しばらく会っていなかった叔父に呼び出された。待ち合わせに指定された喫茶店は、私の行動圏のなかではそれなりに大きな駅の近くにあって、煉瓦造りの洋館のような外観をしていた。百貨店や雑居ビルといった背の高い方形の箱が並ぶ通り沿いにあって、平坦ではない屋根があるというだけで、その喫茶店は目立っていた。
 店内に入ると、叔父はまだ来ていないようだった。席まで案内してくれることになった店員に連れのいることを告げておく。外から見た印象よりも店内は広い。幾つかのテーブル席がゆるやかな曲線で囲まれていて、各々高さが違っていた。高い天井から伸びているプロペラが段差のある囲いの群れを見下ろし、店内に満ちている穏やかなにぎやかさを拡販している。木製の羽根のゆるやかな回転は、気のない手遊びのようだった。
 注文した珈琲がテーブルに置かれた。去っていく店員と行き違うようにして、かすかな煙草の香が漂った。この店は禁煙なので、店内に脂の色はない。珈琲に砂糖を入れて掻き混ぜながら、眼を上げる。対岸の席に叔父が座っていた。

「久しぶりだね。大きくなったなぁ」 
「今度はどこに行くの。母さん、呆れてたよ」
「心配性だからね、姉さんは」

 母の弟であるそのひとは、この度、何かを追って渡航するという。その何かというのか何であるのかを私は知らないが、親戚一同の反応から察するに、理解を得やすいようなものではないようだった。そもそも、血縁の集まりにおいて、昔から叔父はどこか浮いている。そして、そんな叔父が、私は大好きだった。
 かすかなものではあるが、煙草の香が濃密になる。叔父の指先が、テーブルの中央よりもこちらに近づいてきていた。

「煙草が吸えないのはしんどいなぁ」
「この店を指定してきたのはそっちだよ」
「ちょっと前までは吸えたの」

 拗ねたような声で主張しながら叔父の指先がこちらに押し出してきたのは、鍵の載った、菓子折りのようなものだった。それは、一冊の本のようでもあり、薄いノートを何冊も束ねたもののようでもあり、スクラップブックのようでもあった。古さも種類もまちまちな紙を束にして、厚い表紙で挟みこんだ代物だ。

「これを、君に渡しておきたかったんだ」

 方形上の鍵を見つめる視界から、叔父の指先が抜けていく。

「それは僕の家の鍵だ。留守中、好きに出入りしてくれてかまわない。我が家にはたいしたものはないけれど、置いてあるものはできるだけそのままにしておいてもらえると嬉しいかな。鍋や食器なんかは、使ったら洗って片付けておいてもらえればかまわないからさ。好きに使ってくれていいけど、使用後の原状復帰はお願いするね。おじさんとの約束」
「鍵はわかったけど、下の、これは?」
「それは、あるものについて僕が綴ったものだ。はなしを聞きに行ったり、僕が見たことであったり、関係していそうな伝聞であったり。最初に目の当たりにしてから、ずっと追い続けていたものを、書き留めたものの集積だ。だから、僕にしか意味のないものだし、内容だって整合性はない。僕が関わりのありそうだと感じたものを、欠片にもならないはなしとして掻き集めたものであるにすぎない。同じことについて言及しているものであっても、違うことを主張している。矛盾も齟齬も同列で、正誤なんて判断がつかない。ただ、どこかにおいて誰かの口からそのようにあらわれたということだけが、共通している。それは、そういった書き付けの集まりだ」
「なら、これはあなたが持っているべきものだ。手放していいものじゃない」

 私は紙束を押し戻す。やわらかな微笑をたゆたわせて、叔父は押し戻されたそれを押し返してきた。

「悪足掻きのようなものさ。読まなくていい。誰かにではなくて、ほかでもない君に持っていてもらえれば、満足なんだ。ここに綴られているものに、わずかでも触れたことのある君に、持っていてもらえれば。迷惑であろうことは承知しているのだけれど、君ならば、役に立たないからといって、これを燃やしたりはしないだろう?」
「あなたが大切にしてきたものを、踏み躙ったり、灰にしたりするわけはないでしょう」
「そう睨まないでくれよ。素直だなぁ。怒らせたのなら謝る」

 うろたえながら宥めてくる叔父を、珈琲を啜りながら私は見据えた。

「ところで、これは、いったい何についての記述?」

 こちらを見つめたまま思案の気配を漂わせる叔父を、私は眺めた。

「ひとさかな、かな」

 叔父の掬いあげたことばは、紙葉の束に舞い降って、文字の堆積をすり抜けながら、テーブルの平面へと落ちていく。
 それから私は叔父に会っていない。

<跋/了>

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