夢の中で






 最初に認識できたのは、闇。そして…


 またいつものようにあの楽しかった日々の夢を見ているのだと、彼と共に歩き回った森の中に立っているのだろうと、そう思った。
 でも、いくら時が過ぎようと、娘の周りを取り巻く闇はあの懐かしい夜の森の木々に変化する事もなく、況してや愛しい彼の姿が浮かんでくる事もない。
 僅かな光さえ拒絶する、深遠なる闇の中、娘の姿だけが空間から切り取られたかのように存在していた。


 何の意味があるのか分からない空間で、もしかしたら歩いて行けば何か見えるかもしれないと思い、方向も何も分からず歩を進めてはみたものの、その先に何かを見出す事は叶わない。

 時間さえも曖昧な空間の中、どれ位歩いただろう。いくら行けども周囲の闇は揺らぐ様子は見られず、夢であるのに疲れを感じた娘の足は次第に力なく変化して行き、とうとう完全に止まってしまう。


 ここは一体どこなのだろうか。娘にはこのような場所に覚えなどある筈もなく、唯の夢と言ってしまうには、この空間は娘の不安を掻き立てる。
 まるで己の存在さえも曖昧になってしまったかのような錯覚を覚え、娘は自分の存在を確かめるかのように両の腕で自らを掻き抱いた。
 自らに触れる事でその体温を感じた娘の身体の強張りが、ゆっくりと抜けていく。
 その段になり、娘は自分が酷く緊張しているのだと言うことに気が付き、思わず口から笑みが漏れた。


 普段の冷静さを取り戻した娘は、改めて周囲を見回した。そこが何もない空間であることは明白だが、何故このような場所に立つに至ったのかを見極めようとするかのように。
 これが夢であることなど百も承知ではあったが、こんな意味のない闇の中に放り出され、今も醒める様子がないのでは、ここにいる事にも何らかの意味があるのだろうかと疑えてくるから不思議だ。
 娘の眼差しに先ほどまでの恐怖はなく、真実を見極めようとする静かな光が宿った瞳は、持ち主である娘自身を象徴しているようにも見えた。
 この空間が齎す意味と、そこに己が経つに至った理由。その2つが今娘の考えるべきものであり全てだった。


 不意に、娘の口元から笑みが零れる。それはいつも浮かべていた、相手に醒めた印象を持たせるものではなく、況してやあの夢のような日々で浮かべていた無邪気なものでもない。
 何かを悟ったかのような、だがどこか歪な笑みを浮かべ、先程の毅然とした様子は何処にいったのか、闇を内包した瞳に、数瞬までの輝きはなかった。そこにあるのはどんよりと濁った光。
 娘が頭上を振り仰ぐ。判りきっていた事だが、やはり闇しかない。光など望むべくもない真っ黒に塗りつぶされた空間に、先程までの取り乱しようは何処へやら、静かに佇む娘。

 夢は己の願望が如実に現れるものである。そう誰かが言っていた。
 ならばこの夢は、己自身が求めていたものなのだ。
 そう考えれば、この闇も恐ろしいものではなく、寧ろ歓迎すべきものなのかもしれないと思えてくる。

