黒鱗02


 そこにあったのは、青が凝った黒だった。ゆらめく黒が、細長い軸に幾筋も絡みついていた。藻草のようでもあり鰭のようでもある黒の筋の隙間からは、照り映える淡雪のような白い肌が覗いている。それの目はこちらを見てはいなかったし、こちらに気づいた様子もなかった。透きとおった玉髄が、藻草に埋もれるようにして、放置されたまま眠っているようでもあった。
これによく似たものを、いろどりは違うものの似たようなかたちをしているものを、しっている。それはみずからをさかなと呼んでいたから、きっと、これもさかなのようなものなのだろう。
あのさかなはうたうように声を紡ぐさかなだった。ならば、これもさかなであるのなら、ことばが通じるかもしれない。

「こんなところで何をしている?」

 ためしに声をかけてみた。声が出たのかどうかはわからない。だが、満ちている水がふるえ、こちらが発声したということが相手まで伝わったことだけは確かなようだった。
 宵闇を凝らせたかのような黒の円が、こちらを向いた。おれをとらえるまでの間だけ、その目は歓喜に輝いていたように見えた。だが、すぐに期待はずれから湧いた失望のようなものが閃いて、黒の目はもともと向いていたところに戻っていった。
 このさかなとは初めて会ったのだ。そんな態度を取られる覚えはなかった。理不尽さに直面したことで湧いてきた腹立たしさに焼かれかけたところに、声が伝わってきた。

「待っている」

 物静かな、夜を映した水面のような声だった。あまりに底がなさすぎて、それに含めた意図すら、それを発したはずのものの知らぬ間に呑みこんでしまうような声だった。同じように底のない黒の目が、まっすぐに、こちらを見つめていた。
 気圧されそうになった。
 このさかなは、おれのしるさかなとはまったくの別物だった。おれの知るさかなは、陽の光に融けてしまいそうな、とらえどころのない、誰であっても懐に入れてしまうような奴だった。

「待ち合わせか?」
「そうであればよかったのだが、違う」

 噤まれた唇がふたたび持ち上げられるまでには、ためらっているような、間があった。

「きんいろのさかなを、待っている」

 泡の弾けるような声が、頼りなく、ゆらめいた。
登っていく水泡に鎖されていたのは、自嘲だろうか。佇んでいるだけの、硬いままの表層からは、このくろいさかなが抱いているものを察することはできなかった。
 それでも、ひとつだけ汲み取れることがある。

「会いたいのだろう。会いたいのなら、そいつを呼んでみればいい」
「呼んでみてはいる。だが、あれに届いてはいないようだ。あれではないものにであれば、こうして届くこともあるようなのだが。そなたとはこうして路が重なっただろう」
「俺ははずれか」
「言い方が悪かった。他意はない」

 黒の目がやわらかさを帯びた。切れ長の目が、こちらを見つめた。

「そなたはあれをしっているのだろう。そうでなければ、よばれるはずはない。あれに恨まれて当然のことを、われはした」

 かつてあったものごとを、淡々と並べていくだけの声だった。そこに後悔や慙愧のようなものがふくまれているのかまでは、わからない。
 それでも、言ってやった方がいいのかもしれなかった。おれの知るあいつがこいつの呼んでいるあれなるものであるとは限らないが、それでも、ことばにしてやった方がいいのかもしれなかった。

「あいつが大事に抱きしめているものがあることは知っている。だが、そうであったとしても、あんたが気に病むことはない。それがあんたの望んだかたちではなくともだ。あいつはあんたではない。勘違いだろうがなんだろうが、それをそう受け取って大事にすると決めたのはあいつであって、あんたはそこまで踏みこめない」
「手厳しいな」

 どこか寂しげでもある、苦みをひそませた淡い笑いが、たゆたった。
潮騒が聞こえてくる。

「路がずれる」

 予言めいた響きをもって、水泡が漂うような声が、弾けた。
 無理に引き揚げられるような感覚に襲われた。先ほどまでいた道が、眼下にあった。
 くろいさかなは、浮いている石柱のごとく、そのままの位置に佇んでいた。

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