碧淵01


 この暗いところに転がされて、どれほど経つのだろう。
 潮騒は聞こえない。磯の香もしない。慣れ親しんでいたはずのそれらは、ここにはない。
渇きと餓えは過ぎ果てて、すべてがぼんやりとしている。暑いのかも寒いのかもよくわからない。夜の海に沈んでいるかのような静止に、水泡のような目覚めが弾ける。落ちることを指向する瞼を抉じ開けてみると、黒いはずの闇が白く霞む。一瞬の浮上はすぐに掻き消えるから、息継ぎのために水面をついばむような短い目覚めと、その空隙とを、繰り返しているのかもしれなかった。まどろみに溺れているのか、それよりも深いところに沈降しているのかも、よくわからない。
そんな有様であったからか、にわかに漂ってきた香はあまりに芳しく、脳髄を痺れさせた。その香は頭上に置かれた何かから滲み出してくるものであるようだった。
 周囲には人が詰めていたらしい。複数の息遣いが、暗闇をふるわせる。
泥のような暗さに身を沈めて、近いところで行き交っているはずの声を、遠くに聞く。その底流には水音がさざめいている。近くに川でもあるのだろうか。
あかりが灯る。融け崩れる寸前の、かろうじて芯を立てている蝋燭が、炎をゆらめかせている。目の前だけを、燭火が拓く。床板の朽ちた狭いところに、突き合わせるようにして並んでいる膝が幾つもある。
燭火を置いたものと同じ手が、箱の蓋をあけた。節会の宴で見るような箱だった。しなやかな白い手によって、燭火が拓くことのできないでいる暗さのなかへ、蓋は持ち去られた。
 箱のなかには半分ほどの嵩まで氷が詰めてあった。燭火にきらめく氷を透かして、内塗りの朱が燃え盛っていた。氷の上には、ちいさな白い皿が浮いていた。冷えた白に吸いつくように、刺身とも生肉ともつかないものが盛ってあった。目にするものすべてが朦朧としているせいなのか、ほのかに桃色がかった白身の魚の肉であるように見えた。
これは、くらうことのできるものだ。
 そのようにとらえた瞬間、伏していたからだは幽香のもとへと跳ねた。どのように四肢をつかったのかもわからぬまま、盛られているものを鷲掴み、貪った。久方ぶりにものを嚥下しようとしたからか、のどの奥が突き上げられ、痛みに噎せた。まなぶちが熱を帯び、潤んだ。それでも、飢えは糧を求めた。箱を抱えるようにして膝立ちで這いつくばり、口に入れたものを舌の上でころがすことなく丸呑みにする。氷の解けた水を、融けかけの氷を、床をひきずる蓬髪を食むこともかまわずに、箱から直に啜り、噛み砕く。齧った氷とともに、香気が胃の腑へと落ちていく。
 腹のなかにたゆたう香が、目覚めの断絶を連れてくる。
 泥のようなだるさが押し寄せてくる。からだを起こしていることができなくなって、瞼をあけていることができなくなる。眩暈のぐらつきをからだに写したかのように、この身はその場に崩れ落ちた。
 近くで行き交っているはずの声を、遠くに聞く。声の意味するものが、とらえられない。ただ、安堵のようなものと嘲りのようなものが踊っているのはわかる。それらは満足に覆われている。
倒れた弾みに燭火を消したのだろうか。瞼を透かしてくる光はない。


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