沈め石 07



 窪地を囲む緑のなかに、ひときわ艶やかに陽を撥ねる、濃く、硬い、緑があった。

「これかな」

 叔父が歩み寄っていく樹木は大木に見えた。叔父を追いかけて、その木のつくる緑陰に入る。湿気が肌を撫であげる。足もとがぬかるんでいる。根を湿らせて水の染み出すところがある。
 蝉の鳴き声が、緑の天蓋に弾かれて、空へと抜けることができずに渦巻いている。
大木を仰いでいる叔父の隣に立つ。近くで見てみると、何本かの幹が集って一本の巨木のようになっていることがわかる。根にちかいところには、苔むして暗い、洞のようなものができていた。

「椿だね」

 叔父が感嘆の声をあげた。
 幹に触れてみようとして、手を伸ばす。木の肌に触れそうなところでぼくの手と同じ仕草をする幼い手があらわれて、ぼくの手に重なり、透けた。そのことに驚いて、手をひっこめる。透きとおった指先は、そのまま木肌をなぞっていく。一歩、さがってみる。白い肌を、白い髪を、衣を、木肌を撫でる幼子の後ろ姿を、ぼくは見る。土を踏んでいるはずのそのあしさきに、影がつながっていない。幼子に降り注いでいるはずの木漏れ日は、なにものにも遮られることなく地に落ちて、緑陰とともにゆらめいている。

「まだ梯になれないでいるか。こんなに挿しているのに、あいつも気の毒だな」

 ここまでぼくたちを導いてきた声が、幼子の唇から紡がれていった。

「おれのかけらはあるか」

 うながされて、鞄から標本小箱を取り出す。差し出そうとしたところで、ぬかるみに足を滑らせた。ぼくの手から飛び出した小箱は、幼子のからだを通り抜けて樹幹に当たり、箱と蓋に分かれた。中に入っていたかけらの白が、洞へと落下していく。かけらを握りしめようと、這いつくばったまま腕を伸ばす。指先に白が触れる。
 蝉の声が消えた。
 そこはとても暗くて、とても静かだった。そこに満ちている黒は澄み切っていて、灯も雲もしらない夜空のようだった。
黒を裂きながら、かけらの白が落下していく。落下であったものがゆるやかに速度を緩め、あるところから、真っ暗な水のなかを降りていく。白にひきずられているぼくも、どれだけ満ちているのかわからない水のなかを沈んでいく。
 かつん、と、硬い音がした。
 はるか下方に箱があった。つやつやした黒い箱だ。先ほどの音は、それの蓋に白が当たった音だろうか。
 水を孕んで膨らんだ衣が、ゆらめく白の髪が、跪くように折られた細い脚が、あらわれた。素足の踵はちいさくて、箱にしがみついている肢体はたおやかだった。まだそこまで沈んでいけないでいるぼくは、幼子が箱の蓋に指をかけるのを上から見ていた。幼子が蓋を放り投げると、煙があがるように金糸があふれた。
 箱のなかには金色があった。箱のうちがわは朱塗りだった。幼子の背とゆらめく金糸に阻まれてよく見えないが、箱のなかにおさめられているなにものかは、横向きに身を丸めている。大切なものを両手で握り締め、祈っているようにも見えた。抱き締めているものを、たわめ、握り潰しているようにも見えた。ひらかれた目の碧は、凪いだまま、どこも見ていなかった。

「眠ってすらいなかったか」

 呆れ果てた声が、幼子の唇からこぼれた。

「それはあんたのあげた声ではないだろう。それが散じてしまったところで、律儀にあんたが気に病むことでもない。鱗を剥がれ、鰓を削がれ、肉を食まれ、骨のひとかけらになったとしても在り続けなければならなかったのは、あんたじゃないはずだ」

 箱の縁に手をかけて、幼子は身を屈めた。ゆらめいた白い髪に、うねる金糸がやわらかく絡んだ。

「なじっているわけではないさ。これがおせっかいだということは、わかっているんだ。だが、とりひきをしてしまった。おれをここに運ばせる手助けをするかわりに、声を届けてやると。だから、ここには、あんたのかわりにおれがいるよ。これまでこの庭を守っていてくれて、ありがとう。でも、だからこそ、あんたはあんたの夢をみたっていい」

