蜂蜜とメープル


 回転体のあげる水音が、キッチンにて繰り返されている。フライパンで焼かれているベーコンの漂わせる匂いは食欲を奮い立たせ、絞られていくオレンジの香りは爽やかさを弾けさせた。
 いくつかの部屋とキッチンとシャワー。家具は備え付け。現在、中期滞在中の大人数の客を迎えているこの宿は、傍目には共同住宅の一室に見えた。
 野菜や果物を市場で買いこんできた宿泊客が、宿に戻ってきた。ひとがたに夜を凝らせたかのような、小柄で若く、細くて薄いひとだった。玄関扉からソファとテーブルとキッチンを見渡して、そのひとは星空のような目をしばたたかせた。テーブルにつくられつつある食卓は二人分だった。

「皆さんは?」
 買い物袋を抱えたままのそのひとに、キッチンから声がかえった。

「酒場に繰り出して行ったよ。今日は中休みだし、明日の公演は夜からだ。息抜きも大切だからね」
「団長は息抜きしなくていいの?」
「食材の買い出しを頼んでおいてか」
「帰ってきたよ」
「今日はお部屋でゆっくりしたいの。まだ洗濯も終わっていないし。ところで、遅めの朝食はベーコンとパンケーキでかまわないかな」
「もう午後だよ」
「細かいことは気にしなくていいからね。あとはソファでくつろいでいなさい」

 回っている洗濯機の傍らにしゃがみこんで、笑みをたゆたわせながら、そのひとは冷蔵庫に買い物袋の中身を移していく。そのなかから二本の小瓶を選んで食卓に置き、床に散乱している本から一冊を手に取り、ソファに身を沈めたところで、キッチンにて悲鳴があがった。

「どうしたの?」

 パンケーキを焼いているはずの声の主の背中を、そのひとは眺める。

「団長はぷつぷつ恐怖症なのだけれどね」
「知ってるよ」
「おもいのほか表面がぷつぷつになってしまってね」
「なるほど、ぷつぷつだ」

 運ばれてきたパンケーキを前にして、そのひとは頷いた。

「ちいさな踵の持ち主たちが踊った跡じゃないかな。きっと、おいしそうな舞台だったんだよ。それが怖いというのなら、好きなもので上塗りしてしまえばいい」

 座ったまま身を乗り出して、そのひとは小瓶に手を伸ばす。

「蜂蜜とメープルシロップ、どちらがいい?」

 口をあけられることを待っている小瓶で両手をふさいで、悪戯をしかけるかのように、そのひとは問いかけた。


(『蜂蜜とメープル』/了)
(初出:第5回文学フリマ金沢 頒布ペーパー)

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