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 年の頃は子供達より少し上だろうか。最初の印象は随分痩せているな、というものだった。仕える者より良い暮らしをしている筈はないので、最低限の身繕いはしていてもさほど健康的でない者は多い。だが、目の前の少女はそれ以前の問題ではないかと思わせるような様相で。ここは仮にも宮殿であり、召使といえども健康を損なうような扱いはされていないだろうと思うだけに、少女の状態がおかしいと感じる。
 まるで、そこらの道端から拾ってきた子供に傍仕えのお仕着せを与えてここに寄越したかのような印象だった。勿論、たとえスコルピウスを煙たがっていたとしてもそこまで非常識なことはしないだろうとは思うのだが、抱いた違和感を拭うには安心材料が足りない。
 仕事はともかく、少し話をしてみるべきなのだろうか。そんなことを思ったのは、夕べ人との繋がりについて考えたからだろうか、それとも……
 何にせよ、元からスコルピウスに自由意志はないのだし、スコルピウス自身邪魔にさえならなければ傍仕えが誰になろうと構わない。ならば今は、少女に課せられた役目を全うさせるべきだろう。だがせめて、今後少女が自らの意思で別の仕事を望んだら、できるだけ口添えしてやろうとだけは決めておく。
 スコルピウスが改めて少女の様子を窺えば、固まったまま全く動いていない少女は手にした幕布を引き千切らんばかりに握りしめ、震えながら立っていた。
 どうやら初対面で随分と怯えさせてしまったようだ。と、自分の融通の利かなさを反省しながら部屋に入るよう促す為口を開き、そういえばと思い立った。

「名は何という」

 何の前触れもない問いかけの所為だろうか。少女の喉がひくりと鳴り、次いで口元が意味もなく開閉を繰り返す。それがスコルピウスの質問に答えようとしているようにも見えたので、あえて促すこともなく少女の答えを待つ。

「こ、コリーナ、です……」

 蚊の鳴くような、という表現がしっくりくるほど掠れた声で何とか名乗った少女、コリーナはそれきり口を噤むと多分に怯えの混じった表情でスコルピウスの様子を窺う。一方スコルピウスは、名を聞いたもののだからと言ってそこから会話を弾ませる技術などないので、結局この膠着状態を破るに至らず半ば途方に暮れていた。
 スコルピウスはコリーナの怯えが己の態度がお世辞にも友好的とは言えない故のことだと思っていた。だからそれ以前にスコルピウスに仕えると決まったコリーナが、周りが面白半分に植えつけたスコルピウスについての偏った予備知識を鵜呑みにしているが故に怯えているのだとは気付けないでいた。
 相手がそれなりの経験を重ねた者であれば、たとえスコルピウスが仕えるに少々難がある人物だとしても心得たものだろうから話は簡単なのだが、明らかに経験を積んでいないコリーナではそこまでの期待を抱くことはできない。

「も、申し訳ありません!」

 さてどうしたものかと思い悩んでいると、コリーナが勢いよく頭を下げた。
 唐突な謝罪に、その意味を図りかねたスコルピウスは怪訝な顔でコリーナの様子を見、そろそろと顔を上げたコリーナはその顔を見るなり引きつるような声を上げて固まってしまう。
 どうやらスコルピウスが怒っていると思ったようで、見る間にその表情が泣きそうに歪み、喉の奥から断続的な嗚咽が漏れ始めた。これ以上怒りを買うまいとする理性は残っていたようで辛うじて涙こそ堪えているものの、既に泣いているのと同じことだ。真っ赤な顔でそれでも目を逸らすまいとこちらを見上げてくる少女。
 そんな少女の様子に、ふと昔の記憶が呼び覚まされる。
 あれは確か、いつものように森で遊んでいた時のこと。森の気配が騒がしいと感じた為、決して傍を離れないよう言い付けたにも関わらず、目に付いた獣の子供を追いかけ走り出してしまった。結果、獣の親に危うく怪我を負わされそうになり、間一髪間に合ったスコルピウスが代わりにその傷を負うことにより子供達は無事だったが、それでよかったこととはならない。応急処置をしたスコルピウスは、獣への恐怖とスコルピウスの怪我に驚き泣き出した子供達に、その原因となった行動の愚かさを言い聞かせた。
 最初こそ話を聞く余裕もなく泣き続けていた子供達だったが、スコルピウスが根気良く話をしたお陰だろう。未だ潤んだ瞳で、それでも懸命にこちらの話を聞こうと唇を引き結び、零れ落ちそうな涙を堪えてスコルピウスの顔を見つめていた。ああそうだった、と懐かしさにスコルピウスの眼差しが柔らかく弛む。
 状況も容姿も似ても似つかない、それでもその様子が記憶の中の子供達を呼び起こした。だからそれは無意識だったのだろう。泣きそうな子供達にそうしてやったように、手は自然と少女の方へと伸び、その頭に触れていた。
 スコルピウスは、自分より随分と低い少女の目線に合うように腰を落とすと、慰めるようにその髪を撫でてやる。