 元々、華やかな世界になど欠片の興味も抱いてはいなかった。それどころか、己の内を流れる血脈に嫌悪を抱いてすらいた。
 もし己が選帝侯の娘でなかったら、今頃あの幼き日の光溢れた日々の続きを見られたかもしれなかったのに。
 気付けば娘は『フォン・ヴェッティン』ではなくなっていた。それが、いつか来る彼との再会を夢見ていた少女の心を引き裂いたのは、言うまでもなく。
 そんな、周囲の環境が目まぐるしく変化していく中、胸のうちに沸いたのは嫌悪だった。最初は凝り固まった選民思想を抱く者たちへ。それが最終的に己自身に向けられる事となったのは、まったく皮肉な話としか言いようがない。
 そう、娘は己の出自を嘆き、それゆえに起こった様々な事象を否定した。それは自己の否定。籠の中の小鳥は、卵に戻る事を選択したのだった。
 だが、そのままただの抜け殻となってしまいそうだった娘を救ったのは、その数奇な運命があったからこそ出逢えた彼との思い出であった。それが少女にとって全てであり、知らぬ者の居ない中で縋れる唯一の心の拠り所でもあった。
 だからこそ、彼が死んだと聞かされた時、娘は文字通り抜け殻となった。今までの気丈な態度は何処へやら、唯々諾々と従うだけの人形となってしまった娘を、兄であり父であるたった一人の血縁者は拒絶した。
 だが、娘はそれを悲しいとは思えなかった。寧ろその事が再び森へと『帰る』切欠になるかもしれないと、喜びさえしたのだ。彼と共に過ごした想い出で溢れている、あの森へ。
 しかし、そんな娘の儚い希望を打ち砕く、母の死。彼女を守り慈しんでくれた彼女の死は、娘の心の扉を益々硬く閉ざしたのだった。
 死ぬ事は簡単だった。だが、それは彼との真の別離へと繋がっていて。そう思えば自ら死へと足を踏み入れる行為は躊躇われ、必要最低限の延命を己に課しながら無為に時を過ごすしかなかった。
 娘の心はあの時完全に死んでしまった。否、元々生き長らえるべき存在ではなかったのだから、元に戻ったというのが正しいかもしれない。
 そんな娘に唯一仕え続けてくれた老騎士も、もういない。娘の嫁ぎ先が、娘の意思とは関係なく決まってしまった時、真っ先に解雇されてしまった。娘の、正しくは娘の母親の気持ちを誰よりも理解していたかの老騎士は、娘が真に望めばどんな事をしても叶えてくれただろうから、王はそれを懸念したのだろう。
 心に決めた相手が既に死出へ旅立っていようと、たった一人を見出してしまった娘にとって、その心には他の誰の入る余地も残ってはいなかった。王はそれに気付いていたから、娘が逃げ出す事の無い様、娘の傍にいる人間を悉く入れ替えたのだった。
 実際はそんな手間をかける必要などなかったのに。
 娘の口元が自嘲気味に歪む。
 己は確かに結婚を喜んではいなかった。でもだからといって出奔する意思は欠片も無かった。正確には、そんな情熱など、自身の中には既に存在していなかった。
 それもその筈、娘の原動力ともなるものは、もう全て娘の手から零れ落ちてしまっていたのだ。時の流れに唯年を重ねてきた、死なないだけの人形と化してしまった娘に、それでも行動を起そうとする意思が芽生える事はない。
 娘に背を向け続けた王は、そんな簡単な事にも気付けなかったのだ。
 己を捨てた母親への憎しみ、正しくは愛しさ故の絶望がやがて憎しみへと変わっていった王の心情は、その母親が死んだ事で行き場を無くし、娘への嘲りという形で消化されているのだろう。
それすらどうでも良いと思ってしまう時点で、生きるという、生きたいという熱を失っている娘に、鳥籠など不要というもの。
 そんな風に生きてきたのだから、避ける事の出来ない流れの中に投げ込まれようとしていたとしても、受け入れる事も拒絶する事もする気は無かった。
鳥籠から引きずり出された鳥は、別の籠に無理やり押し込まれ、そのまま朽ち果てる運命なのだ。それが、己にとって最も相応しい最期なのかもしれない。
 娘はぼんやりとそんな事を考えた。
 寧ろその事を悲しいと感じる事すら罪のように、彼以外の誰かと永遠の誓いをしなければいけないのが辛いと思う気持ちがあってはならないもののように、いつしか娘は自身の幸せに興味を向ける事は無くなっていた。
 そしてそう思えば、これは、この夢はそんな自身に与えられた天の配剤ではないのかと思えてくるから不思議だ。
 このまま、いつ醒めるとも知れない闇が全てを覆っているこの曖昧な空間に身を委ねる事が出来れば、もう何者にも煩わされる事なく朽ちていけるかもしれない。
そうなれば、彼と再会できる日も近いのではないだろうか。
 もう、歩こうとする意思さえ無くなった娘は、その場に座り込み、ぼんやりと闇を眺めていた。

