺たちは初めて部室で二人きりになったのだ。そうなった瞬間から黄瀬は既に心に決めていたのだろう。静まり返った部室で、黄瀬は俺に正面から向き合いながら、彼女が九年間ずっと黙っていた秘密の話を零したのだ。誰にも話せなかった、否、俺にしか話せない彼女の記憶を。
「実はと言うとね。お父さんとお母さんが死んだあとのことは結構曖昧なんスよ」
 事故に会うまでは運動が大好きで活発だった彼女は、今でもあの頃から変わらない口癖で気を許した相手には話しかけるらしい。黄瀬はすべて乗り越えてはいなかった。愛する両親の面影を、彼女はいつだって探していたのだ。
「でも、あの日事故にあった時のことは数秒たりとも逃すことなく、覚えてる」
 今でも、説明を求められれば詳細に話すことができるよ、と黄瀬は言った。
「あの日は日曜日だった。前日の土曜日の夕方のニュースで水族館の特集がやっていたっス。だから、ソファでくつろいでいたお父さんに水族館に行きたいと駄々をこねた。お母さんもお父さんも二つ返事で了承してくれた。二人は、最後まで私のわがままに付き合ってくれた。違う、最後まで、付き合わせてしまったと言った方がいいかもしれない。翌日お気に入りのワンピースを着てお父さんとお母さんの間に挟まれて二人と手をつなぎながらバスに乗った。車内は日曜日だったせいか時間の割に結構混雑していた。両親は立って、私は空いた席に座らされた。隣には、体型の割にはお腹のぽっこり出た綺麗な人がいた。マタニティキーホルダーをかばんにつけていたから、妊婦さんだとわかった。幸せそうにお腹を撫でて、お腹の中の赤ちゃんのこと、赤ちゃんのお兄ちゃんになる自分の息子のこと、そして旦那さんのことをしゃべった。とても、とても優しい顔だった。両親も妊婦さんの話に聞き入っていた。後二つ先の駅で、妊婦さんが下りる、というところで、バスは何か大きなものに衝突した。物凄いクラクションの音、揺れる車内に私の頭はパニックになった。その時、父と母は大きく傾いたバスの窓から投げ出されていくのが見えた。二人は最期まで私を目で追っていた。二人に伸ばした指は服の裾すら掴むことはなかった。バスは反動でも一度跳ね、街路樹に突っ込んでいった。車内で何か大きなものに足首をつぶされて、私が喘いでいると配線がショートしたのかもね、私の頭上で何かが爆発した。でも誰かが私をかばってくれた。温かい腕が冷たくなって、お腹のあたりが濡れていって、耳元で痛そうに埋めている人の声を聴いて、その人が隣に座っていた妊婦さんだと私はようやく理解した。煙を吸って苦しくても、押しつぶされた足が痛くても涙は出なかったのに、あの人が苦しそうにしながら私に何度も大丈夫だよ、って言ってくれた時の方がよっぽど辛くて、悲しくて、救助隊の人が来てくれるまで、ずっと妊婦さんにしがみついて、泣いていた」
 一息に言い終えると、黄瀬は俺の目をまっすぐに見て悲しげに顔をゆがめた。黄瀬はもしかしたら、最初から分かっていたのかもしれない。幼い黄瀬を助けた人が、俺の母親だということを。
「緑間っちを見たとき、すぐに分かった。緑間っちは多分お父さん似なんだと思うけど、私の車椅子のハンドルを握って引いてくれるときの眼差しも、私を抱きかかえてくれる時だって、あの女の人の仕草を思い出したから」
 震えながら吐き出された声を耳にしながら、俺はそうか、とようやく理解したのだ。俺の裾を掴むこの手も、俺に懺悔を乞う声も、さらけ出された白いうなじも、永遠に自分の力で立ち上がることは困難になった欠けた足がここに存在する理由も今なら分かる。どうして俺が母の死も父の死を見ても眠ることはできなかったのか。きっと俺は、この少女の死のために生きている。母が命がけで、俺が眠る理由を残してくれたのだ。あの日、検診が始まる時間を見積もっても早すぎるはずのバスに乗ったのも、きっと。

 黄瀬は水族館と言うものに対し恐怖心を抱くらしく、彼女は未だにあの日行こうとしていた水族館経由のバスを見るだけで竦み上がってしまうのだという。彼女がかたくなに水族館に行きたがらない理由を聞いて俺は納得して黄瀬の頭を撫でた。ほかの場所にしてほしい、だなんて黄瀬は言えないのだ。この哀れな女は失ってしまうことに異常におびえているのだ。
「俺も水族館は苦手なのだよ」
 なるべく彼女に目線を合わせるように片膝を立てながら座り、黄瀬を覗き込む。涙こそこぼれてはいないものの、黄瀬は大きな目に水の膜を張りながら、両目に俺を映していた。
「水族館とは逆の方向で、電車を乗り継がないといけないが新しくできたテーマパークがあるのだよ、遊園地と博物館、美術館まである。どうせ遊びに行くなら、そっちの方が青峰や桃井や紫原も飽きないと、黄瀬は思わないか?」
 黄瀬の瞳に、まるで星が現れたのかと言うくらいにキラキラ光ると、彼女は長いまつげを瞬かせながら大きくうなずいた。


「緑間くん、どうしたんですか?花弁なんか眺めて」
 黒子が不思議そうに俺を見上げている。幼いあの日、父はこうやって俺を見下ろしていたのかもしれない。テーブル3つ分向こうにいる黄瀬があの日の体育館で再会した時のように輝いている。白いカーディガンは純白のドレスに、そして彼女を取り囲む人は赤司だけからすでに四人となっていて、月日の変化がうかがえる。

(もう、誰かが死ぬのを見るのは嫌だよ…)
 今でこそ満面の笑みを浮かべる妻は、時折子供のように不安げに俺の胸に顔をうずめて泣いているときがある。その時俺は決まって彼女の背中を撫でるのだ。自分はここにいると、何度も言い聞かせるように。
「すまない」
 隣の黒子に、そして赤司に、紫原に、青峰に、桃井に、彼女を愛する人々に俺は謝罪する。そいつはきっと、長くは生きられない。年々、俺の母に似てきているのだ。容姿なんかではなく、もっともっと心の深いところにある彼女の体に巻きつく運命が、である。きっと母のように他人をかばいながら彼女は死ぬ。そして俺は父のように妻を思いながら眠り続け、最後は彼女の残像を見ながらようやく死ぬことができるのだろう。
「…緑間くん?」
 どうして泣いているんですか、と黒子は戸惑った様子なのが分かった。そんなのお構いなしに俺はもう一度、すべての人間に謝罪する。黄瀬は俺に死を見守られるために俺のそばにいる。俺は黄瀬を思いながら眠るために彼女の夫になった。俺たちは、出会ったその瞬間から死という最後を見つめていただけのだ。

 ドレスの裾がたなびいて、どこからともなく花弁が迷い込む。花弁を拾うこともせずに俺は向こう側にいる人々を見つめた。涙の膜が張った視界の中、白いドレスを着た愛しい死神が、確かに俺の方を見て微笑んでいた。


おわり


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