契約と誓約。


「そう言えば何も食べないままだったな」
「うん。サアラのお陰で忘れとったけど、結構空いてるみたい」

 言って力無く腹部を撫でる様子に子供のような印象を受けてしまい、レイルは思わずシグレの頭を軽く一度叩き撫でたが何事かと心底驚いた様子で目を開いたシグレの反応に内心、しまったとも思えば手を離した。

「すまん、つい」
「いや、えぇよ。うん、びっくりしただけやし、うん」
「……悪い」

 予期せぬ出来事に動揺を隠せずに顔を前へ向かせて視線をさまよわせた少女に、レイルはそれ以上何も言えずに押し黙ってしまった。
 神殿は、もう目の前に迫っている。









 厳かで、恭しく、神聖な、正にそんな場所だった。足を踏み入れた神殿は静かにシグレ達を見下ろしている。市民や旅人、参拝者の為に解放された扉を抜けて中へと入っていけば、まず目に入るのはきっと神殿が奉る神なのだろう聖堂に飾られた高く大きな石像で。その姿は神仏に興味の無いシグレであっても威圧され、神々しさに息を飲んでしまう程の美しさを持っていた。

「あれが、再生と破壊の神だ。唯一、絶対神だと言われている」

 『絶対神』
 だから人々は皆、崇め畏怖するのだろう。
 何もかもを癒し赦す再生、全てを消し尽くし滅ぼす破壊。光と闇を司った神は、ただ黙って信仰者を見下ろしている。

「話をしてくる。好きに神殿を見てまわっていろ」
「え、あぁ、うん」
「見終えたらここに戻って来い」

 言い終えるとすぐにレイルは行ってしまった。残されたシグレは、僅か呆然としたようにレイルの背を見送ると再度神像を見上げた。
 腕を緩く広げた姿。上向かされた掌には、再生と破壊の象徴なのだろうか。左手に赤黒い球を、右手には澄んだエメラルドに似た色をした球を乗せていた。二つの球体が、差し込む陽の光に反射してチカチカと聖堂内を不可思議に灯している。

「しかし、見てまわれ言われてもな…」

 呟いて息を吐き出した。とにかく神殿内部を見てみようと歩みを進めるが、何せ一体どこが何なのか全く分からない。適当に歩いて迷子になってしまってはかなわないと思えば、シグレは歩みを止めた。と、ふと 明るい場所が目に入る。
 それは、広い庭園。陽の光が射し込み、緑が鮮やかに発色してその光を更に中央に備えられた噴水が目映く反射していて、思わず、目を細める。まるでそこに作られたような光の反射。自然の物は素直に綺麗だと思える魅力を持っていて。見上げた空も澄んだ青色で、何だか息が詰まる。

(空見上げたのなんか、いつ振りやろう)

 小さく聞こえる緩やかな歌声。きっと、この世界の賛美歌か何かなのだろう。妙に切ないメロディーに、何だか懐かしさすら覚えるような、そんな錯覚すらしてしまう。いつしか忘れていた、温かな気持ちが胸に広がって、妙に心が苦しくなった。

「なに、やってんやろ」

 結局、変わりたいと願って、何も変わらないままで。周りの環境は変わったが、自分は変わらない。いつしか顔は下を向き、視界には小さな花が入り込んでいた。

「ここは、参拝者の立ち入りは禁止ですよ」
「え?」

 不意に言われて顔を上げた先に立っていたのは、水色掛かった白髪の青年。空よりも僅かに薄い青色の瞳が、柔和な笑みの形に作られた表情の中に妙に浮いていた。

「ここは聖職者のみが立ち入る場所。迷ったのなら、送りますが」
「あ、すんません。」

 柔らかな物言いだったが含まれた 出ていけ と言わんばかりの棘を感じ、シグレは知らず青年の目を見る事を恐れたように視線をさまよわせた。

「すぐ、出て」
「シグレ」

 出て行く、と言い掛けた所で今は聞き慣れた静かな低音が名を呼んだ。救いの手だとばかりに現れたレイルに安堵感を覚え、気付かぬ内に強ばっていた顔の力が抜ける。青年の背後から現れたレイルに僅か早歩きに近寄れば、シグレは隠れるようにレイルの陰に身を寄せた。
 しかし、どうやら顔見知りであるような二人は顔を見つめ合ったまま、レイルは眉を寄せ青年は目を細めて笑みを浮かべたままで。