「このまま…」

 私の肉体が朽ち果てるまで、目が覚めなければいいのに。
 娘は宵闇の空間に己自身を馴染ませるかのようにゆっくりと深呼吸をすると、そのまま身を横たえた。
 娘は全身の力を抜き瞼を下ろすと、闇がその身を侵食する瞬間を唯ひたすら待った。だが―――

―――…ッ―

 それは、静寂を破る音。己の呼吸の音さえ聞こえていなかった娘の耳に、それは確かに届いた。
 誰もいない筈の空間に、己自身以外の存在を感じ取った娘は、咄嗟に身を起すと音のした方向へと視線を向ける。
 相変わらず闇しかない空間の中、だが数瞬前までとは違い、遥か彼方に蠢くものが見えた気がした。
 娘は慌てて立ち上がると、その方向へと足を踏み出そうとし、だが一歩足を踏み出したところで動きが止まる。己を飲み込むべく揺らいだ闇なら大歓迎だ。だが、それがまったく別の、例えば己を現実へ引き戻そうと現れたものであったならば。
 そんな考えが脳裏を過ぎった娘は、その場に立ち竦んだまま揺らぎの正体を見極めようと目を凝らした。
 次第にはっきりとして来たそれは、娘にある種の衝撃を齎した。

 その姿は、周りの闇と同化しているようにも見えた。
 全身を覆うのは闇よりも尚深い漆黒。纏う衣と同色の髪は、その者が歩を進める度に僅かに揺れている。黒一色の中、病的に青白い顔(かんばせ)が、髪の間から見え隠れしていた。遠目であった為、瞳の色こそ判別できなかったが、闇そのもののような、恐らくは男性だと思われる姿。
 彼は、娘の記憶にある今まで出会った中には存在しない人物だった。にも拘らず、その姿を見た途端、娘の胸に湧き上がるのは、懐かしさとも哀しみとも取れるような奇妙な感情。娘は、そんな不可解な感情に首を傾げつつも、尚も男を観察する。
 男性は娘の存在に気付く事無く何処へか向かって歩いていた。
 時折聞こえてくる金属が触れ合う音が、男の服のあちこちから垣間見える鎖が発している音であり、また最初にその存在を認識する切欠になった音と同様のものであると気が付いたのは、男の姿が随分はっきりと視認出来る様になってからの事だった。
 娘は己の方へと欠片も意識を向けようとしない男の様子を、息を詰めて観察する。まるで、その存在が己の希望を侵す存在では無いかどうかを見極めようとするかのように。

『―――ネエ、今度ノオ馬鹿サンハドンナ復讐ヲ望ムノカシラ』

 不意に聞こえてきた声。それは明らかに男の方から聞こえてきた。だが、どう考えても男のものだとは思えない、甲高い声。娘はその段になり、男が何かを抱えている事に気が付いた。 
 それは、男と同様の黒のドレスを纏った、だが髪の色は柔らかな金の色をした所謂『お人形』であった。
 そして先程聞こえてきた声の正体は、人形が発したものだった。人形が喋っている事実に、しかしそれ程の衝撃は無く、寧ろその人形から次々と零れる言葉の皮肉を含んだ物言いに、思わず眉を顰めてしまう。 
 娘がまだ幼かった頃、お人形たちは娘にとって孤独を紛らわせてくれる大事な存在だった。親しい友人がいなかった少女にとってお人形は大切な『お友達』だったのだから。
 そんな中、もしお人形とお話が出来たらどんなに素敵だろうと考えた事は一度や二度ではない。だが、お人形たちが喋ってくれた時、あのような辛辣な物言いしかしてくれなかったらと思うと、幻想を打ち砕かれた気分になった。
 しかも、一番大切な『お友達』がそうだったらと想像すると、悲しくなってしまう。孤独の中、いつも傍にいてくれた『お友達』彼女は今どうしているのだろうか。
 そう言えば、服装こそ違うものの、あの人形は『お友達』とよく似ている。ぼんやりとそんな事を考えた娘は、そこで息を呑んだ。
 似ているのではなく、同じなのではないか。そう思い至ったからだ。
 そう考えれば考える程、あの人形が『お友達』と重なって見える。そして、その人形を抱えている男が…。

