きみのまぼろしが、笑った(企画)
いきのしかたが、わからなくなった。
放課後の教室を満たす夕暮れを帯び始めた陽光はこんなに硬い感触だったかな、とか、細く開けた窓から吹きこんでくる埃っぽい風が運ぶ野球部の練習の声はこんなに遠かったかな、とか。校庭側の窓際の席に座るわたしを見据える、廊下側の壁に背を預けて腕を組みながら立つ君の、眼鏡越しの切れ長の目はそんなにも平坦な黒だったかな、とか。
どうでもいいことばかりが気にかかる。
「こいびと、とは、違うものになった」
淡々と、いつもと同じ無表情で、君は声を撒く。制服の黒と眼鏡の黒と、癖のない髪の黒と時折不安定にゆれる目の黒は、ふわりと満ちる白んだ陽光に霞むことなく映えていた。
「嫌になったというわけではないんだ。ただ、決定的に、なにかが違ってしまったから」
だから、もう、君とは付き合えない。
ゆるく、ひきつるように、自分の唇が笑みを描くのが判る。
「何それ」
わたしが零したのは、声音とも呼べないような、かすれた息。おそらくは、薄い笑いを浮かべ見下すような目をしたわたしが、君の目には映っているのだろう。
不意に君の眼が逸れた。目を伏せ唇を噛む君は、うちひしがれているようにも後ろめたそうにも見える。
わたしを切り捨てたのは君なのに、どうしてそんなかおができるわけ?
「わけ、わかんない」
唇から零れ落ちる音は、震えるように均衡を欠いていて。どうしてそんな声しか出せないのか、自分でもよく解らなかった。
「出ていって」
傲然と顎を上げ、晴れやかに見えるであろう笑みをつくって、わたしは君を睨めつける。わずかに瞠られた君の目が、驚愕に潤んだように、揺らいだ。
相変わらずバカな君に失笑してしまう。
今までを一緒に過ごしていたわたしの、傲慢なまでのこの虚勢を、予想することはできなかった?
「いなくなって」
半端な気遣いならいらないの。それともそれは、君自身が罪悪感から逃れるための自分への目隠し?
答など知りたくなかったから、わたしは床に眼を落とす。
「いなくなってよ」
寡黙な君が口にするのは、泣いても脅しても揺らがないほどに決定事項となったものだということくらい解っている。君の仏頂面がゆらぐのは、ほとんどのものに無関心な君が手放すことをためらう何かを手放さねばならない時だということくらい解っている。君の穏やかな切れ長の目が冷ややかさを纏うのは、必死になって冷静であろうとしている時だということくらいは解っていて。
だからこそ。
そんな優しさは、いらない。
「甘えるんじゃないわよ」
持ち上げた眼の先には誰もいなかった。教室に満ちるふわふわとした明るさはやわらかくあたたかい。光を吸いこんだ肺はひどく膨らんでしまって、息を吐くことすらままならないほどにせりあがって。
音もなく喘ぐしかないわたしの視界に、ひとつの人影がぼやけた。
そこにいるはずのないひとりが、眼鏡の奥の目を細めて少しだけ口の端をゆるめる。青空に透けてしまいそうなその微笑は、わたしにとっては大切で大好きでいとおしくてどうしようもないもので。
教室の壁や机が光と融けて、その微笑が滲み果てた時。
気がつけば、そこには誰もいなかった。
きみのまぼろしが、笑った
愛葬謌さま提出
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