嘘と箱


 それはぼくがこの街に越してきてしばらく経った頃のことだった。住む家を決め、書店に勤め、日々を回すことに慣れ、余裕がでてきた頃のことだ。いつものように出勤すると、店の前で開店準備を始めていたぼくの雇い主たる店主がにやりと笑った。

「今日はお休みだよ」

 困惑を覚え、ぼくは黙りこむ。今日は定休日ではない。ならば、臨時休業ということだろうか。だが、もしそうであるのなら、店主が開店の準備をしているのはどうしてだろう。
 混乱の渦から這い出せないでいるぼくに、店主は呆れたような笑みをたゆたわせた。

「嘘だよ。そんなに困った顔をしなくてもいいじゃないか。こういった嘘なら喜ぶかとおもったのに。真面目だねぇ」

 開店と表示した看板を立て終わった店主は、軽薄な笑みを唇に描かせ、愉しげに目を眇めてみせた。

「今は嘘をついてもいい時間だからさ」

 呆気にとられて立ち尽すぼくを置き去りにして、店主は店の中に戻ってしまう。書店員として新米なぼくは、この街の住人としても新米である。ゆえに、街の習俗にはどうしても疎い。街の住人としての先輩である店主の振る舞いから察するに、どうやら、今日は嘘を吐いて楽しむ日のようだった。



「瞑想したくなるくらいに今日は客が来ないな」

 開店して数刻、店の入り口付近で書棚を整えていたぼくの耳に、迷路のように並んでいる書架の奥の椅子でぼやく店主の声が届いた。書架の迷宮の隙間から、かろうじて、やる気なく手を振っている店主の、軽やかに上下する指先だけが見える。

「お昼、早目に食べてきていいよ。この時間帯ならたいていの食堂はやってるし、席もすいてるだろ」

 沈黙をもって佇むぼくに、店主は椅子から腰をあげ、書架の隙間からこちらを観察してきた。

「これは嘘じゃないって」
「その言葉こそ嘘じゃないという保証は?」
「この店の頂点に君臨する者が嘘ではないと豪語しているのだよ、店員くん」

 威厳に満ちた断言にぼくは溜め息をつく。ここまで言うのなら、おそらく、嘘ではないのだろう。嘘だったとしても知るものか。疑念を抱いたまま、表向きは信じたふりをして、ぼくは書架の奥に声を投げた。

「昼休みの時間は?」
「長さはいつもと同じ」

 予想通りであった返答に身勝手ながらささやかな失望を覚えつつ、ぼくは早めの昼食をとることに決め、街へと繰り出して行った。



 ぼくのお気に入りの店は、広場に面している、軽食も出してくれるカフェである。昼食一式の載ったトレイをテラス席のテーブルに置くと、春とは名ばかりの肌寒さに、薄い長袖の上から腕をさすった。頭上には曇天。この街の印象はどこまでも灰色だ。
 食事を終え、珈琲を啜りながら広場を行き交う人々とおまけの焼き菓子とを交互に眺めていると、どこか舌足らずな、幼い声がした。

「おじさん、母さんを見なかった?」

 兎のような印象の幼子が、背伸びをしながら向かいの席のテーブルの淵に両手をかけ、澄んだ黒の目でぼくを見つめてくる。おじさんと呼ばれたことにささやかな反感を覚えつつも、このくらいの子にとってぼくくらいの年の者は皆おじさんかと諦めた。ぼくは上体を屈め、できるだけ幼子と目線の高さを合わせる。

「捜しているのは、お母さんは、どんな人?」

 ぼくの問いに、幼子の唇が微笑を咲かせた。幼子のふわりした長めの上着からはしなやかな脚が伸びていた。その服飾は上品で可愛らしいものではあったが男女のどちらとも判じがたいものであり、肩のあたりで揺れている黒髪からも、声音や顔立ちからも、幼子が男児であるのか女児であるのかは判じ難かった。ただ、この幼子が他人に抱かせる印象は、愛らしさよりもうつくしさが先走る。鋭利な氷に抉られれば肉が赤く腫れるように、それだけは、確かなことだった。