「貴方が神殿に現れるなど、珍しい事も有るんですね。軍を抜けてから随分とご無沙汰だったのに」
「事情が変わった。」
「事情?何の、ですか。」

 表情は笑みを形作っていたが冷ややかな眼差しが、レイルを見つめている。だが、動じる事は無くレイルは眼差しを返した。

「お前には関係無い」
「おや、つれない。そうツンケンとしなくても良いじゃないですか」

 わざとらしく肩を竦めた青年が、今度は眼差しをシグレに向けた。シグレは未だ、レイルの陰に隠れている。そんな姿に含んだように笑むと、再度視線はレイルへと向けられた。

「で?その彼女は?」
「…」
「答えられないんですか?」
「…希望、だ」

 短く告げられた言葉に、青年の笑みが消えた。

「希望?一体、何の。」
「世界の、だ」
「……くだらない。なら、レイル、貴方はその少女が世界を変えると?貴方の言う希望は、そういう意味でしょう?」
「なに、何なん?」

 自分を置いて進んでいく会話に付いていけず、シグレは思わず言葉を挟んだ。と、同時に男二人に顔を向けられ思わずシグレは身を竦めた。

「世界は…歪んでいる」
「またその話ですか。いい加減、そんな空想話も大概に」
「いずれ分かる、お前にもな。…行くぞ、シグレ」

 言葉を遮って、レイルは歩き出した。その後を僅かに小走りで追うとチラ と青年を一瞥したが、向けられたままの冷たい眼光にシグレは思わず肩を揺らして視線を外した。
 怖い、と胸が騒いでいる。苦手な部類には違いない青年だったが、あそこまで誰かの眼が怖いと思った事は初めてだった。

「レイル、今の誰?」
「…名はプラチナ、兄だ」

 兄 と言われて驚いた。再度振り返り青年、プラチナを見ようとするが、姿はもう無く、空回った視線はレイルへと流れていく。先程の青年と隣に並ぶ男の外見に似た部分など無く、兄弟だと言われても信じるには難しい。
 そんなシグレの気持ちが知れたのか、レイルは困惑に眉を寄せている少女に顔を向け息を吐き出した。

「父が違うんだ」

 短く告げると、レイルは顔を前へ向かせたが、その顔をシグレは見上げるままでいた。異父兄弟、という事で外見の違いに納得したが何だか妙に先程のやり取りが気になる。いつしか考え込むように下ろされた視界の先に細かな装飾の成されたレイルの身長よりも高く大きな扉が見え始めた。その外観だけで、何やら特別な部屋に続く扉なのだと推測すると扉前まで来た途端に足を止めたレイルに慌ててシグレは一歩遅れて足を止めレイルに並んだ。

「名を」

 唐突にどこからか、声。それは静かに、短く、澄んだ響きで鼓膜を揺らした。それに不意を打たれたようにシグレの心臓は跳ねたが、レイルは知っていたと言わんばかりに一歩前へと歩み出る。

「レイル・オルシッド」
「…。おかえりなさい、レイル」

 柔らかな声が答えると扉はゆっくりと開かれていく。呆気にとられたように口を半開きに開く扉を見つめるシグレの肩を軽く促すよう叩けば、レイルは歩を進めた。ハ、と我に返ったシグレも僅か早足で後を追いかけていく。
 扉の先は、またしても通路。それは先程歩いてきた通路等よりも広く、また長い物で、白い支柱が並ぶ静かな空気が妙に圧迫感を覚えさせ知らずシグレは固唾を飲んだ。

「…レイル、今のは?」
「賊の侵入を防ぐ為の管理システムだ。登録された名を口にする事で声と発音を認識して入場の許可云々を決定している」
「へぇ、意外に科学的なんやな」

 呟くと物珍しげにシグレは辺りを見渡した。先程聞いたシステムについても、意外という以外に言葉が思い付かない程に今まで機械的な物を見ていない。どういう仕組みかと気にはなったが、尋ねる前に柔和な男の声が耳に入った。

「おかえり、レイル」
「…ただいま戻りました」

 ゆるりとした動作で頭を下げたレイルに声の主は微笑み掛けると光に浮かぶ白い法衣を揺らし静かな足取りで歩み寄る。身の丈はレイルより僅かに低く、中年も半ばを過ぎた頃だろうか、柔らかに笑む目尻に薄く皺が寄っている。人がよさそうな、先程の青年よりかは幾分も良い印象をシグレは感じた。

