脆き者よ、汝の名は女。
授業が自習で、私は一人サロンで読書をしている時だった。
誰もいないサロンにふらりと彼が入ってきたのは。
「あれ、詩音ちゃんやん。」
耳に入ってきた関西弁にピクリと反応する。
低く響く官能的な関西弁はアイツしかいない。
構わず読書を続けていると、カタリと音がして机を挟んだ目の前の椅子に彼が腰掛ける。
「なぁ詩音ちゃん。」
本から目線を外して前を見ると頬杖をつきながらこちらを見ている忍足。
じっと見つめてくる彼に、溜息を吐いて再び本に目線を落とした。
「相変わらずつれへんなぁ。まぁそんなところもえぇんやけど。」
微笑む彼は俗に言うドМなんだろうか。
無視されてるのに一人で喋って何が楽しいのか正直理解しかねる。
本に印刷されている字に視線を滑らせていると、忍足は「なぁ、」とまた声を出した。
耳に残る低音が嫌い。
「…なに。」
「何読んでるん?」
「別に。」
「教えてくれへんの?」
「何でもいいでしょ。」
「もう少しデレてくれてもえぇんちゃうん?」
静かにして、と口を開くより先に忍足が笑った。
「知っとるけどな。…それハムレットやろ。」
「…は、」
驚いて本から顔を上げる。
目の前には長い髪を揺らして笑う忍足。
彼が言った通り、私が読んでいるのはハムレット。
カバーも掛けてあるのになぜ知っているのか。
変質者を見る目で見ていたら忍足は笑った。
「教室で読んどる時“生きるべきか死ぬべきか”って見えてん。」
「……そう。」
「オフィーリアの字も見えたし…悲劇なんて読むんやな?」
「…意外?」
「やって悲劇なんて読んだら泣くやろ、自分。」
「……。」
「しかもハムレットって全員死ぬやつやん。」
「………。」
「あ、せやけど絵画見に行った時ミレーのオフィーリアめっちゃ見とったな。」
「…何で知ってんの。」
「ついこないだやったやん。校外学習。」
「そうじゃなくて。なんで私がミレー見てたこと知ってんの。」
「好きやから、やけど?」
「…、」
「好きやから詩音ちゃんの事は何でも分かるで?」
私は本を閉じた。
彼の探る様な視線から逃れ、立ち上がる。
サロンの出口まで早足で歩き、今まさに出ようとしたところで後ろから伸びた腕がそれを邪魔する。
目の前にある手は壁についていて私の行く手を遮っていた。
背中にはぴったりと密着している彼の体温。
頬に擦り寄る彼の頬。
米神に当たる眼鏡の冷たさに身体が震えた。
「…退いて。」
不自然に掠れた声を、彼はどう思ったのだろう。
耳に直接あたる吐息が脳髄に絡みつく。
「声、掠れてるやん。」
忍足の指が私の髪を掬い耳にかける。
髪が除けられた耳朶に噛み付かれる。
恐怖に焼かれる気がして私は彼の腕を退かそうと手をかける。
体重をかけて押し退けようとするより先に彼のもう一方の腕が私の肩を抱く。
後ろから抱き締められて身動き出来ない。
壁についていた腕は私をあやすように髪を撫で、鎖骨を擽った。
鳥肌が立ち、背筋に氷塊が落ちる。
「放して。」
「何で?」
「放してってば!」
叫んでみても忍足は耳元で笑うばかりで腕を解かない。背中から伝わってくる彼の体温にゾクゾクと震えが走った。
「酷いなぁ詩音ちゃん。好きやって言うた途端逃げようとするなんて。」
耳の裏に忍足の舌が這う。微かな水音が卑猥に響いて羞恥が募る。
もがいても離れない彼の腕が怖い。
「俺が詩音ちゃん好きやって…気付いとったやろ?」
忍足が喋る度に熱い息が流れ込む。
唇が動く度、耳を擽って震えが走る。
唇が首筋へ降りていくのを感じながら、私は首を横に振った。
「嘘やん。俺ずっと詩音ちゃんの事見てたんやで?授業中も放課後も。」
血の気が引く音を聞いた気がした。
やっぱりだと思った。
学校にいる間中視線を感じた。
授業中も放課後も、ずっと。
その視線を辿るように目を向ければ、いつも目がかち合う忍足。
蛇のような粘着質な彼の目が怖くなって、それ以来視線の正体を探るのを止めた。
気付かないフリを続ければ大丈夫。
それでも彼が近付いて来るのが怖くて逃げていた。
忍足の指が鎖骨を下りて制服の中へ侵入しようとするのを止める。
震える指で押さえた彼の指は止まっていた。
嫌な汗が背を滑って、心臓が早鐘を打っている。
頭の片隅で警鐘が響く。
喉が渇いて声が出なかった。
「詩音。」
呼び捨てにされ恐ろしさに拍車がかかった。
息が上がる。
「好きやで。なぁ…」
熱い吐息を吐いた彼の固いモノが内腿に押し当てられてゾクッとした。
逃げられない。
「俺の熱、冷ましてや。」
end