碧淵05
その頃には、寝床を抜け出して散策をすることを、少女が咎めることもなくなっていた。
魚群の泳いでいる池の淵に沿って、ゆっくりと、歩く。樹木が途絶え、緑陰がなくなると、まばゆさが迫ってきた。
陽にかざした手の色に、うろたえる。いくらあまり出歩いていないとはいえ、こんなにも淡雪が透けたような肌をしていただろうか。
「晴れていますから、散歩をするにはよい日和です」
声につられて池に眼を落とすと、さかなが浮いていた。
「泳ぎませんか」
ためらっていると、さかなはゆるやかに身を反転させた。角のない波が広がっていく。金色が遠のいていく。
こちらの都合などかまっていないのか、誘ったことの結果になどこだわっていないのか、そのどちらでもないのか。そのくらいあのさかなにはつかみどころがない。ただ、さかなから何かをしようと招いてくることは稀だったので、乗ってみることにした。
大きく息を吸って、水に潜った。
水のなかは驚くほど澄んでいた。水草に降りかかる光の網を、先をゆく金色が抜けていく。魚の鱗が陽を弾く。池の底から湧き出す水が、透明な静止をゆらめかせている。泡を吐き、水底に溜まった小石を転がしながら、水を蹴った。着ているものの布地が、脚に纏わりつく。水を掻く手のひらが翳りを覚えて、緑陰に入ったことを知る。
山のもたらす翳りのなかにおいても、先遣りの金色は光を零していた。底に沿って泳ぐ金色を追いかける。次第に暗さが折り重なり、頭上の水嵩は増していく。深みへと潜っていく金色は、鈍く、鮮烈に、瞬いた。
水の流れに、裾が靡いた。浮かんでいるだけなのに、水塊に背を押さているようだった。水の向かう先では暗さが増していた。
このままでは吸いこまれる。
金色のゆらぎが、水を呑む口にわだかまっていた。真黒の口に佇む金色は、かたちが蕩け、淀んでいるようでもあった。
肌を撫でていく水流に抗おうとして、水を蹴る。水流から逃れようとしたものの、脚が縺れて、うまくいかない。足掻く四肢ごと水塊に抱きすくめられて、閉じこめられる。
水面を仰ぐ。遠くにたゆたう光の網へと、吐いた泡が昇っていく。
金色が、腕を掴んだ。水流に逆らって、からだが昇っていく。
さかなに曳かれるままに、水のなかを進む。陽のあたたかさが斑に降ってくる。掬われるように、水面が急速に近づいた。目を瞑ると、耳が落水の騒ぎで塞がれる。肌を流れ落ちて剥がれていく水の幕が、水面を叩き、飛沫をあげた。水音に代わって蝉の声が渦巻き始める。抱き上げられていたからだがおろされて、膝上まで水にひたった。
大口をあけて吸いこんだ気塊が肺を刺す。咳きこんでいると、陽が射してきた。雲の切れ間に空がある。水辺に茂る緑が天窓を開けている。足首をくすぐる小石がある。水面は常に震えている。水の湧く口がそこここにあるらしい。樹木と草に囲まれたこの場所からは、人がつくったものは何も見えない。
「水の流れこんでいるところがあったでしょう」
さかなが緑陰に沈んでいる。その傍らには、裂けた大木の根だけがあった。雷でも落ちたのか、水に潤み、苔むして崩れかけているのに、その裂け口は毛羽立っているように見えた。
「あそこからなら、ここを抜け出すことができますよ。陸の上からであれば難しいですが、水のなかからであれば容易です。ここに厭いたら出て行ってもいい。聞いたところによると、あの暗がりは海につながっているそうですよ」
湧いた水が溜まった淵は、底を見通せるほど澄んでいるはずなのに、水面に重なる葉陰のせいなのか、その碧に呑まれそうになる。
「他族にいつ攻められてもおかしくないような、潰えることを恐れ、避けようとしている、そういった里へ、この湧き水は川となって流れていきます。たとえその里のものではないものを退けたとしても、常にその里のものではないものに怯えている。今を重ねるためには、撥ねつけることのできない毒を飼い続けなければならない。そう、信じている」
さかなの指先が、かつては巨木であったであろうものの名残にある、裂傷を撫でた。いとおしんでいるようでもあり、懐かしんでいるようでもあった。
「ここは、もともと、さかなの庭なのです。ここにいることができるのは、さかなだけですから」
足もとの水を鏡として、己を見た。みどりの目がこちらを見ていた。郷を離れてから放っておかれたままに伸びた髪は、灯を透かした雪壁のように、白かった。
そんな色を帯びていた覚えは、ない。
鏡像を見つめたまま、唇がふるえた。
「おれは何を食べた?」
背後から、さかなの腕が伸びてきた。顔を包んでいる白糸を掻き分けて頬に触れようとして、ためらったようだった。その代わり、目隠しをするように、髪を撫でた。
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