空の底にて


 私は空を落ちていた。
 白んだ平坦な青、潤んで淡い青。絡みついてくる濃厚な青、きらめく金が飛び交う青。境界の曖昧な様々な青が、上にも下にも、四方にも、私の見渡せるすべての周囲に広がっている。
 それらの青をもって空だと見なせるのは、そこここに雲があるからだ。かろうじて霧から脱したような灰色にちかい雲、夏の熱気が生み出す弾力のありそうな真白の雲。溜まった水気の重みに耐え切れずに滴り落ちそうになっている黒い雲。魚の鱗を並べたかのように広がる薄い雲。気まぐれに配置されているとしかおもえないそれらを、落下する私は突き抜けて、ふたたび青のもとへと連れ戻される。落ちていく方向を私が決めることはできない。
 そもそも私は空を飛ぶことができない。
 これは卑下ではなく事実であり、本来、私は空を飛ぶことができるようにつくられるはずだった。はずだった、というのは、私をつくったものたちにそう聞かされているからであり、空へと飛翔し、そこに在るなにものかへのつなぎをうみだしたかった彼らにとって、片方の翼しか持ち得なかった私は栄光なる成功への踏み台といったものになるのだろうか。踏み台には踏み台なりに同じ間違いを繰り返さないといった意味での後続の成功への一助としての役割があるらしく、私は生かされ続けている。
 そんなことはどうでもいいとして、現在、私は空を落ちている。さて、これはどういったことなのだろうか。
 試しに飛翔してみようか。
 いや、そんなことは試すまでもなくできるはずがないのだ。先ほども述べたように、私の翼は片側しかない。それに、私の羽根はばさばさしていて、地を走るのならともかく、羽ばたくことに耐えきれるようなものではない。水に浮かぼうとするものなら、おそらく沈む。
 それでも、何もしないのは癪だったので、試しに羽ばたいてみた。艶やかさという形容だけでも引き寄せたいくらいの毛羽立った羽根が、気流に弄ばれながら方々へ散っていく。
 そこで私は気がついた。
 私は、ほんとうに、落下しているのだろうか。
 周囲に充満しているのは青い空だ。風だって、吹き荒ぶ方角に統一性はない。羽根は軽いから、風に翻弄されて、あちこちへと飛んでいく。肉を剥ぎ取らんばかりに肌を撫で上げていく大気は、私の頭が突っ込んでいく方向のとは逆に吹き降ろしていく。
 正直なところ、どちらが上でどちらが下なのか、私にはわからない。
 それでも、大地も海も、私は見ていない。
 ならば、私は、飛ぶことができているのではないだろうか。
 頭を圧してくる風に逆らって、顔を上にあげる。
 そこには、脚を組んで空中に座る、見慣れたひとがたがあった。同じ家に住んでいる私とこのひとがたの見た目の年齢は、ほとんど同じだ。
 私はひとがたのところまで浮上する。
 私は、落ちているのではなかった。
 ひとがたは私に手を差し伸べた。

「おかえり」

 私を見つめていたまるい緑玉の目が、穏やかに微笑む。差し伸べられた手を取ると、手を取られた方の、眉下で揃えられている前髪とひとつに編んでいる長い黒髪が風に揺れた。私の方は風に遊ばれすぎて髪も羽根も揉みくちゃなのだが、上空とも空の果てともつかないところに座っていた同居人は髪一本揺らいでいないようだった。

「夢は叶えられた?」

 同居人と手をつないでいる限り、私は静止していることが可能らしい。

「やはり、これは夢か」

 己の声に皮肉っぽさが滲むのを自覚する。同居人はふわふわと笑う。

「いいじゃない、夢だろうがなんだろうが。叶えたいものをどこで叶えるかなんて、たいした問題じゃないよ」
「大雑把」
「だって、君は、その夢を叶えることに、君以外の観衆を必要としていないでしょう」
「そうだね、誰かに証明してもらわなくてもかまわない。だけど、私は空を飛びたかったみたいなんだ。それだけは、事実」
「君はそれに気がついた。だから、僕の手を取ることができた。それに気づかなかったら、ずっと、君は、空を落ちていると思い込んでいたはず。本当は飛翔していたはずなのに」

