酷く緩慢な夢の終わり
それはいつもの彼等にとって至極簡単な仕事だった。下調べに手間取る事も無く、進入するのも容易く事は運んだ。
きちんとした手順を好むイヴェールの指示通り、警備の目をかいくぐり頭の中に広げた見取り図通りに回廊を進む。途中にある部屋に飾られているものには目もくれず、目当ては唯一つ。
やがて辿り着いた一際大きな部屋の中、中央に設えられた台座のその上に敷かれたクッションにゆったりとその身を沈め、鎮座している彼女≪殺戮の女王≫。その輝きに目を奪われたのは一瞬の事。すぐに気を取り直して手に取れば、その姿に相応しいずしりとした感触にまだ仕事が終わっていないと自覚しながらも、思わず口元を綻ばせた。
一瞬の油断が命取りになる。この格言はまったくその通りで。常とは違う大きな獲物の姿に意識を取られていたローランサンは、警戒を告げるベルの音に漸くそれを自覚し駆け出した。
「だから、お前はいつまで経っても詰めが甘いって言われるんだ」
「うっさいな。悪かったって言ってんだろ」
夜の闇の中を駆ける2つの影。石畳に響く靴音にも負けじと響く声は、軽快に言い争いを続けている。
「いやに時間がかかると思っていたが、まさか敵地のど真ん中で呆けているとは思いもしなかったよ」
「ぐっ…」
イヴェールの多分に呆れを含んだ声に、反論も出来ずに押し黙るローランサン。
結局、イヴェールの機転と間の抜けた警備員のお陰で何とか脱出に成功出来たから良かったものの、いつもこう上手く行くとは限らない。従って、イヴェールの言い分はまったくその通りで。それを自覚しているだけに、ローランサンはぐうの音も出ない。
お前は一体幾つだと言いたくなるような、子供っぽい不貞腐れた表情で己の隣を走るローランサンにちらりと視線を向けると、イヴェールは溜息を吐いて視線を前へと戻す。
まったく、少しは成長していても良さそうなものなのに、何でこう変わらないのだろうと。この仕事だって、ローランサンが時間をロスしなければこうして走って逃げる必要も無く、今頃とうに家に着いていた筈だ。なのに現実は、こうして後ろを警戒しながら逃げる羽目になっていて。それだって隠れながら逃げれば良いものの、そんなのは性に合わないと言い出したどこかの馬鹿のせいで、全力で走る事を余儀なくされている。
「全く…」
思わず漏れた声は、幸いにも隣を走る相棒の耳には届いていないようで。聞かれていればまた何がしかの言い争いに発展するであろう事は容易に想像がついた。故に、イヴェールは気付かれていない事にそっと胸を撫で下ろした。これ以上の疲労は勘弁願いたい。
それにしても、と。イヴェールは先程の博物館の警備の杜撰さに、内心首を傾げた。
昼間の徹底した警備とはまるで正反対な、穴だらけの警備体制。本来夜陰に乗じて進入する輩を警戒し、厳しくなるのが定石だというのに。結局進入時も、ローランサンが油断したが故に余計な手間をかけざるを得なかった脱出時も、ほとんど面倒なく仕事を終える事が出来た。そう、まるで盗みを推奨するかのように…
馬鹿馬鹿しい。己の思考が至った考えを打ち消すようにひとりごちる。上着の隠しにしまわれている物の感触を確かめるようにそっと触れれば、固い感触がそれが幻の産物ではなく現実にそこにあることを示していて。
先程ローランサンから受け取る際に目にしただけだったが、それは確かに本物だった。世界最大と言われるだけの事はあり、圧倒的な存在感を醸し出すそれは、その見事さ故の代償であるかのように不吉な呪いを内包していた。
下らない。イヴェールの口元に、どこか皮肉気な笑みが浮かぶ。
生憎と、彼はその類の不可思議なものに対し冷めた思考の持ち主だった。この世で一番恐ろしいのは、人間以外の何者でもない。それがイヴェールの偽らざる本心だった。それは、彼の決して楽とは言いかねる生い立ち故の結論だ。
「でも、ほんっと簡単に行ったよな。もう少してこずるかと思ったのにさ」
いつの間に立ち直ったのか、隣を走るローランサンが同意を求めるように視線を投げてくる。それに曖昧に頷きながら、イヴェールは改めて、今回の仕事のどこかしっくり来ない状況へと思考を戻した。
それほど鋭い性質ではないローランサンさえ気付いた事なら、それは無視して良いものではないのでは無いだろうか。慎重に事を運ぼうとするイヴェールの中で、そんな考えが頭を過ぎる。だが、誰が何のためにそんな事をする必要があるのかと問われれば、辿り着かない答えに首を傾げるしかない。
警備を手薄に出来るのは博物館側なのだし、物を盗まれて損をする事はあっても得をするなどあまり聞いた事がない。従って、侵入者を歓迎する事はまずあり得ないと言って良いだろう。
「まあ、でもそれもお前の下調べがしっかりしてたからなんだろうけどさ」
己の気のせいなのだろうかと思いかけたその時、ローランサンが笑う。無邪気な声に、それ以上の疑問が湧いた様子はない。野生の勘で無意識に危険を避けるローランサンがどうとも感じていないのなら、これ以上は考えるだけ無駄なのかもしれない。