「何か誤解があるようだが、私は怒ってなどいないから謝る必要も、泣く必要もない。言いたいことがあるならば、ゆっくりでいいから話してみなさい」

 慰めるように優しく撫でる手の温もりと、柔らかく綻んだその眼差しに、コーリナの瞳から堪えきれなくなった涙が雫となって頬を伝う。スコルピウスは一瞬動揺を見せたものの、勤めて冷静にヒマティオンの端を掴んで涙と鼻水を拭ってやる。
 驚きながらも汚れるからと首を振って抵抗するコリーナだったが、所詮は子供。スコルピウスはその些細な抵抗などものともせず、すっかりと顔を拭ってしまう。
 結果的にそれが良かったのか、驚いた拍子に涙も止まったようで、スコルピウスは新たな涙が溢れないのを確認すると、髪を一撫でしてから手を離して立ち上がった。
 再び見下ろされる格好となったものの、もうコリーナの眼差しに怯えの色は見えなかった。周りが言っていた恐ろしいスコルピウスの姿より、自分を慰めてくれた姿の方が本物だと感じたからだ。
 だからコリーナは、本来最初にしなくてはならなかった挨拶を済ますため、姿勢を正すと決められた礼の形を取る。

「お見苦しいところをお見せして申し訳ありませんでした。改めまして、私の名はコリーナと申します。本日よりスコルピウス殿下の傍に控えさせていただきますので、何なりとお申し付け下さい」

 しっかりとした態度と姿勢に、スコルピウスは驚きに目を見開き、次いでどこか困ったような苦笑を浮かべた。
 顔を上げたコリーナは、その眼差しの柔らかさに、安堵の笑みを浮かべるのだった。


 結局その日、スコルピウスがレオンティウスの元に姿を見せることはなかった。元々約束していた訳ではないのだが、もしやという期待はあったのだろう。
 スコルピウスが行動を起こさなかった影にはアカキオスからの何らかの指示があったのだろうことはカストルの予想の範疇だったが、レオンティウスはそれを知る善しもないし、今の時点で話すべきではないと昨夜スコルピウスからも言い含められていた。
 だが、目に見えて落ち込むレオンティウスの姿に、カストルは思わず溜息が漏れてしまうのは仕方のないことだろう。昨夜の様子から、スコルピウスがこちらの考えている程レオンティウスを拒絶してはいないと知っている。そしてだからといってそう易々と二人の距離が早急に縮まる訳でもないことも。だが、独り食事を始めるレオンティウスの背中がこの上なく寂しそうで。
 スコルピウスの最終目的が何かは分からないが、折角血の繋がった兄弟二人、少しでも歩み寄って欲しいものだとつくづく思うのだ。
 こんな時、兄ならどうするのだろうか。ふとカストルの脳裏に懐かしい面影が浮かぶ。久しく言葉を交わす機会を失っている内に永遠に相見える事すら叶わなくなってしまった兄の存在は、それでも尚カストルの中に強く在り続けた。
 そして、昨夜のスコルピウスの様子から彼がポリュデウケスの影響を大いに受けているのは容易に想像できて。兄ならば、レオンティウスの心情を慮り、尚且つスコルピウスに負担を強いることなくその仲を取り持ってしまうのだろうか。だが今ここにいるのは兄ではなく自分。
 ならば、兄の代わりなどと言うつもりはないが、自分ができる範囲で自分なりに行動を起こすべきなのだろうか。
 すっかり沈んでしまった様子のレオンティウスの背中を見つめながら、カストルは荷が重いという思いと共にもう一つ大きな溜息を吐いた。









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