失せモノ



 その場所はひたすらに真白であった。
 全てが静止してしまったような空間に佇む娘が独り。その足元に散らばる無数の何か。屈みこんだ娘が無数のそれから一つを手に取れば、つるりとした表面、不思議な色合いの物であると分かる。
 しっとりと手に馴染むそれを手の平に乗せ、娘はそれに視線を落としたまま暫しの間静止する。空間と娘の境界が酷く曖昧になり、娘自身が空間へと溶け込んでしまうのではと思われたその時、不意に、娘の唇が震えた。

「…いらないわ」

 娘の唇から落ちた微かな声に反応するように、手の平のそれが明滅を始める。やがて、それの輪郭が崩れ砂のようなものに変質し、崩れた。暫し名残惜しむかのようにあったその全てが、やがて音もなく娘の手の平から零れ落ちていく。数瞬の後、娘の手の平にはまるで最初から何も無かったかのように、痕跡すらなくなっていて。
 その様子をつぶさに見つめていた娘の口元が、僅かに引き上げられた。


 朝の憂鬱なひと時も、既に手馴れたものだった。いつものように侍女達に囲まれ身支度を整えられたエリーザベトは、これもまたいつものように侍女を引き連れ食堂へと向かう。傍目にはその身に架せられた立場に相応しく、大勢に傅かれながら、それでもそれが虚飾に過ぎない事はエリーザベト自身、良く分かっていた。彼等が頭を下げるのは、己の身分が選帝侯の娘であるからで。エリーザベト自身に仕えているのではない。普通ならそれを悲しいと思い、自らを省みて貰えるよう努力するのかもしれないが、エリーザベトの中にその選択肢は欠片も存在しなかった。

「随分といい身分だな」

 食堂の扉が開き、エリーザベトの姿が現れた途端、既に席に着いていた選帝侯が挨拶もなしに皮肉気に口元を歪め、声を上げた。エリーザベトは毎日の事に何を言っても駄目な事は分かっていたので、静かに頭を下げた。

「おはようございます。お兄様」

 一見従順なその態度に、選帝侯は眉を跳ね上げた。不機嫌に拍車がかかったのだろう、選帝侯は忌々しげに鼻を鳴らす。

「お父様と呼べと言っているだろうが。全く、あのような辺境で暮らしていただけあって、学習能力も著しく低下していると見える」

 顔を上げたエリーザベトの視界に、顔を歪めた選帝侯の顔が映る。城に来た頃はそんな彼の様子にいちいち怯えていたが、今ではもうどうでも良いと思っているのだろう。少しも心は動かない。
 選帝侯の視線を真っ直ぐに見返し、エリーザベトはうっすらと笑みを浮かべる。
 そのまま席に着こうとしたエリーザベトに対し、選帝侯は不快さを隠そうともせずに舌を打つ。

「何だその顔は。せめて愛想笑いぐらいしたらどうだ。見目以外取り柄の無いお前が、それすら無くしてどうするつもりだ。一生私に寄生して過ごすつもりか」

 選帝侯の嫌味に、しかしエリーザベトは内心首を傾げる。先程自分は笑った筈だ。満面の笑みとはお世辞にも言えないだろうが、皮肉を言われてへらへら笑っていたら、それはそれで選帝侯の機嫌を損ねる事は想像に難くない。だからこそ、いつも浮かべている類のごく控えめな笑みを意識的に浮かべたのだ。なのに、選帝侯は笑っていないと機嫌を損ねた。これは一体どういうことか。
 エリーザベトは視線を選帝侯から窓へと移した。綺麗に磨き上げられた窓はエリーザベトの表情を余すところ無く映し出している。そこには確かに笑みの欠片も浮かべてはいない自身の顔が映っていた。
 選帝侯が声を上げるのも構わず、エリーザベトは窓の前へと移動し、己の顔をつぶさに観察する。その状態で口元を引き上げようとするも、自分ではそうしているつもりが鏡の中の顔は僅かにも変化する様子は無い。不意に、エリーザベトの脳裏に浮かんで来た、ある考え。
 ああ、そうかあれは『笑顔』だったのか、と。エリーザベトの中で、夢の出来事と今の自分の状態がぴたりと当て嵌まる。それはさながら欠けたピースが元に戻るかのように。そう、己は捨てたのだ。己の一部を。


