乞い壊れ
噎せ返る様な血の臭いに、だがレオンティウスの表情は僅かにも動かない。戦場の只中にありながら静寂を纏うその姿はどこか異質でありながら、彼の周囲だけ切り取られたように何の音もしていない。その眼差しは此処ではない何処かへと向けられている。どれほどの血を浴びたかなど、もう既に覚えてはいない。況してや、手にかけた者たちの顔など既に忘却の彼方に葬り去ってしまった。
唯一人、未だに脳裏にこびり付いて離れないあの強い眼差しのみを残して。
「ああ、母上。待ちきれずにこのような場所までいらしてしまったのですね」
仕方のない方です。そう言いながらいつものように柔らかい笑みを浮かべるレオンティウス。
そんなレオンティウスの微笑に何故か薄ら寒いものを感じ、イサドラの背筋を冷たいものが伝う。声を発そうと口を開こうとするも、口元が強張り上手くいかない。
だがそんなイサドラの動揺に、レオンティウスは気付いているのかいないのか。気付いていながら、それが戦場という未知の領域に踏み込んでしまったが故の心の乱れから来るものと解釈したのかもしれない。その笑みには僅かに苦いものが混じっている。
「母上に、ここの空気は毒です。程なくカストルも追い付いて来るでしょう。天幕まで送らせますので、暫しご辛抱下さい」
イサドラを気遣うレオンティウスはいつも通りのように見えるのに、纏わりつく違和感はどうしても拭えない。湧き上がる恐怖にも似た感情は命のやり取りをするこの場に対してのものなのか、それともレオンティウスの前にいるからなのか。
言い知れぬ不安を抱きながら、レオンティウスを見つめるイサドラの脳裏に己がここに至った理由、本来の目的が浮かんで来る。
「レオン。あの子は、エレフはどうしたのですか?」
脳裏にこびり付く最悪の情景。それが現実のものとならぬよう、兄弟で殺し合うような事態に発展する前に辿り着かなければと護衛の目を盗んで必死に駆けて来たのではなかったか。異質な気配のレオンティウスに気圧され、見失ってしまうところだった。
見上げるイサドラに、レオンティウスは悪戯が見付かってしまった子供のように眉を下げ、肩を竦める。
「折角の親子の再会なのですから、きちんと身なりを整えさせてからと思っていたのですが、母上には敵いませんね。エレフでしたらほら、ここに居りますよ」
レオンティウスは左腕を持ち上げると、視線をそちらへと移した。イサドラもそれにつられるように視線をずらし、目に飛び込んできたものを認識するなり、驚愕に目を見開き息を呑む。レオンティウスの握られた左手。その指に絡みつく銀糸と、時折混じる紫。湖の水より尚澄んだ輝きを持つ二つの紫水晶。よほどの衝撃が襲ったのか、苦痛に歪められた表情。
それは、胴体との別離を余儀なくされた…エレフセウスの、首。
「っひ…!?」
「昔はあんなにふにゃふにゃして頼りない生き物だったのに、今ではもうこんなに立派になってしまって。これでは、兄の威厳も形無しです」
レオンティウスは寂しそうに、だがどこか誇らしげに笑っている。兄が弟の成長を喜ぶ。何ということも無い日常の場であれば、至極微笑ましい光景。だが、ここは命のやり取りをする戦場という場で。しかもそれを語るレオンティウスはどれだけの数の敵を退けたのか分からぬほどの返り血を浴びており、その頬にもべったりと血がこびり付いている。そして、話しかけているのは他でもない弟の、その首。
あまりに凄惨なその光景から反射的に視線を逸らそうとするも、まるで貼り付いてしまった様に動かす事が出来ない。全身が恐怖の為か小刻みに震え出し、上手く息を紡げないせいで脳に充分な酸素が行かず、酷い頭痛までして来る始末。いっそ意識を失ってしまえれば良かったのだが、こんな時に限ってそう上手く事が運ぶ様子はない。
これは一体何なのだろう。現実から逃げようとする思考が、壁一枚隔てた場所でまるで他人事のように声を漏らす。
恐慌状態にあるイサドラの心情など気にも留めていないのか、レオンティウスは相変わらず何も無かったようにエレフセウスだったものに話しかけている。
