朔望月花01


 洞の口そのものである夜空には月が浮かんでいた。洞そのものである岩石の碗の底には土が溜まり、果樹が根づいていた。川辺でもある果樹の園には、水音がさざめいている。
 月光に射落とされた桃の花びらが、雨降るように、舞っていた。ねじくれた枝を方々に伸ばしている桃の老木の根元に、壮年の男が座りこんでいる。花篝の月見酒でも愉しもうとしていたらしい男は、傍らの土瓶に手を遣るでもなく、正面を凝視して呆けていた。
 男の眼の先には十五歳ほどの少女がいた。それより幼いようでもあったが、枷なく育った肢体はしなやかで、まるみを帯びかけていた。白い肌を白い衣が覆い、雪あかりのような髪は結われることなく流されている。少女の華奢な背を覆う流れは男の髪と似た色をしていたが、少女のそれは梳られて艶やかであるのに対し、男のそれは蓬髪だった。
 鈴の啼くような声が、桃花に酔っているかのような調子で、少女の唇から爪弾かれる。

「夢を見たの。小鳥が卵を呑みこむ夢。黒くて、つやつやした、渡り鳥。渡ってくると巣をつくって、雛を育てていなくなる、あの小鳥」
「それが、あんたがこんなとこまで散歩してきた理由か?」
「おじさんの目、ここに来る途中に通った、池の水みたいな色してる。とても綺麗な青だったから、光が降るといろんな色が弾ける青だったから、目がはなせなくて。気がついたら、陽が沈んでた」

 朱の眦に飾られた暁の目が、まっすぐに、男を見つめていた。男は眉をひそめ、しばらく黙考する。やがて、厄介事を目の当たりにした困惑とも行き場のない苛立ちともつかないものを、男は吐き出した。

「あの池を越えてきたのか。土の中じゃあ、そっちの怪物とこっちの怪物が睨み合ってるってのに」
「あれは青銅でできた鼓か鐘。本物じゃない。それに、怪物でもない」
「知ってるさ。おまえさんと同じくらいにはな」

 男が少女を睨む。ゆるりと首を傾げてみせる少女は、風に遊ばれる花びらのように頼りなく可憐で、掴みどころがない。少女の踵が土を蹴る。白の衣が夜をすべり、男の膝に舞い落ちる。男の脚に膝立ちになり、少女は蓬髪に手を伸ばす。瞠目する男の蓬髪を少女のちいさな手が束ね、融け崩れそうに白い首筋を月光に晒す。透明にちかい白に刻まれた朱を、少女は男の首の裏に見つける。男に刺されている、男の目には触れようのない花のような朱のしるしは、少女を得心させたようだった。

「やっぱり、あなたはわたしとおなじだった」

 少女の細い指を、男の蓬髪がすり抜ける。膝の位置はそのままに、少女はぺたりと座りこんだ。根の浮いた地面に降り積もる花びらを、くるくると落ちてくる花のかけらを、少女は見つめる。おなじひとがいた、と、唇がうごく。ここに辿りついたのは偶然だけどと唇はつづける。

「おじさんのいう怪物は、今は、どちらも眠っている。だから、わたしが境を越えても、絶対に、彼らは喧嘩になんてならない。争いなんか起こらない」

 上目遣いに、少女は男の目を見つめる。

「だから、また、遊びに来てもいい?」

 懇願のようでもあり押し通すようでもある声が、男の耳を貫く。困惑のあまり真顔になった男の衿を少女が掴んだ。儚いはずの指を払うことすらできず、男は少女にとらわれる。
 宵にさざめく水音を貫き、月光と花びらが降り積もる。
 面のようであった男の顔に葛藤が滲んでくる。男の眼は泳ごうとするが、少女の眼がそれを許さない。見つめられ続ける男の頭蓋のなかで、ひとつの結論が他を圧した。男は自棄気味に頭を掻く。

「わかった、遊びに来い。だが、誰にも見つかるなよ。俺はここにずっといるし、ここに誰かがやって来ることはそれこそ稀だ。だが、かどわかしだなんだと、そっちの邑とこっちの邑で諍いになるなんてのはやってられん」

 陽だまりで雪が融けていくように、少女の目もとが蕩けていく。

「ただし、十月十日の間だ。そのくらいであれらが生まれるなんて話はそう聞かないが、俺が頷けるのはその間だけだ。そこから先は目覚めた番に伺うんだな」

 嬉しそうに目を輝かせ、少女は頷く。花びらの雨は降り続ける。男の胸に額をつけるようにして、少女は男に寄りかかる。わずかな逡巡の後、男は少女に腕を回した。樹幹のような手がぎこちなく少女の背を叩く。縋りつくかのように、少女は男にしがみついた。

「嫉妬深くないといいな」

 少女のものとも男のものとも判然としない声が、水音に掻き消されていく。

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