ハジマリの日。





 雑踏が遠い。吹き上がる風に乗って街の匂いが体を撫でていく。5階建てのマンションは実に静かで、夕方過ぎた時間にしては人の気配がしなかった。
 少女は昼間からこうして屋上で街並みを見つめていた。何をするでも無く、考えるでも無く。ぼんやりと少し段になっている隅の方へと座り込み街並みを見つめては時折折り畳みの赤い携帯を取り出し作業に近い動きで新着メール問い合わせをして、『新着メールはありません』の文字表示に何回目かになる溜息を吐き出した。くすんだ灰掛かった薄い茶髪を風に遊ばせながら少女は目を細めると、ふと、視線を街の向こう――夕日が沈む先へと向けた。鮮やかな橙はどこか赤味掛かり、血の色にも似たそれは徐々にその姿を街の向こうへと沈めていく。
  街が、朱色に染まり、夕日の上に広がる空は確実に夜色をした紫へと変化していた。
 少女は立ち上がると今まで背を預けていた段に片足を置いた。右手には、開かれたままの赤い携帯電話。ゆっくりと携帯を持つ手を上げると、少女は画面を見つめた。
 いつの間にか段の上へと乗り上がっていた少女は携帯の電源を落としゆっくりと地に向け手を傾ける。

「…バイバイ。」

 抑揚の無い声で呟くと、スルリと携帯は傾けられた手から滑り落ちていった。真っ直ぐと逆さになった赤い携帯がアスファルト向かって落下していく様を見つめると、少女の体も同じように傾き吹き上がる風に逆らうようにアスファルトへと向かって落下していった。




 体が垂直落下していく感覚。頭から落ちているのだから、きっとアスファルトに叩きつけられた体は頭が割れるか何かして即死出来るだろう。鼓膜が空気に震わされて耳鳴りのような音が聞こえる。そう言えば、誰かが高い場所から落ちたりすると景色がスローに流れていく錯覚に陥るとか言っていた。あれは誰だったか。

(それにしても)

 なかなか落下が終わらない。何かがおかしい。疑問に自然と閉じていた目を開き、少女はやっと自身に降り掛かった異変に気が付いた。
 確かに少女は落ちている。しかし向かう場所は無機質なアスファルトでは無かった。目の前に広がる光景も、あの夕日が沈む街などでは無かった。
 見た事も無い広々とした青い空、広大な土地には見慣れた無機質な高い建造物など一つも無い。代わりに遠くに見た事も無い街や集落が見え、緑溢れんばかりの豊かな大地が広がっていた。
 夢を見ているのか。思わざるを得ないこの状況に思ったが、その時点で夢では無く現実だと少女は確信した。何故なら今まで夢の中で夢だと認識した試しが無い。夢なのでは?などという疑問すら浮かべた事が無かったからなのだ。だからと言って、現実だと受け入れるには余りに奇怪で。
 未だ鼓膜を震わせる耳鳴りのような音が落下していく際の空気の激しい流れのせいなのか、はたまた何かの予兆なのかさえ分からないまま少女は落ちていく現実に慌てる事すらせず、寧ろ諦めに似た表情で微動だにしなかった。
 と、それは実に突然やってきた。
 ビュウビュウと耳に酷く掛かる風音の向こうに小さく違う音が聞こえてくる。一体何の音なのかと、やっと顔を僅かに動かせば遠くに見える一つ山の向こうに小さく黒い影が少女に向かって来ているのが見えた。一瞬気のせいかとも思えたが、ソレは徐々に大きさを増して確実にこちらへと向かっている。それに伴い風音に混ざる音が分かる迄になっていた。
 羽ばたきだ。
 何か、鳥が羽ばたくような音が影と共に近付いてくる。そのせいで向かうモノが鳥かとも思ったが、直ぐに有り得ないと理解した。―――あんなに巨大な鳥など、知らない。
 形がやっと確認出来る程になって、ようやく少女の心臓は機能を取り戻したかのようにドクリと揺れ始めた。