「無駄な労力を使うなんて御免だからな。大体お前は…」
「だーかーら、反省してるっての」
再び始まりそうになった説教の気配を敏感に察したローランサンが、先んじてイヴェールの言葉を遮った。そのまま一気にスピードを上げたローランサンとの距離が、僅かに開く。イヴェールは徐々に遠くなるローランサンの背中に視線を投げ溜息を吐くと、追い駆けるようにスピードを上げた。
インクが零れ染みを作っていくように、それまで一点の曇りも無かった白の空間にじわりと滲んだ深紅が重力に従うように下へ。やがて地面へと到達したそれは、床への侵食を良しとはせずただ広がって行く。やがてその深紅は滴る様子を何をするでもなく眺めていたイヴェールの足元へと到達し、唐突に塊となって起き上がった。異常な事態に、だがイヴェールはそれをやけに覚めた目で見つめるのみで。まるで現実味のないそれを例えばローランサンであったならば驚き叫び声の一つでも上げたのかも知れないが、生憎と冷静が常の頭は驚くよりもそれが夢という不可思議に対し寛容な場であるという答えを即座に弾き出す。よって、目の前の現象に目を向けながらも、脳内では冷静にこの夢が示す己の深層意識を探るべく思考をめぐらせていた。
そうこうする内に、深紅の塊はいつの間にかイヴェールの背丈ほどの大きさにまで伸び上がり、不意に裂けたような穴が開いた。
まるでその裂け目は人間の口のようにも見えるなと思ったその時、イヴェールの思考を読んだかのように、裂け目が艶やかな女の唇へと変化した。一度笑みを形作るように横に引かれたそれが、言葉を発しようと形を変える。
『 』
耳を解さず脳に直接声を注ぎ込まれたかのような感覚に、知らず背筋が震える。イヴェールは、そこで漸くこの異常に対し己とは相容れない感覚を覚え、事象から逃れるように身を引いた。だが、イヴェールが後ろに下がる度、深紅は同じ距離だけ近付いて来る。イヴェールは不快気に眉を顰め、警戒の眼差しで深紅を睨みながら再び一歩。するとやはり同じだけ詰まる距離。そう、まるでイヴェール自身の影のように、離れる様子を見せない。いっそ踵を返し全力で逃れたいとも思ったが、背を向けた途端侵食されるような予感がし、容易に実行には移せない。
イヴェールの胸中などお構い無しに、深紅が次に形作ったのは二本の腕。滑らかな白い肌の、恐らくは女のものと思われるそれは、イヴェールを捕まえようとするかのように伸びてくる。得体の知れないそれにイヴェールは大きく後退しようとし、だがその段になり、己の足がまったく動かない事に気が付いた。
背中を一筋冷たいものが流れる。視線のみ足元へと向けると、己の足が深紅に飲み込まれている光景が映る。それは、イヴェールを傷付ける意志は無いのか、ただ纏わり付いているだけだった。だがまったく動かせない事から、逃す気は無いのだろう。その光景に目を奪われていたイヴェールの視界に、ほっそりとした指が映り込む。弾かれたように視線を上げれば、目の前に迫った白い両手。肌の白さに相まって、深紅に塗られた爪が浮き上がり、禍々しさすら感じさせる。えもいわれぬ恐怖に身を硬くするイヴェールの頬に、女の手が優しく触れた。
「っ!?」
勢い良く身を起こしたイヴェールは、そこが見慣れた己の部屋である事に、心底安堵の息を吐いた。心臓はまるで早鐘のように脈打ち、全身がまるで水を浴びたかのようにぐっしょりと濡れそぼっている。たかだか夢と笑って済ませるには余りに禍々しく異様な、だが既に記憶の中にはっきりとした内容は残っていない。まるで何かの意志が働いているかのように記憶の断片がきれいに拭われている。それなのに、不吉な予感ともは確かにイヴェールの中にある。両の手の平に視線を落とせば、視界に入った手が小刻みに震えている。だがそれに苦笑する余裕も、今の彼にはなかった。
強く残っている頬に触れた何かのぞっとするような冷たい感触と、視界を埋めた深紅。禍々しいものを感じるそれを完全に記憶の彼方へと葬り去るにはもう少し時間が必要なようだ。
「おーい。イヴェール、朝だぞ……って、起きてんならさっさと降りて来いよ」
ノックも無しに唐突に開いた扉から、ローランサンが顔を覗かせる。そしていつものようにイヴェールに声をかけ、しかし彼が既にベッドの上に身を起こしているのを見て取り、呆れたように顔を顰める。起こすという手間がかからないのは歓迎すべきだったが、しかしながらそこで下に下りて来てくれれば余計な手間は避けられたと、眼差しはそう言っていた。
しかし、イヴェールがそんなローランサンの態度に反応する様子は見られない。
だが、ローランサンも朝のイヴェールはそんなものとそれ以上は追求せず、早く来いと一言。さっさと扉を閉めてしまう。
再訪れた静寂。決して気温が低いわけでもないというのに、イヴェールはえもいわれぬ寒気に身を震わせていた。
結局、イヴェールは再びローランサンが起こしに来るまで、ベッドの上で再び眠る事も無く虚空を見つめていた。
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