「メ…ル…?」

 震える唇から紡ぎだされたのは、いつも宝物ようにそっと呼んでいる、大切な人の名。
 しかし、酷く掠れてしまったその声に、男が気付く事は無かった。その代わり、

『ナニヨ貴女』

 歓迎していないのがありありと分かる声色に、娘の肩が跳ねる。そこに含まれている拒絶の意思がはっきりと伝わってきたからだ。
 娘はこみ上げそうになる涙を堪えると、一歩踏み出した。

「貴女、エリーでしょう?」

 私のお友達の。そう続けようとした言葉は、しかし途中で遮られる。

『何ヲ言ッテルノ?私ハ「エリーゼ」ヨ』

 冷ややかに睥睨する人形に、その口から出た名前に愕然とした。何故ならそれは母が、そして彼が呼んでくれた娘の愛称だったから。

「違うわ。エリーゼは私よ」

 遅れてやってきた怒りの感情のままに、娘は主張する。
 そんな娘に対して、人形の反応は実に冷ややかなもので。

『ソンナ事言ッテモ、誰ガ貴女ヲソウ呼ブッテユウノヨ』

 娘の表情が悲しげに歪む。人形に言い返したいのに、言葉が浮かんで来ない。何故なら娘をそう呼んだ存在は、既に誰一人、この世に存在していなかったから。否、正確には居ない筈だった。
 だからこそ、娘の瞳が縋るように男へと向けられる。髪の色こそ違え、彼は娘の愛したたった一人の人だ。

「メル、メルでしょう!?」

 いつも夢の中で会っている少年の姿の彼とは違い、当時の面影を垣間見るには余りに様相の変わってしまったその姿。それでも、何があろうと彼を見間違うはずが無いという確証が、娘にはあった。彼を一目見た瞬間に沸き起こった感情が、心が彼を求めていたから。
 しかし、娘の再三の呼びかけにその声が届いていないのか、まったく反応する様子が見られない男。
 娘はこれでは埒が明かないと悟ったのか、男の下へ駆け寄ろうと足を踏み出そうとした。だが、

『チョット私タチノ邪魔シナイデヨネ』

 煩わしそうな人形の声が届くや否や、娘の身体は凍りついたように動かなくなった。何とか動かそうと試みるものの、指一本、動かす事は叶わない。

「ねえ、お願い。意地悪しないで」

 人形は、必死に動こうと足掻いている娘を見て愉快そうに笑う。

『アラ、ダッテ貴女、ズットココニイタインデショ?ダッタライイジャナイ。キャハハハハハ!』

 男の腕に抱かれた人形は、ひとしきり笑うともう二度と、娘の方に意識を向けることは無かった。
 娘の努力も空しく、男は娘の存在に気が付かないまま歩いていく。その腕に大切そうに抱かれているのは自分ではなく、自分を騙る人形で。悲しさと悔しさで、娘の視界が歪む。拭う事もできないまま、その雫は頬を伝い地面へと染み込んだ。

「メル!!」

 気付いてくれるなら、声が出なくなっても良い。魂の叫びのような声に、僅かに男の肩が揺れたのに、娘は気が付いた。
 
 何かに気が付いたように、男がゆっくりと首を巡らせる。起きながらにして夢の世界を見ているような、何処か茫洋とした眼差し。
 男の視界に、その瞳に己が写ると確信した娘は、期待と不安が入り混じった眼差しでその瞬間を唯只管待った。
 いよいよ、お互いの視線が結ばれようとした、その瞬間。

『私トメルノ邪魔シナイデ!』

 不意に、辺りが白み始めた。それが夢から醒める前触れであると本能で察知した娘は、視界を遮られながらも男から視線を外さなかった。
 漸く、漸く待ち望んだ瞬間。一瞬結ばれた視線。確かに交わされたその瞬間、娘の意識は急速に現実へと引き戻されていった。











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