その背に負うもの
側近であり師であり、父とさえ思い慕っていた者と、侍女であり、姉のように母のように接してくれた二人が寄り添い笑う。そしてその傍では同じ様相の、だが性別の違う2人がころころとじゃれ合いながら駆け回っている。
柔らかな日差しの降り注ぐ暖かなその場には、勿論自分もちゃんといて。当たり前のように彼等と言葉を交わし、子犬のようにはしゃぐ子供達を見守っていた。家族と呼べる大切な者達と共にある、ほんの数日前まで当たり前だった光景。
目が覚めた途端、胸に刺すような痛みが走り、スコルピウスは小さく呻いた。頬を伝うものこそ無かったものの、突き上げる感情のまま声も枯れよと叫びそうになるのをきつく歯を食いしばる事で耐える。
長年使う者がいなかった室内は埃と淀んだ空気の臭いが充満していて、とてもでは無いがあの緑薫る森の中とは似ても似つかず。それが余計に哀しみを掻きたてた。
だが、日常的に鍛える事を怠らなかったお陰で寝起きに尚冴えるスコルピウスの勘は、息を潜めてこちらを窺う気配を的確に捉えていて。奴等に、あの男に弱みを見せて堪るものかと湧き上がる激情を抑え込む。
何度か呼吸を繰り返し己の感情が凪いだのを確認すると、スコルピウスは気だるげに身を起こした。寝台から降ろした足の下、触れた布の感触一つ取ってもあの家とは全く違う。ほんの些細なことであってもそうやって差違を見つけてしまう自分が女々しく思えて、でも同時にどれほど強く想っているかを痛感するのだった。
せめてそれくらいは己に許してやろう。スコルピウスはそう割り切ることにした。目的を果たすまで、帰らぬ覚悟は出来ている。どんなに便利であろうと、ここは自分の場所ではない。己の居場所はあそこだけなのだと言うことを万が一にも忘れないために。
部屋に差し込む光はまだ弱く、夜が明けて間もないということが良く分かる。どうやらいつもの時間に目を覚ましたようだ。
恐らく起きるにはまだ早い時間だろうとは思ったのだが、身体に馴染んだ習慣のお陰ですっきりとした目覚めは眠気を微塵も感じさせない。出来れば身体が鈍らないよう稽古を行いたいところだが、一番馴染んだ相手はいないし、かといってただ殺す為だけに習ったここ最近の稽古の相手に頼みたいとは思わない。
仕方ない、ポリュデウケスが留守の時に課されていた自主訓練でもするしかないか。そんなことを考えながら手早く身なりを整えて、傍らに立てかけておいた剣を手にする。手に馴染む感触はひんやりと冷たく、ずっしりとした重さを確かめるように軽く振ってみれば鉄の塊は、それに相応しい反動を返してくる。
出来れば中庭にでも出て、日の光を浴びながら稽古に励みたいものだが、生憎とアカキオスからの許可は下りていない。今は勝手に動くべきではないのを重々承知しているので、少々不満は残るものの自由に動ける自室での稽古で我慢するしかなかった。
それに、朝も早くからあの嫌味な顔をわざわざ拝みに行きたいとも思わないからな、と。スコルピウスは淡々と素振り及び基礎体力の向上に努めるのだった。
自由に動き回れない分普段より疲れなかった所為か、漸く息が乱れた頃には随分と時間が過ぎていた。
気付けば太陽の位置は結構な高さまで上っており、聞こえてくるざわめきに人々が動き出したのを知る。
スコルピウスは流れる汗を乾いた布で拭いながら窓の外を見やった。すると、丁度部屋の前を通り過ぎる数人の奴隷達の姿が眼に止まる。主に何やら言いつけられたのだろうか、その足取りは早く、何かに掻き立てられているかのように乱れている。
この国における奴隷の扱いがふと頭を過ぎるが、自分には関係ないかと目を逸らした。監視も兼ねた傍仕えの者が付くだろうが、こちらの
奴隷はどの主に仕えるかで労働の環境も苛酷さも随分変わっているらしい。それは勿論普通の人間とて同じことで。生活環境によってその労働性質は全く違う。ただ自由意志の認められた人と奴隷ではその扱いに格段の差があるし、そもそも奴隷は主の所有物だ。おいそれと奴隷を買い換えることができない者の元にいる奴隷は、大切な労働力として大事にされている場合もあるという。だが逆に、劣悪な環境で使い捨ての駒のように使われる者も多いと聞く。