「お前達が死んだと聞かされ、それを何の疑問も持たず信じてしまった、お前達を守る事が出来なかった私を、さぞや恨んでいる事だろう。アルテミシアは間に合わなかったが、お前だけでも助かってくれて良かったと思う私を身勝手だと詰っても構わない。だが、折角こうして再会できたのだ。これからは、共に手を取り合っていきたいと思っている。賛成してくれるだろう?」
まるで相手が生きているかのように、これからの事を語るレオンティウス。笑みを貼り付け、言い募る言葉の数々は、屍となったエレフセウスの耳には届く筈もない。
レオンティウスの瞳には、これが正常であると映っているのだろうか。イサドラは最初の衝撃から僅かに意識を取り戻し、糸が切れたようにその場に崩れ落ち、膝を付いた。すると自然にその視線は地面、レオンティウスの足元へと向かい、
「っあ、…あ………っ」
そこに転がっていたものに、再びの衝撃がイサドラを襲う。イサドラは腰が抜けて立てないながら、何とか膝と両手を使ってレオンティウスの足元へと向かい、そこにあったものに縋り、揺さぶる。
「エ、エレフ…エレフセウス。お、お願い、返事を、返事をして!」
戦慄く己の身体を叱咤し、必死にその身体を抱え込む。イサドラは、酷い混乱状態に陥っていた。首を無くした人間が生きていられる筈も無く、口が無い死体は声を発する事も出来ないというのに、それでも呼びかける声が止む様子はない。
「母上、それはエレフではありませんよ?」
必死なイサドラに対し、レオンティウスは至極暢気に笑う。イサドラの勘違いを諭す様は、まるで親が子を諭すかのように慈愛に満ちていて。
そんなレオンティウスの言葉は、今のイサドラには届かない。常とは違いすぎる惨憺たる状況に、イサドラの精神は限界に達していた。そんな状態で、正常な判断など出来る筈もない。
首に話しかける息子と、屍体に縋る母親。血生臭い臭気の漂う中、穏やかな声と悲痛な叫びが谺していた。
レオンティウスは狂っている。そう痛切に感じた。どこで歪みに足を踏み入れてしまったのか、いくら考えようとしても糸が絡まったような思考で何を導き出せというのか。
「兄上もきっと、首を長くしてお待ちだろう。兄上はお気が短くていらっしゃるから、もしかしたら怒られてしまうかも知れないね」
極限まで追い詰められたせいなのだろう。精神が均衡を保とうとするかのように、急速に頭が冷えていく中飛び込んできたレオンティウスの何気ない一言に、イサドラの脳に一つの答えが浮かび上がる。
レオンティウスが兄と呼ばうのは、この世で唯一人。不慮の事故に遭い、命を落としたと聞いていた。だが、今のレオンティウスの言葉を聴く限り、そうではなかったのだと思い知る。今は亡きスコルピウスが、どこにいると?エレフセウスを自ら手にかけながら、何故生きているように話しかけている?イサドラは、強く瞼を閉じる。
レオンティウスは、もう既に狂っていたのだ。エレフセウスを手にかけるずっと前、スコルピウスを手にかけた時点で。
「何という…」
取り返しのつかない事態に発展してしまっている事を痛切に感じ、イサドラの瞳から滂沱の涙が流れ落ちる。悲しみに暮れているべきでは無いと分かっていながら、一度溢れ出したそれは容易に治まる様子はない。
落ちた視界の先、左手にしっかりと握られている剣。暫しの間ぼんやりと見つめていたそれに、イサドラは震える手を伸ばした。
硬直を始めたその手から剣を奪うのは至難の業だったが、時間をかけて指一本一本を剣の柄から引き剥がしていく。
その間も。レオンティウスはただひたすら手の中の首を見つめ、話しかけている。その瞳は正気を失っているかのように、空虚だった。
背後で響く至極楽しそうな声に、しかしイサドラは追い詰められていく。早く、早く何とかしなくては。
全ての指を開かせる事に成功したイサドラは、恐る恐る手を伸ばした。柄に指先が触れた途端、ひんやりとした感触に咄嗟に手を引きそうになるも、唇を噛み締めその手を押し止めると、後は一気に柄を握る。ずっしりとした重さに耐え両の手で持ち上げれば、血がこびり付いた黒の刀身に吐き気をもよおしそうになる。だが、そんな無駄な事をして時間を浪費するわけには行かない。一刻も早く終わらせなくてはならないのだから。
今から犯そうとしている大罪は、決して許される行為でない事は重々承知で。それでも、狂ってしまった息子を止めるには、もうこれしかなかった。