「時期が来たら、箱をあけるためのひと」

 ぼくは眉根を寄せた。どうにも話が読めない。幼子はぼくから目を逸らさない。

「ぼくは、母さんを追ってこの街に来たんだ。街に着く前には追いつけたんだけど、街にはいった途端にはぐれてしまって。ぼくは母さんのそばにいなきゃならないのに」

 幼子は悔いるように目を伏せた。どうしたものかと声をかけることもできないでいると、幼子は睫毛をふるわせながら眼をあげる。そして、困惑するぼくを楽しげに眺めた。

「箱の中身を知りたい悪戯者が、箱をあけろと母さんを責めるの。そんな悪戯者から母さんを護ってあげるのがぼくなんだ。だから、ぼくはいつだって母さんの傍にいてあげなければならないのだけれど、母さんにはとても会いたい人がいるから、その人の会えそうだと思いたてば、いつもひとりで走っていっちゃう。だから、ぼくはいつも母さんを追いかけて、追いついて、抱き締めてもらうんだ」

 そこでぼくは今朝の出来事を思い出した。何も知らないぼくは店主に遊ばれたではないか。今日は嘘を吐いて楽しむ日であったはずだ。そもそも、幼子の語ることはひどく現実味がない。まるで、夢の延長か、昔語りの口承のようだ。この語りが嘘ではないという証拠はどこにもない。ならば、ぼくだって、少しくらい戯れてみてもかまわないだろう。この街ではぐれてしまった母親との再会を望むというこの幼子は、言葉をもって、ぼくと遊んでいるようでもあるのだから。
 珈琲の苦味が残る舌先で、ぼくは問いを転がす。

「君が護っているのは、ほんとうに、お母さんなのかな? 箱の中身を見たがっているのは、ほんとうは、君ではないのかい?」

 可憐でしかなかった幼子の口の端が、皮肉っぽく、愉しげに吊り上がった。

「箱にとじこめられているものを、あるひとは病と呼んでいた。もしくは、箱とは苦痛そのものであると言い捨てた。蘇えることのない、停滞した、苦杯のかたちそのものだと。彼らは総じて、真理を欲し、解体をやめられず、にもかかわらず、既存として囲っている範疇からは外れたくないようなんだ。興味深いよね。だから、ぼくは箱の中身を見たいわけではないんだよ。箱を前にして声を張り上げる人々を見ている方が、中身を知ってしまうよりも、ずっと面白い」

 広場の時計が正午を指した。仕掛け時計であるそれの小窓が開き、音楽とともに人形が踊り出す。それまで広場でまどろんでいた鳩が一斉に飛び立った。曇天で旋回する鳩の群れに目を奪われていると、幼子が声をあげた。

「母さんだ!」

 灰色の空から眼を下ろすと、幼子はテーブルに手をつき、こちらに身を乗り出していた。どうやら、ぼくの背後の往来に母親の姿を見つけたらしい。幼子は満面に笑みを弾かせ、奈落とも星空ともつかない、輝く大きな黒の目にぼくを映した。

「お礼に、とっておきの秘密を教えてあげるね」

 このお礼というのは、いったい何に対してのものなのだろう。話を聞く以外、ぼくは何もしていない。ならば他に意味があるのかと首を傾げていると、口づけをせがむように幼子が顔を近づけてきた。焼き菓子のような甘い香りが鼻腔をくすぐる。狼狽したまま動けないでいるぼくの耳もとで、幼子は囁いた。

「夜のような地の底で、ぼくは生まれたんだよ」

 それはあまりにも唐突だった。真偽はもちろん、意味を汲むことすらできず、ぼくはただ目をしばたたく。亡羊と眼を向けるだけのぼくに、幼子は両の口の端を持ち上げた。そして、岩山から滑空する猛禽もかくやといった勢いで広場へと駆けていく。幼子のちいさな背はすぐに雑踏に紛れ、そこにあるのは行き交う人々の雑然とした流れだけになった。
 しばらくの間ぼんやりと往来を眺めていたぼくは、そろそろ昼休みが終わるということに気がついた。時間内に書店に戻らなければ、店長にどう遊ばれるかわかったものではない。
 そういえば、と、残っているはずの焼き菓子を探してトレイに眼を這わせると、そこには何もなかった。先刻の幼子の言葉が蘇る。ぼくは空を仰ぎ、額に手を遣った。

「やられた」

 あのお礼は、あの子の母親を捜すことに力を貸したことにではなく、ここにあった焼き菓子に対してのものだったわけだ。だが、ここでぼくとお喋りをしていたことで幼子は母親との再会を果たしたのだから、それがたとえ偶然であったとても、協力したことにしてしまおう。なんにせよ、これで心置きなく書店に戻れる。それに勝る宝はあるだろうか。

「よし。次にあの子に会ったら、食べたお菓子の倍のお菓子を要求してやる」

 指の隙間にちらつく灰色の空を眺めながら、ひとり、ぼくは頷いた。


(『嘘と箱』/了)
(初出:第2回Text-Revolutions公式アンソロジー『再会』)

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