スコルピウスの脳裏で先程の奴隷と自分の姿が重なり、自嘲気味な笑みが漏れる。そうだ、今の自分は真実がどうであれアカキオスの奴隷のようなものだ。自由が保障されていようとそれはあくまでもアカキオスが定める枠内でのものでしかなく、そこから飛び出すことは許されていない。せめて子供達の置かれている状況さえ分かればもう少し抗うことも出来るのだが、警戒心の強いアカキオスはスコルピウスを操りきれていると思っている今ですら、その所在を明らかにしようとはしなかった。
それにじれてスコルピウスがぼろを出せば再び檻の中に入れられるであろうことは分かっているし、今度は真実人形となるまで開放されないだろうことも明白だ。だからこそ慎重に行動すべきだとは思うのだが、まだ幼く守られて然るべき二人のことを考えれば嫌な考えを振り払うことは出来ないし、気が急いてくるのも無理はない。
スコルピウスは脳裏に浮かぶ嫌な予想を振り払うように勢い良く頭を振ると、思考を切り替えるように窓から視線を引き剥がした。
掻いた汗は既に乾いていたが、これから起こるであろうことを考えると着替えておくべきだろうと結論を出し、ベルトを外す。
誰かが来るのを待つべきだろうかとも思ったが、元々宮殿に居た頃からあまり人を傍に置かないようにしていたので、自分の身の回りのことは出来るだけ一人でこなすようにしていた。だから、あれから時が経っているとはいえ特に問題にはならいだろうと結論付け、換えの長布を手に取ると手早く身に捲きつける。
今日は謁見の類いはないだろうからと、肩口を止めるポルパイはいつも使っているものと同じだ。そうしてもう一度皮製のベルトを締めなおせば、大まかな身支度は済んでしまう。
短くした髪は寝相が悪い訳でもないので癖が付くほどの事態にはならないから、適当に指で梳けばいつも通りに落ち着いた。今のこの適当さをデルフィナに知られたらまた盛大に怒られるのだろう、と感傷にも似た想いに苦笑を洩らしたスコルピウスは、それを誤魔化すように乱れていないエクソミスを整えると、かけてあったヒマティオンを身に纏う。
そうしてすっかり朝の仕度を終えた時だ。自室へと向かってくる気配を察知したのは。
アカキオス達だろうか、そう考えたのは一瞬。だがすぐにその乱れた足音からそうでないと判断を下す。嫌というほど聞きなれたものではないことに安堵したのは一瞬。では誰だろうという疑問が湧く。
足の運び方からして武人ではないので、カストル達という線もない。スコルピウスの自室は元々他の王族とは正反対の場所に位置している。しかも一番端にあるこの部屋を通り過ぎればあるのは壁。ならば、単に部屋の前を通り過ぎるだけというのもありえない。では一体誰が。
そんな疑問を抱きつつ、警戒を緩めないままスコルピウスは足音の主が部屋へと辿り着くのを待った。念の為、立てかけておいたクシポスを再度手に収めて。昨日の今日で動きがあるとは思わないが、念を入れるに超したことはないだろうと。
結局、スコルピウスの杞憂は過ぎたものだったのだというのが判明したのは、それからすぐのことだった。
部屋の入口で立ち止まった気配はスコルピウスがまだ休んでいると思ったのだろう。布を持ち上げて部屋に入った途端にスコルピウスと目が合うなり驚きを露にし、次の瞬間には顔を青褪めさせて後じさる。
スコルピウスは傍女の身なりをしたまだ少女の域を出ない子供の姿に、そういえばそうだったと気が付き警戒を緩めた。同時に、やけに軽い足音だったのは少女だったからかと納得しながら。
「どうした?」
布を掴んだまま固まる少女に声をかければ、びくりと跳ねる肩。その様子から読み取れるあからさまな怯えに、スコルピウスは表情を変えないままどうしたものかと思案する。元々愛想もなく人に対して友好的とは言い難い自分が、目の前の少女とすぐさま打ち解けるのが至難の業だろうことは想像に難くない。
これがアカキオスの意思が絡んだものかは分からないが、この時間にわざわざスコルピウスの元に来るということは、この少女が自分の傍仕えとしてここにいることは明白だ。それが周りに押し付けられた故なのか、それとも狙って少女を付けたのか。前者の可能性が濃厚だが、かといって変えてくれと言えば少女がスコルピウスの不況を買ったとして罰を受ける可能性は十分にある。
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