 ちいさな唇が、金色の瞼を押し上げる。真白の瞼はとじられて、まるい碧は隠される。

「早く泳いでいってやれ。あんたを待っているあいつは、待つことをやめられないくせに、待ちくたびれている」

幼子の脚が床に膝をつくようなかたちであったから、箱の置かれている平面があるのだとおもいこんでいたのだけれど、そこを過ぎてもぼくの沈降は終わらない。深さも広さもわからない暗闇を沈んでいくだけのぼくは、やがて箱の裏側を見上げるようになる。
 白い片腕が、箱から伸びた。幼子の背に回されたそれは、しなやかな、おとなの腕だった。片腕は、幼子をかかえるようにして肩を掴み、引き寄せた。幼子の膝が浮いて、ちいさな足がばたついた。網から抜け出ようともがく魚の尾鰭が、水を蹴散らしながら、ひらめいているかのようだった。片腕に抱き寄せられて、幼子の衣はおおきく膨らみ、大腿が暗闇に踊った。幼子は頭から箱にころがりこんだ。ばたつく細い脚が像を残した。
ぼくが見上げるものは箱の裏側だけになった。
 蝉の声が戻ってくる。
 ぼやけている視界は翳っていて、時折、ちらちらと閃く白光があった。

「大丈夫かい?」

 傍らから叔父の声がした。首のまわりが冷たかった。水をふくんだタオルが巻かれていた。苔むした洞が頭上にある。緑の天蓋が真上にある。ぼくは木陰に横たえられていた。

「ころんでしまったようだけれど、どこか打ったりしたかな」

 大丈夫だと告げると、安心したのか、叔父は気の抜けた顔をしてその場にへたりこんだ。

「ちょっと休んでいこう」

 蝉の声が落ちてくる。はちきれんばかりの蝉の声に、硬い音が混ざる。音のした方に眼を向けると、叔父が標本小箱の蓋を閉じたり開けたりすることを繰り返していた。

「なかみが見当たらなくてね」

手遊びに叔父が弄っているのは、ぼくが落とした標本小箱だ。

「やっぱり、こうなっちゃったか」

叔父の手のなかで蓋と箱がひとつになった。ぼくの眼が問いをふくんだことに気づいたからか、叔父の眼が泳いだ。

「隠していたんだ。彼女のさがしものがあのかけらであることを知っていて、ずっと、どこにあるのかを黙っていた。ぼくのところに彼女があらわれる理由がなくなってしまうからさ」
 彼女というのは日傘のひとのことだろう。とらえどころのない笑みをたゆたわせる叔父は、気恥ずかしそうでもあり、泣き出しそうでもあった。だからというわけではないけれど、ころんでから眼が覚めるまでに見たものを、はなしてみることにした。うまくまとってはいなかったけれど、叔父は最後まで耳を傾けてくれた。

「まぼろしだったのかな」
「そのように信じて、そのように振舞ったものが、いたのかもしれないし、いなかったのかもしれない。まぼろしであったのかどうかを定めることができるのは、それに触れたきみだけだ。ここに来たがっていたものの声は、まだ聞こえる?」
「聞こえない」

そうかと笑んだ叔父はどことなく羨ましそうだった。叔父は立ち上がり、窪地を背にして、茂みを掻き分けながら木陰から出て行く。
身を起こして、湿った土に直に座った。ぬるい湿気を脚に感じながら、背筋を伸ばしてみる。叔父の後姿が、空に腕を突きあげて伸びをする。

「見晴らしがいいなあ。海の方の雲が、厚くて、黒い。雷の前兆かな」

 木々のそよぎが後ろから迫ってきて、木陰をつくっている枝葉をゆさぶりながら通り過ぎ、叔父の掻き分けた茂みを波打たせる。夏山を駆けてきた風は、遠くを眺めている叔父をあおってから、空へと吹き抜けていった。

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