「早速ですが、この娘に洗礼を受けさせたい」
「うん?この子にかい?」

 突然と言って良いような申し出だったのだろう。男は眉を上げると顎に手を添えてシグレに顔を向け、何やら考えるように顎を、添えた人差し指で撫で始めた。そうして、緑色した瞳をレイルに向けると今度は先とは変わって悪戯な笑みに目を細める。その色は聖堂で見た神像が持つエメラルド色した球によく似ていた。

「レイル、この子異人なんだねぇ。暫く神殿勤めだが初めて見るよ」

 興味に瞳を輝かせると再度視線はシグレを捉えていて、そんな男の様子に訝しげに眉を僅かだけ寄せてはシグレは知らず一歩足を引いた。そんな様子に気が付いたか顎に添えた手を離しヒラヒラと揺らすと、男は笑う。

「はは、そんなに警戒しなくてよろしい。ココに怖い事は何も無いからね」
「いや寧ろあたしはアンタに警戒してますが、何か」

 思わず口から出た言葉。レイルは何を言い出すのかと深く眉間に皺を寄せシグレを見下ろしたが、言われた男は呆気にとられたように数回瞬きを繰り返すと訝しげに己を見る少女に偽り無い笑顔を浮かべ返し声を出し笑い出した。そんな様子に益々訝しげにシグレは眉を寄せる。不快にさせたならまだしも、男は笑っているのだから理解出来ない。そんな思いから寧ろ戸惑いを覚え男に向けていた眼差しは揺れた。

「ははっ、この子面白い子だねぇ。自分の感情に素直と言うか、実に面白い」
「は、ぁ?」

 予想外の言葉に少女の口から間抜けた声が出た。知らず身構えるように強ばった肩がガクリと力を失い理解不能の文字がシグレの脳内を回ったが、理解を得ようと男に向けた目は真っ直ぐとした眼差しに動きを止めた。
 見ている。緑色の澄んだ目が、ジッ と。妙に居たたまれない気分になり、シグレはまたも視線を揺らした。

「良いだろう、こちらで生きるには何かと大変だろうからね。洗礼を許可するよ。じゃあ、君の名前を聞いても良いかな?お嬢さん」

 浮かべられた屈託の無い柔らかな笑みに、シグレは揺らした眼差しを一度さまよわせてはレイルに向け、そして目の前の男に向け直した。妙に喉が渇いて張り付く。悪い人では無いし、寧ろ暖かな雰囲気や静かな低音の声は安堵感を覚えさせられたが、何やら緊張も覚えてしまう。渇いた喉を潤すように唾液を飲み込むと小さくシグレは息を吐き出した。

「シグレ、です」
「シグレ、ね。うん、それじゃあシグレ、そこの法陣の中央に立って貰えるかい?」

 言われて気が付いたのだが、白い支柱が先の通路のように立ち並んだ広い室内の奥に四体の白い石像に囲まれた床に薄い青く光る陣が見えている。陣の頭上にある天窓から差し込む光に反射したように淡く青く浮き上がる法陣を男は促すように手で指し示すと、シグレを案内するように先に歩き出した。一度レイルを見上げると頷きが返され、シグレもそれに頷きを返すと男の後を追うようにして歩き始める。そうして法陣の手前まで来て分かったのだが、法陣は直径にして目測りで2メートル弱は有りそうだった。何やら見知らぬ言葉で書かれた文字が青く揺らぐように光を発し、それが法陣を青く見せていたのだ。
 シグレは更に男に促されるままに法陣の中央に立つと、陣を囲うように立てられた白い石像に視線を向けた。両手を揃えて天に向ける女体のソレが、妙に圧迫感を与える。

「それでは始めるとしようか」

 静まった室内は天井が高く、余り音量を出していない筈の男の声が反響して響き渡る。男は法陣の前へ立つと片手をシグレに向け瞼を下ろした。

「レーテルヴァイ・アンデュース、セイル…」

 瞼を閉ざしたまま聞き知らぬ言葉を口にし出した男を、シグレは無表情で見つめたまま佇んでいたが、不意に言葉に反応するかのように青々と光を発し始める法陣に驚いたように顔を下げ文字が付加されていく陣の様子に戸惑ったように身構えた。


『―――名も無き異人よ、我に誓え』



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