パンドラの箱




パンドラの箱は、開けてはならない。



あの日を境に、真史と私は “ただの大学時代の仲の良い先輩後輩” ではなくなってしまった。
おおよそセックスフレンドという名称が付けられそうな関係ではあるが、どうもしっくりこない。セックスをせずとも真史と共に過ごす時間は退屈しないし、どちらかというとスキンシップの延長線上にセックスがあるような気がした。しかしそれではまるきり恋人である。恋人でないことだけは確かだというのに、馬鹿げた話だ。


奇妙だと思った。

その関係性は勿論だが、何よりその関係を許す真史が。


私は元々、そういったことにはどちらかというと奔放で軽い人間である。真史とセックスすることも、初めこそ自責の念に駆られたが、軽蔑されないのであれば構う手段が一つ増えただけのように思えたし、自分の知らないーーーそして恐らく誰も知らないであろう真史を暴くその行為は、私に優越感をもたらした。

しかし真史は。
憶測にはなるが、そのような人間ではない。

真史は清純な男だ。男に対して清純という言葉はどうかと思うが、真史にはこの言葉がピタリと当てはまるので仕方ない。
大学時代にはいっそ哀れな程、女性はおろか一部の男性にさえ好かれていた。しかし、全て「やることがある」と切り捨てていた筈だ。陰で僻んだ醜男達に童貞だの特殊な性癖持ちだのと好き勝手言われていたのを懐かしく思う。
好い人がいる訳でもないというのに美男美女に迫られても靡かなかった男が、よりにもよって私などと関係を持ち、そしてそれを良しとしている。どう考えても可笑しいだろう。

そもそもセックスのラインを越えてしまったことに問題があるのだろうけれど、大人とは流されやすいものだから仕方ない。


そう、私も真史も大人だ。大人になってしまった。答え合わせをするには、大人は弱すぎる。変化がこの世で何よりも怖いのだ。リスクが僅かでもあるのならば、現状で満足だろうと屁理屈を並べて自分に言い聞かせる。変化を望まないように、変化の先にある何かを欲さないように。

真史と絶縁になるくらいなら、答え合わせは必要ない。このままで構わない。彼の心の内など知らずとも、楽しく酒を交わすことも、気持ちいいセックスをすることも出来る。パンドラの箱は、見なかったことにしよう。好奇心で開けるほど暇ではないし、開けた責任を取れるほど、私は誠実な人間ではないのだから。




「…先輩?どうかされましたか?」


真史が私の顔を覗き込む。私は、お前のような誠実な人間ではないんだ。お前が何を望んでいるのかなんて知りたくもない。知って応えられなかったら、お前は、

サラリと小さく揺れる紫がかった黒髪を、耳にかけるように撫で付ける。じわりと目元を染める様は生娘のようだ。単純に可愛いやつだと思う。その認識が、どういった種類であるのかは分からないけれど。


「いや、何も。」


顎を救うと真史は当然のようにそっと目を閉じた。まるで強請るように。お前は今何を考えているのだろうね。薄いその唇に吸い寄せられるように口付ける。もう何も、考えたくはない。


まだしばらく、この奇妙な関係は続きそうだ。



パンドラの箱の底ーーー人間の手元には希望が残っている。そのことに気づくまでは。


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