(ここ、どこ。アレ、なに)

 言葉足らずに思考が回り始めると揺れた心臓は熱を広げ、確実な恐怖を体全体に走らせる。単純に脳を支配するのは、理解不能による、恐怖。異常事態に汗腺は嫌に冷たく感じる汗を滲ませた。
 そして遂に羽ばたくソレが姿が分かる程の距離へとやって来た。その姿は全身が黒く、目は赤い。背に付いた巨体に合わせたように巨大な翼は空を切り、風を捉えている。長い毛並みより下に生える手足は蛇の鱗のような物で覆われ、鋭い爪がその姿に凶暴さをイメージさせるには十分だった。
 ソレを一言名で表すのならば、少女は悩む事無く知った仮想生物の名を口にした。

「…ドラゴン」

 そんな訳が無い。あれは物語の中でのみ生きる生物なのだから、そう頭の中では思うが現実目の前に未だスピードを緩める事無く迫るソレは以前から何度も読む物語に登場するドラゴンにしか見えない。
 心臓の音が耳につく。全身が心臓になってしまったかのように体が脈打っているのが分かる。と、唐突にドラゴンはその恐ろしい迄に巨大な口を開いた。血のように赤い咥内に鋭く並ぶ鮫のように尖った歯が視界に飛び込んでくると同時に耳を貫くような轟音。それがドラゴンの咆哮だと理解する前に、少女は意識を手放した。





(ミツケタ。)





 声が聞こえた気がした。
 微睡む意識の中、少女は夢と現実の間を漂っていた。ふわふわとした感覚が体を包む。

(そうや、あたし。)
 確か、遂にこの世とサヨナラする決断して、近くのマンションの屋上から飛び降りて。だけどアスファルトに叩きつけられる筈が、知らない変なとこに出て。それで…。そこまで考えて少女は飛び起きた。と、頭を拳で殴ったような頭痛が襲う。思わず小さく呻くと顔を俯かせ眉間に深く皺を寄せると片顔を利き手で押さえて動けなくなってしまった。

「っ…、」

 一体何が起きたのか。ガンガンと痛む頭で考えるが、全く考えが纏まらない。拡散した思考は頭痛に耐えられずかき消されて行くようだった。

「深呼吸して、現実に目を向けろ」
「!」

 不意に頭上から掛けられた言葉に肩が跳ねた。不機嫌な低い声に顔をゆるりと上げると、声同様に不機嫌な表情で眉間に皺を寄せた長身の男が幾メートル先に立ち少女を一瞥して顔を空へと向けてしまった。未だ痛む頭のせいで顔から手を退ける事も出来ずにまるで睨むような視線で少女は男を見ていたが、今掛けられた意味の理解出来ない言葉に妙に腹が立ち更にその表情を歪ませていく。

(なに、コイツ)

「ちょ、」
「来るぞ」
「は?」

 文句を言い掛けて、遮られてしまった。しかしそれに抗議をする前に、少女は開けた口を閉じる事さえ忘れ、目の前に佇む生物に目を奪われた。緑色のえらくいびつなソレは生きているのかその醜悪な体をモゾモゾと動かしている。手足は、無い。だが、目は有るようで、黒い縦筋が入った赤くギョロギョロした球体が男と少女へと向いている。緑色はその塊でしか無い体から割けた口を開き音のような雄叫びを上げた。

「きも!え、なに、」

 空気が震える感覚と癇(かん)に障るようなその声に肩を僅かに竦ませると、少女は率直なまでの言葉を口にした。説明を求めるように男に視線を向けたが、応える訳でも無く男は何やら呟いている。その間にも化け物は二人に向かってその体を引きずるように動かしてきているのだったが、それにすら男はどうするでも無く鋭い視線を向けたまま呟きを続けていた。
 やや苛立ったようにも男を睨み付けたが、少女はそこで情けなくも腰が抜けて動けなくなっている事に気がついた。怒りにも恐怖にも似た感情が胸の内を渦巻いている。気分が悪い。もしや、やはり夢を見ているのでは無いか、とも思ったがふと先程男が少女に掛けた言葉を思い出した。