 風がやむ。
 ひとがたが両手で私の腕を引き寄せる。

「飛べなくても君は本物だよ。模造品だけどね。模造品の、失敗作だ。それでも、君は、君だというそのことだけで、本物だ。それに、仮に、僕たちが本物と同じことができてしまったとしたら。その時は、本物たちはどう思うんだろうね。欠陥品が預かるべきことばをつくりぬしに伝えるようなことになったら。失敗作が、森のもたらすものをあらかじめことばとして廻らせることができるようになったとしたら」
「そういうのは好きじゃないくせに」
「ばれちゃったか。誰が何をどのようにこなすかなんて、僕にとってはどうでもいいかな。僕はひなたぼっこをしてお昼寝してるくらいが性に合ってる」

 鈴を鳴らすような楽しげな笑い声が、私の耳をくすぐる。それが心地よくて、私は思考を手放す。

「眠い」

 同居人の膝の上に頭を載せて、空中に横たわる。首を傾げる気配がした。

「夢のなかで寝るの?」
「裏の裏が表なら、夢の夢は起床になるんじゃないかな」

 肩をふるわせて、同居人は笑ったようだった。

「そうかもね」

 淡くもあり、濃くもあり、薄くもある、青いことだけは確かな空に囲まれたその場所で、ふたつの人影が静止している。風も雲もその場に貼りついている。叩けば砕け散るであろう静謐が、その夢と現とを隔てていた。

■ ■ ■

 遥か高みの空の果て、天球の楽が響く庭へと祈りを届けるために積みあげられた石の家がある。尖塔を、鐘楼を、礼拝の祈りを、色硝子による賛美を、地を這う者のあらゆる礼讃を捧げるために建てられるはずだったその家は、完成することなく計画が頓挫し、今では無作為に増築されている海辺の家の一区画となっていた。
 海辺の家の、礼拝堂となるはずだったその場所には、高い天井から陽光が降り注いでいる。
 陽だまりのなかでまどろんでいた金髪のひとがたが、緩慢な仕草で目をこすりながら、上体を起こした。片側だけの翼が、床に影を落とす。寝起きであるためか焦点の合っていない青の目で、金髪のひとがたは床に落ちているはずの単眼鏡を手さぐりで探していた。

「おはよう」

 声が響いた。礼拝堂としてつくられたこの場所は、未完成であるとはいえ、声がよく響く。
 単眼鏡を見つけられないまま、金髪のひとがたは声の聞こえてきた方向に眼だけを向けた。そこには、金髪のひとがたと同じように、陽だまりで眠っていた黒髪のひとがたが床に直に座りこんでいた。こちらは寝覚めがよいらしく、大きな緑玉でにこやかに金髪のひとがたを見つめている。床に落ちる影には、片方だけ、大鹿の角が生えていた。
 探し物を見つけた金髪のひとがたが、単眼鏡をかける。その仕草が普段よりもぎこちなかったらしい。黒髪のひとがたは不思議そうに首を傾げた。それに気づいた金髪のひとがたが視線を宙に彷徨わせる。

「夢を、見て」
「夢?」
「ずっと落ち続けているって思っていたら、実は、上昇できていたっていう夢。夢だから、たぶん、夢は叶っているんだ。でも、憧憬なのか、そうできないことへの罪悪感なのか、そうなるように勝手につくっておきながらそうできないじゃないかって扱われてることへの恨みなのか、実は期待に応えたいとおもっているのか、そのことに対して自嘲しているだけなのか、よくわからない」

 それきり口を噤んでしまった金髪のひとがたに、黒髪のひとがたは目をしばたたかせた。
 金髪のひとがたは、言いたくないことは絶対に口にしないことも、ことばたらずであることも、結論の出ていないことを伝えようとしないことも、黒髪のひとがたはよく理解していた。そのため、無愛想な見た目ともあいまって、同居人たちには気難し屋と評されることも多いのだが、黒髪のひとがたの目には不器用であるとしか映らなかった。
 だから、黒髪のひとがたは、ここでも深く切りこむことはしなかった。このことについて話をしたければ相手から切り出してくるだろうし、目に見えて危うそうな場合は別ではあるが、話したくないようなものであるのなら無理に聞き出すことはない。
 燦燦と降り注ぐ陽光に浴しながら、黒髪のひとがたは立ち上がる。緑玉の目をきらめかせながら差し伸べられた手を、緑玉のきらめきに眩げに青の目を細めながら、金髪のひとがたが取った。

「いい天気だよ。今日は何をしようか」

 遅れがちに手をひかれていく金髪のひとがたを、黒髪のひとがたが導いていく。
 祈りを昇らせるために構築されたはずの建造物に囚われた潮騒が反響し、蠢き、酩酊するかのような眩暈をもたらした。

(了)

南風野さきは『空の底にて』
アンソロジー空 web版参加作品
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