気付かなかった、では済まされない。今までレオンティウスの何を見て来たのか。あの優しい子がここまで狂ってしまうまで、何故気付いてやれなかったのか。
今さら後悔しても遅いとは分かっているが、それでも考えずにはいられなかった。思えば、己がここに来たのだってレオンティウスの瞳に歪んだ炎を見出したからではなかったか。そう、こうなるのは決められていた事なのかもしれない。
イサドラは、俯いていた顔を上げる。と、視界に飛び込んできたのは、神託故に泣く泣く手離した息子の成れの果て。剣の柄から一旦手を離し、伸ばした指先に触れたその身体は冷たく、イサドラを拒絶しているかのようだった。
「ごめんなさい」
手を離してしまった事を、間に合わなかった事を。レオンティウスが狂ってしまった事で起こった悲劇。それをむざむざ見逃してしまった己の愚かさ。せめてもの罪滅ぼしとなればいい。
悲劇は、終わらせなければならない。イサドラは、柄をしっかりと握りなおした。その瞳は溢れ出る涙で赤く染まっていたが、常には無い強い光が宿っている。剣を杖にして立ち上がると、未だ何事か語ってるレオンティウスへと身体ごと向き直る。
「レオンティウス…」
「はい?」
呼ばうイサドラに、当たり前のように意識をこちらへと向けるレオンティウス。その様子は、いつも通りの彼と何も変わっていないように見えた。だからこそ狂っていると、痛感する。
「…貴方一人が悪いのではありません。寧ろ私にこそ罪はあるのですから。ごめんなさい、愚かな母を許して下さい」
重さに耐え、持ち上げた切っ先をレオンティウスへと向ける。確実にその命を奪う為に。だが、レオンティウスはこの事態が分かっていないのか、相変わらず表情は変わらない。
一気に事を終わらせる為、イサドラが強く地を蹴りレオンティウスの懐に飛び込んだ。
だが、その試みは不安定な足元のせいで失敗に終わり、イサドラはつんのめり地面へと倒れ伏した。元々頼りない手に握られていたせいもあり、剣はあっさりとその手から離れレオンティウスの足元へ転がる。
「どうしたというのです?母上」
小首を傾げるレオンティウス訳はが分からないといった表情で、倒れ込むイサドラと足元に転がる剣へ交互に視線を向けていたが、やがて得心がいったというように頷いた。
「エレフの剣を持ってあげようとなさったのですね」
レオンティウスは腰を折り、剣の柄を掴んで持ち上げると矯めつ眇めつしながら立ち上がる。そして、そのままイサドラとの僅かな距離を縮めた。仰向けになったイサドラと、見下ろすレオンティウスの視線が交差する。
「母上が持つには重過ぎると思うのですが、言い出したら聞かない母上の事です、仕方がありません」
ではこれは、母上がお持ち下さい。そう言って、レオンティウスは剣を突き立てた。その先には、イサドラがまだ起き上がれずにその無防備な身体を晒している。
黒の剣は真っ直ぐにイサドラの喉を刺し貫き、そのまま身体と地面を結ぶ。衝撃で跳ね上がる身体。悲鳴を上げる事も敵わず、何度か痙攣した後その身体はすぐに動かなくなる。
レオンティウスが剣を引き抜いた時、イサドラは完全に事切れていた。
「ほら、重くて立てないでしょう?だから無理はいけませんと、いつも言っているではないですか」
レオンティウスの右手から剣が落ち、大きな音を立てて地面に転がる。レオンティウスは剣には一瞥も向けずに膝を付くと、そっと手を伸ばしイサドラの屍体を抱き上げた。
その身体はまだほのかに温かく、首の傷からは止めどなく深紅の液体が溢れ出している。
「母上は相変わらず軽いですねぇ」
服が赤く染まっていくのも厭わずに、立ち上がったレオンティウスはイサドラの身体を支えるように抱き寄せ、昔を懐かしむように目を細めた。
「そうだ、戻ったらみんなでゆっくりとお茶でもいかがですか?母上のお好きな茶葉を用意させて…兄上や、エレフの好きなものも用意させましょうか…」
屍二つを両手に、レオンティウスは歪んだ笑みを浮かべる。狂気を孕んだ眼差しにはもう何も映ってはいなかった。
「これから忙しくなりそうですね。皆で幸せになりましょう」
狂った王に導かれたその先で、世界はどのような姿を晒すのだろう。
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