 エリーザベトは誰にも夢の話をしなかった。よって原因が掴めぬまま、ただ時間だけが過ぎていく。その間に、エリーザベトは人の声を聞く事を止め、物音を聞く事を止め、自然のざわめきすらその耳に入れる事が無くなり、やがて完全に聴覚を捨て去った。
 侍医が原因は精神的なものであると診断を下し、エリーザベトの望むままにすべきであると結論を出した後も、失われる速度は決して弛む事は無く。
 それもその筈、夜毎訪れる真白の部屋で、エリーザベトは床に散らばるものを片端から消して行く。一つ一つ手に取りながら、それを必要の無いものと断じる。その度に消えて行くそれに、悲しいと思う気持ちは無い。
 何故なら、エリーザベトが欲するたった一つはもうここには無い。ならば、その一つが既に失われ自身の手の届かぬ所にあるのなら、他の全ては己にとって不要のものである。と、エリーザベトは断じる。

「…メル……貴方に会えないと分かっているのに、この生にしがみ付くなんて私には出来そうもないわ…」

 悲しげな、だがどこか嬉しそうな響きの声は、まごう事なきエリーザベト自身の真実だった。


 触れるものを感じられなくなった頃から、エリーザベトは滅多に外へ出なくなり、薄暗い自室にて何をするでもなくぼんやりとしている時間が格段に増えた。
 思い出の中のものを彷彿とさせるのだろう、自然に対しては僅かに執着していたように見えたのだが、それすらもエリーザベトは切り捨てた。考えてみれば、あれほど楽しかったのだって彼がいてこそだったのだ。それなのに、一人それを楽しめる筈は無いではないか。
 エリーザベトは胸中で満足気に笑う。捨てる事でそれに近付けた様な、そんな錯覚を覚えながら。

 最後の一つが完全に消え去るのを見届けたエリーザベトは、極上の花もかくやと言わんばかりの微笑を浮かべ、天を仰ぐ。全ての柵から解き放たれたかのように、涼やかな声を上げて笑いながら。


 滅多に人の寄り付かぬ城の一角に、その塔は存在していた。
 暗く湿った空気の漂う中、塔の頂に向かって伸びる螺旋階段。その先には、極小さな部屋が一つ。それが塔の内部を構成する全てであった。
 小部屋には窓が無く、外からはその存在を確認する事は出来ない。まるで隠されたように存在する小部屋の、中央に設えられているのは至極質素な一人掛けのソファ。そしてソファに腰を下ろすエリーザベトの姿が。
 開いた瞳はまるで濁った硝子玉のようで、何も映ってはいない。その耳には、何の音も届かない。数日に一度、その身の手入れと掃除の為に人が来る以外は何の変化も無い部屋の中で、身じろぎ一つせずにただ座っているだけだった。部屋の隅に溜まる僅かな綿ぼこりが舞い上がり、エリーザベトの肌を撫でるが、不快なそれにも文句の声は上がらない。密閉状態な為、動かない空気が淀んだ臭気となっていたが、それすら気にしている様子はない。
 まるで唯の人形のようにそこに置かれているだけのものと成り果てながら、しかし文句を言うでも涙を流すでもないエリーザベト。
 それもその筈、この状態は彼女自身が望んだ末の結末だったのだから。

 時間の流れから切り取られ世界から隔絶された空間は、いつ終わるとも知れず。まるで時間が止まってしまったかのように変化の無い部屋の中。同じく時間を止めたエリーザベトはそんな己の境遇に、何も思うところは無いのだろう。もう既に、思考すら手離したエリーザベトは、何を思うでもなくただ座っていた。
 そんな空間に訪れた、小さな変化。
 エリーザベトの瞼が僅かに震えると、重力に沿うようにゆるりと落ちる。やがて瞼が完全に瞳を覆い隠してしまうと、エリーザベトの頭が力を失いかくりと下へ落ちた。すると、

「これで、おしまい」

 やっと待ちわびていた瞬間が訪れたとでも言うような、晴れ晴れとした声がどこからともなく響いてきた。








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