堕ちた先で見たものは…






 男は闇の中に立っていた。
 漆黒の闇は男を飲み込むでも、また受け入れるでもなく唯そこにあった。
 静寂に満ちたその場所に響く音なども勿論無く、己以外在らずそして何も生まれない場所。

 ふと眩んだ視界に目元を押さえて軽く首を振るが、特にそれ以上の変化は感じなかったので、男は再び目を開けた。
 瞳を閉じていた間に起こる変化などある筈もなく、数瞬前と同じ光景の中、存在しているのは男と、そしてその腕に抱かれた人形。

『ドウシタノ?』

 闇の中、存在を主張するかのように響いた声に、男が虚を突かれた様に人形を見た。
 人形の両の眼は確かに意思を持って男を見ていて。男の眼差しに、まるで初めて人形がしゃべったのを聞いたかのような表情に、人形の顔が不機嫌そうに歪む。

『何ヨゥ、失礼ジャナイ?』

 咎める色を含んだ声に、男が我に返ると何でもないと首を振って見せる。
 男は何故かは分からなかったが、人形の声が聞こえた事に驚きを隠せなかった。
 人形が喋っている。その事に関しては何の違和感もなく受け入れられる。だって自分は何時だって『彼女』と一緒にいたのだから。でもそんな彼女が喋った事に、何故かは分からないのだが、腑に落ちないものを感じてしまったのも事実だった。と、同時に「これで良いのだろうか」と言う考えが頭を過ぎる。

 己の抱いた驚きの正体が判らない。
 己の感情を突き詰めようと思ったところで、何故驚いてしまったのかを理解できない状況では、その努力も結局は徒労に終わってしまう。しかし彼女にとって、それはさしたる問題ではないようだ。

『マア良イワ。私達ガシナキャイケナイ役目ヲ忘レタ訳ジャナインデショ?』
「ああ、それは勿論さ…」

 当たり前のように頷き、いつものように名を呼ぼうとして傍と気が付いた。
 人形の存在自体は当たり前に受け入れているし、彼女とどれ位の時間かはもう既に曖昧なものとなってしまったが、共に過ごしてきた事も『記憶』と『心』で理解している。それなのに、そんな中で何度も声に出し呼んだ筈の彼女の名前が自分の中に存在していないという事に。
 どんなに己の記憶の引き出しをひっくり返したところで、目の前の彼女にぴたりと当て嵌まる、彼女を彼女として認識する為の言葉だけが、ぽっかりと穴が開いたように抜け落ちていて、決して浮き上がっては来なかった。
 男は己を構成する情報の欠如に酷い違和感を覚えながら、改めて周囲を見回した。
 だが、いくら目を凝らしたところでその景色に変化はなく、黒で埋め尽くされた光景は僅かな綻びも見られない。

『ネエ、一体ドウシタッテ言ウノ?早ク次ノ「オ馬鹿サン」ニ会イニ行キマショウヨ』

 ぼんやりと辺りを見回し沈黙する男の様子に、呆れたように男を促す人形。
 己は、人形に言われるがまま『いつものように』屍揮者として、堕ちた魂達の嘆きを復讐へと導いてやれば良い。何度か繰り返してきたそれは、最早何も考えずとも身体に染み付いていた。
 でも…

「…何故、復讐なんだろう」

 胸に去来した疑問が、口から零れ落ちる。
 途端、人形の表情が剣を帯びた。

『ハァ?突然ナニヲ言イ出スノ?』

 多聞に呆れを含んだ声色に、しかし男はもう一度、今度は人形と視線を合わせ、口を開く。

「僕達の役目は復讐の手伝い。それを今まで何も考えずこなしてきたけれど、その全てが正しいものだったんだろうか。もし、彼女たちの中で復讐なんて欠片も考えていなかった者がいたとしたら、その魂が復讐によって汚されてしまったとしたら、僕達のやっている事は理に反している。そうは思わないかい?」

 今まで一度だって考えた事が無かったが、一度声に出してみれば、それを何故今まで考えなかったのかと己でも首を傾げてしまう。
 だからこそ、気付いたからには問いかけずにはいられなかった。しかし、人形にはそれが余り歓迎できる発言ではなかったらしい。
 人形の顔が奇妙に歪む。それは、今まで一度だってだって男に対し向けられた事の無い、嫌悪を顕にしたものだった。

『チョット、一体何ガ言イタイノ?私タチノ存在ガ間違ッテルッテ言イタイワケ?私ハ存在スルベキジャナイ、貴方ハソウ言イタイノ!?』

 人形の剣幕の凄まじさに、男は思わず身を逸らす。だが、人形の苛烈な瞳に縫いとめられたように、視線を逸らす事は出来なかった。

「そうじゃないよ、そうじゃないんだ」
『ジャア何ダッテ言ウノヨ!私ガ、私タチガ今マデヤッテ来タ事ヲ否定スルッテ事ハ、ソウ言ウ事デショ!』

 人形の激昂は、最早止まる事を知らず。男はどうすれば人形を宥める事が出来るのか分からず、それでも何とか自分の考えを人形に分かって貰いたくて必死に言葉を紡ぐ。

「お願いだから、落ち着いておくれ。僕は今までの僕たちを否定したい訳でも、ましてや君を否定したい訳でもないんだ。ただ、必ずしも復讐でなくても、彼女達が救われる方法は無かったのか。その可能性を考えてみたかったんだよ」
『ソンナノ、今更考エタッテ仕方ナイジャナイ!私タチハ復讐シナキャイケナインダモノ。ソウシナキャ「ココ」ニ一緒ニ居ラレナインダモノ…』

 人形の声色に哀が混じる。人であるならば、涙をこぼしていた事だろう。そう思わせるほどの悲痛な声だった。

「ごめん」

 己の軽はずみな一言で、彼女を酷く傷付けてしまったと気付いた男は、首を垂れた。
 それでも、自分が何か『違う』と感じてしまった男は、後悔しながらもその考えを否定する事が出来ない。

 静かになった人形の顔を伺い見ると、先程の激情は何処へやら澄まし顔でこちらを見ている。

『サァ、ジャア何処ニ行キマショウカ?』

 本当は、この疑問にきちんとした答えを出したかったのだが、これ以上この疑問を議論したところで、己の思考さえ曖昧な状態なのだ。堂々巡りになる事は目に見えていた。その内話題にする機会もあるかもしれない。ならば、今はこれ以上大切な彼女を混乱させなくても良いだろう。
 男は特に目的の無いまま頷きを一つ返しただけで歩き出す。
 男から反論が出なかったのが嬉しかったのか、男の腕の中、人形が何事か上機嫌に喋っている。
 男はそんな人形に相槌を返しながら、胸中に渦巻く疑問に独り頭を悩ませていた。











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