扇骨02
枯れ草を踏み分けて、夜の山に入っていく。満月がちかい。吐く息が白い。
影と聳える岩場の上に、我が家の灯が見える。俺はここにいるのだから家には誰もいないが、空の家でも灯があれば埋まっているように見えるだろう。
伝えなければならないことができた。誰にも見咎められずに、あの魚に会わなければならない。
頼まれていた器を里に届けに行くたびに、噂話のかけらが耳に入った。
かつて、里からひとりの娘が欠けたこと。それにより、里は穏やかになったこと。その頃から、里のある家の庭で、欠いた娘の代わりに、金色の魚が泳ぐようになったこと。
それらがほんとうであるとするのならば、金色の魚はどこから来て、欠けた娘はどこへいったのだろうか。
「寒いな。雪が降りそうだ」
泡の弾けるような、声がした。声は進もうとしている先から降ってきた。眼をあげると、斜面を登り切るあたりで、双の黒円がこちらを見ていた。束ねられていない黒の糸が、魚の鰭のようにうねっている。白皙を覆う鱗は、青の滲むような黒だった。
川の流れのあげる音が、どこからか、響いてくる。
「告げるべきことがある」
黒色の魚は、水音に耳を傾けたようだった。
「ちかく、あの流れのはじまるところが、乱れる。ながく雨が降りやまず、水が溢れるだろう」
霧のような白が、漂っていく。景色が霞んできた。
「さかなではないものを踏み入れさせぬ。その盟を、われは違えた。さかなの穏やかさをもとめるがゆえに、さかなと代えて、里の娘をさかなの池に迎えた。里との争いにより群れが欠けていくよりは、よいことであるようにおもえた。いや、違うな。里に生簀があるだろう。そこに、金色を帯びたさかながいる。あれを永らえさせたいと、欲を出した。だから、われは裁かれなければならぬ」
晴れやかに、魚はわらった。
「見逃しては、くれないものだな」
その声は、潤んでいるようでもあったが、誇らしげでもあったから、月夜に歩んででも魚に伝えようとしていたことを、何も言えなくなった。
「われらの肉は、喰えばあらゆるものを癒す、復す、永らえさせる。喰ったものは、さかなになる」
声を奏でながら、ゆっくりと、魚は背を向けた。こちらを見つめながら流れていく切れ長の目は、陽の射さぬ水底のようだった。
<扇骨 抜粋02>
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