(現実に目を向けろ)

 途端、風が勢い良く吹き上がった。手を付いている地面から吹いてくるような風に何事かと驚きの視線を草地へ向けると同時程に、空気を震わせ発せられた恐ろしいまでの叫びが目の前の化け物からの物だと理解したのは一拍置いた後だった。
 驚きに身を跳ねさせて顔を上げると化け物が何か鋭利な刃物に切り刻まれたかのような傷を負って青い液体(多分、血なのだろう)をまき散らして暴れている。風の勢いは弱まっていた。

「立てるか」

 男が少女へと向き歩み寄る。その表情は未だ不機嫌で、少女に向けられた紫暗色の瞳は夜色に近い深緑の髪に良く合っていた。少女の焦げ茶色の瞳が男のそれとかち合うと掛けられた言葉に答えるでもなく、視線を逸らし男の後ろで痛みに暴れる化け物を見やった。男は気にしない。

「あ、れ」

 やっと絞り出した言葉は酷く掠れていた。弱々しく言葉を発した少女に男はやっと気が付いたかのように化け物へと顔を向けた。

「低級のルグルだ。直ぐに死ぬ」
「ルグル?」

 相変わらず男の言葉の意味が理解できない。少女の気持ちが分かったのか、男は顔を少女に向け直すと小さく息を吐き出した。諦めにも似た溜息に、何だか苛立ちを覚えると少女はあからさまに表情を曇らせる。そんな様子に気付いたのか、男は少女をその身長のせいか随分と高い位置から見下ろす形で話し始めた。

「ルグルと言うのは、魔族が作り出した生物兵器の事だ。アレの中央に核が見えるのが分かるか?」

 言われて、男が指差す時折痙攣するだけになった化け物へと視線を向けた。よくよく見れば形が崩れ掛けている化け物の頭部、その中央に目を凝らすと小さな球体が。色は、黒かった。

「あれの色が黒いのは一番低級だと考えて良い。上級になっていくにつれ、色は濃い赤に変わっていく」

 言い終え、男は少女へと顔を向け直す。少女はやっと動けるようになった足を地に付け、立ち上がっていた。立ち上がってもなお、小柄な少女よりも背の高い男を見上げる形で見やれば、少女は状況を飲み込もうと辺りを見渡した。
 建物らしき物は、見えない。どうやら草原の一角らしい。しかし何故こんな場所に居るのかさえ理解出来ないでいると、少女は長く息を吐き出した。頭は妙に冷静さを取り戻し、冴えていた。
 頭痛は治まっている。

「それで、一つ聞いて良い?」

 関西独特の訛りを持ったアクセントで言えば、少女は疲れたような表情で男を見上げる事を止め顔を下ろした。

「なんだ」
「ここ、どこ」

 話す事すら億劫になってきたのか、短く聞けば動かなくなってしまった化け物――ルグルに目を向ける。鮮やかな緑だった巨体はすっかり色を失い、どす黒く変色していた。男からの答えは直ぐには返って来ず、再度少女は見上げると男の顔をマジマジと見つめた。
 目鼻立ちはすっきりと整っている。今まで出会った人間には見た事の無いアメジストのような紫の瞳は、真っ直ぐと少女を見下ろしている。髪色も、日常に生活する人間には見た事が無い色で。見慣れぬデザインのアースカラーのアシンメトリーになっている服が、男にはよく似合っていた。
 不思議そうに自身の姿を見つめる少女に、男は短く息を吐くと一歩、少女へと足を進める。

「ここはミストラルと呼ばれる世界。お前は呼ばれたんだ」
「は?」
「この世界を、救う為にな」

 耳を疑った。一体、何を言い出すのか、この男は。世界を救う。夢物語のような言葉に、少女は信じられないといった顔をした。そんな少女を男は無表情に見下ろしている。
 形の良い唇が動いた。

「ようこそ、救世主」






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