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 音の無い世界に唐突に一つの音が生まれた。その正体は、泉の水面を押し上げる泡が発する音だ。
 泡の立つ感覚が狭まり、その数が増す。と、ぽっかりと浮き上がってきた何か。
 スコルピウスは、何とか水面まで辿り着くことに成功すると、水から顔を出すなり大きく息を吸い込んだ。腕に抱えたものの影響もあり、辛うじて口元が水から上がった状態での呼吸だった為、空気と共に水も流れ込んで来たが、呼吸が出来るだけでも満足しなければならないだろう。今はとりあえず岸に上がるのが先決だと、呼吸を整える間もなく今度は岸に向かって進路を取る。
 それほど広くはない泉だ。程なく岸に取り付くことに成功したスコルピウスは、何とか岸に這い上がると泉の中に残していた腕を力ずくで引き上げた。
 それは、スコルピウスではないスコルピウスが先程切り捨てた少女であり、取り戻したい家族の一人だった。
 冷たい水に入ったからだろう、相当消耗しているのが自分でもよくわ分かる。だが、スコルピウスは地面に身を投げ出すことなく胡坐をかくと、泉から引き上げた少女の身体を足の上に横たえ腕の中に囲む。もう既に熱を失って久しいと知りながら、それでも手を離す理由はならないとでも言うように。
 記憶の中にあるよりも随分と大人びているが、スコルピウスからすればまだまだ庇護されて然るべきである子供だ。本来はもっと幼いだろう。だが、たとえ現のものではないとしても、手を伸ばさない道理は無いというもの。

 スコルピウスは暫く無言で少女の顔を見下ろしていたが、不意に顔を上げると、疲れていても尚消えることのない怒りを含んだ眼差しをある一点へと向けた。そこにいたのは、この悪夢の元凶。

 既にただの影であることは止めたのだろう。見覚えのある形に戻った冥府の主は、何を言うでもなく立っている。だが、その口元は胸中を示すように歪んだ笑みを形作っていた。

『望ムダケデハ手ニ入ラヌダロゥニ』

 空気を震わせるような笑い声と共に聞こえた台詞に、スコルピウスは僅かに身を竦ませ、次いで威嚇するように眼差しを鋭くする。

「……何が、言いたい」

 沈黙の後、噛み締めた歯の隙間から漏れた声には、驚く程力がない。そこに含まれている色を正確に読み取ったのだろう、冥府の主は益々笑みを深めた。

『我ガ言ワズトモ』

 己のこと位分かっているのだろうに。言外にそう言われた気がして、スコルピウスは眉間の皺を深くした。不機嫌さを露にするその態度だったが、それは彼の神の言っている意味が分からなかったから、では無く。寧ろ、スコルピウスの知る己のことが何を差しているのかが分かってしまったからだった。
 だが、それに関してスコルピウスはそれ以上考えることを放棄しているので、今の自分にその可能性を見出す、などという愚行を犯しはしない。寧ろ、そこにかかずらって大事なものを取りこぼすようなことだけはしないようにと、己を戒める為の元にすらなっている。それなのに、スコルピウスが心のどこかでその未来を諦めていないのだと、冥府の主は指摘した。そう、自身が王になる道を。

 現とは違うこの場所は自分の存在すら曖昧で、まるで他人の中にいるような気にさせる。そして、それを証拠付けるように、己の意思を無視して勝手に未来の可能性を弾き出そうとする思考。
 自分が宮殿を出なければ、人形であることを甘受していれば失わずに済んだ命があったのではないだろうか。そうすれば、少しずつでも王に侍る者達の目をこちらに向けることが出来たのではないか。そして、万に一つでも王になる可能性があったのではないか。
 それはとても心地のいい誘惑。だが、

「過ぎたものを後悔して足を止める位なら、振り捨ててでも前に進むと決めた。それに―――」

 スコルピウスは一度強く首を振ると、腕に抱いていた少女の身体を丁寧に地面へと横たえた。そして己のヒマティオンを外すと、既に体温を失って久しい身体を包んでやる。
 乱れた髪を優しく梳いてやれば、血の気のなさに目を瞑ればまるでただ眠っているだけのような少女の姿がそこにあった。
 冷え切った頬に手を沿え、痛みに耐える眼差しを向けたのは一瞬。スコルピウスは傍らのクシポスを手に立ち上がると、その切っ先を真っ直ぐに冥府の主の眼前へと突き付ける。

「大切な者達の末路を見せ付けられて、それでも唯々諾々と受け入れるような愚か者になった覚えはない」

 声を荒げることこそなかったが、そこに込められた怒りは本物だった。神に向けているというのに一切ぶれない切っ先が、その心中を如実に表していた。
 だが、そんなスコルピウスの例えようもないほどの怒りを向けられながら尚、その表情は変わらない。それどころか、無駄なのだとせせら笑っているようにも見え、スコルピウスは剣を握る手に力を込めた。
 冥府の主とはいえ、相手はれっきとした神座に連なる者。対する己は何の加護も力もない人間で。本来ならば相対するのもおこがましい存在といえる。
 今だとて虚勢を張って隠してはいるものの、背を伝う汗は通常のそれではないのは明白だ勿論、相手に気付かれていないとはとてもでは無いが言えない、己の心中など当の昔に看過されているだろう。
 だがそれでも、目を逸らすことだけはしたくなかった。もとより、なんの覚悟もなく神に牙を剥く、などという愚かな行為をするつもりはない。

「貴様などに、奪わせはしない」

 神であることなどこの際関係がないと、スコルピウスは全身で語っていた。神に背いた者の末路になど興味はない。それが自身を指すとしても、血反吐を吐いてでも目的は果たすと決めたのだから、スコルピウスにとっては何もかもが今更なのだ。

『面白ィ』

 にいっと口元を吊り上げた冥府の主は、この時初めてスコルピウスを駒以外のものとして認識した。が、そんな神の考えの変化などただ人であるスコルピウスが気付く筈もなく。
 不自然な膠着に痺れを切らしたスコルピウスは、伸ばした腕から力を抜くと、大きく一歩踏み込んだ。そして、その勢いで剣を斜めに振り上げる。余計な力も殺気も乗せずに振るわれた不意打ちの攻撃は、余程の者でなければ完全に避けきるのは難しかっただろう。
 だが、そんな一撃を放ったスコルピウスの口元から漏れたのは、口惜し気な舌打ちだった。
 やはり神というのも伊達ではないのかと、全く手ごたえのなかった腕を引き戻しながらスコルピウスは次の一手を模索する。その視線は神の気配を確実に捉えていた。
 神の裏を掻くなど途方もないことのように思えたが、やらずに諦めるのは性に合わない。そんなことを考えていた時だった、景色に変化が訪れたのは。
 どうやら、夢を断ち切るのには成功したようだと、急に白み始めた周囲の状況からそれを察した。一矢報いることは出来なかったが、この茶番から抜け出せるだけでも満足すべきかと思い直す。
 スコルピウスは踵を返すと、膝を折り剣を地面へと横たえた。空手となった手が視線の先に横たわる、固く瞼を閉ざした少女の頭を優しく撫でた。

「必ず迎えに行く。だから心配するな」

 意識が完全に溶けるまで、スコルピウスはその少女を見つめていた。









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