ただ人として




 大分長い間、室内の静寂は保たれたままだった。
 時折思い出したかのように聞こえるジジッという明かりが奏でる音以外、室内には音というものがなく、かといって室内が無人なのではない。その証拠に、部屋の主たるスコルピウスは先程まで座っていた椅子から立ち上がり、沈黙を保ったまま佇んでいる。
 部屋の中に一人でいながら意味もなく騒ぎ立てるのは、頭がおかしくなったと認識されたいのでなければ余り推奨される行為とはいえないので、特におかしいことではない。だがそれはあくまでこの部屋にいるのがスコルピウス一人である場合だ。今この室内にはスコルピウスともう一人、スコルピウスが本来ここにいるべきではないと考える人間がいた。
 勿論それはスコルピウスの監視をしている鬱陶しい気配の主などでなく、スコルピウスが感情のない眼差しを向ける先にいる人物を指してのことだ。
 緊張を全面に出したその人物は、室内に足を踏み入れるなり腰を折り口上を述べた。元々武に通ずる者である彼は、交渉毎は余り得意ではない。スコルピウスの真意を探るのならば、自分より余程適任の者が仲間内にはいる。だが、彼は他の者にそれを託すことをよしとせず、自ら足を運んだのだった。その最大の理由は、スコルピウスが自分と、正確には己の唯一の肉親であるポリュデウケスと浅からぬ縁を持っていたからだ。
 スコルピウスも疲れているだろうから何も今日の内に接触を図る必要はない。そういう考えが無かった訳ではないのだが、どうしても先程のスコルピウスの様子が気になって、気付けばレオンティウスに一時的に傍を離れることを伝え同じ傍仕えの者達にそのことを申し渡し、こうして一人やって来たのだ。
 だが何を話すかということを碌に考えずに来てしまったのは、失敗だったのかも知れない。思い返してみても、スコルピウスと自分の接点は驚く程少なく、その少ない接点だって間には兄であれレオンティウスであれ、第三者が必ずいたように思う。つまりはこれが、一個人としてスコルピウスに対峙する初めての機会ということだ。これまでも表立って対立することこそ無かったが、和やかな関係だったとは口が裂けても言えない。結果、勇んで来てみたのは良いものの、形式どおりの挨拶を終えた今、どのように話を切り出すべきかが分からなくなってしまったのだった。
 一方のスコルピウスは、そんなカストルの訪問に表情こそ変えなかったもののそれなりに驚いていた。

 自分の感情との折り合いを付けたスコルピウスは、休むことなく明日からの行動について考え始めた。勿論、今日は朝から動き通しだったのでそれなりに疲れていたが、忌まわしい神のお陰で思考はこれ以上ない位に冴え渡っていた。同時に精神的疲労を齎したのも同じ存在の所為ではあるのだが、元々これからの行動について自分なりに筋道を立てておこうとした途中だったので、それなりに答えを出すまで休むつもりはなかった。
 そんな風にアカキオスの目を掻い潜る術を模索したスコルピウスだったが、レオンティウスにどう接触するかという部分に至ると、途端に思考は鈍り始める。
 兄として、などと今更過ぎることが自分に出来るとは思わない。いっそのこと以前より辛辣な態度を取り警戒され続けるべきなのかとも思うのだが、如何せんそれではアカキオスの油断は誘えない。
 アカキオスは、過程はどうあれ最終的には自分が手を汚すことなく王も、そしてレオンティウスも排す算段だろう。そうなると、必然的に簒奪者として彼等を手にかけるのはスコルピウスということになる。そして、その為にはレオンティウスとその周辺からの警戒をスコルピウスから逸らさなくてはならない。
 その為、暗示にかかっていることになっているスコルピウスはこれから憎しみを押し隠しながら表面上は穏やかにレオンティウスに近付かなくてはならないのだが、正直そうすんなりことが運ぶとは思えなかった。それというもの、レオンティウスに対しそれほど激しい感情を持っていない現状でその憎しみを抱きながら友好的に接する態度がどのようなものであるのかが分からないのだ。元々感情を隠すことには長けているので、当たり障りのない態度を取ることは出来るだろう。だが、そこに友好的なという単語が付くのならば話は別だ。
 自分でも少しは妬む気持ちが残っていると思っていたので宮殿に入ってしまえば何とかなる筈だったのだが、これではまず過去に抱いていたレオンティウスへの感情を思い出すことから始めなくてはならないのだろうか。
 スコルピウスは自分の立てた計画が初期の段階でとん挫していることに頭を抱えたくなった。正直、憎しみを思い出すよりレオンティウスをあの子等に見立てて接する方が遥かに楽な気もする。自分では分からなかったが、ポリュデウケス達に言わせると、スコルピウスが子供達に向ける態度は慈しみに溢れていた、とのことだったから。だがそれでは憎しみを抱くなど到底無理な話であるし、ましてやレオンティウスは血の繋がりこそあるものの決してあの子等ではない。それに、

(一度きちんと向き合うべきなのだろうな)

 意識的に突き放してきた過去の、向けていた感情を謝罪するつもりはない。それは今生きている自身を否定することにも繋がるだろう。
 新たな関係の構築、などという偽善に満ちたものを押し付けるつもりはないし、昔とは違い反逆者とも取られかねない自分に対してレオンティウスの側が抱く感情も決して良好とはいえないのも知っている。
 あの子等の消息さえ知れればすぐにでも姿を眩ます心積もりは出来ているからこそ、それまではレオンティウスの中に渦巻いているだろう感情と向き合うべきだ。罪滅ぼし、などと言うつもりは毛頭無いが、そうする義務がスコルピウスにはある。ただ子供達を守らなくてはいけない身ゆえに、命だけは手離すつもりはないが。
 目下の目標はレオンティウスとの渡りをつけることと、もう一つ。
 スコルピウスの脳裏には、先程の広間に居た人々の姿が浮かんでくる。若い面々はともかく、壮年の者達はスコルピウスの記憶にある顔ぶれだ。
 あの時の反応からアカキオスの取り巻きを消していくと、その数は驚く程少ない。だが、彼等を利用しない手はないだろう。問題は、どうやってアカキオス達に気付かれないように接触を図るかだが―――

「……誰だ」

 不意に部屋の前で立ち止まった何者かの気配を感じ、スコルピウスは思考の中断を余儀なくされた。間髪入れず上げた誰何の声に、気配の主が僅かに身じろいだようだったが、いくら待っても声を上げることも、ましてや室内に入ってくる様子もない。
 スコルピウスは前屈みになっていた上体を起こすと盛大な溜息と共に立ち上がり、部屋の入口へと向かった。
 アカキオスであればこちらの都合など関係なく部屋に踏み込んできただろうから、別の者だというのは容易に察しが付く。
 となると考えられるのは、王の剣の誰かだろう。大方アカキオスの命を受け明日からの行動についての指示を伝えに来た、といったところか。ならば潜めていた気配に気付いたのは失敗だったろうか。いや、そこまで厳密には図っていないだろう
 監視の目があるとはいえ一人の時間を邪魔されたスコルピウスは、内心舌打ちをしながら従順な人形の仮面を被る。自分の感情を欠片だとて悟らせる訳にはいかなかった。
 だが、スコルピウスの予想は大きく外れ、入口に垂らされた布を払った先にいたのは、レオンティウスの側近の一人であるカストルだった。


「スコルピウス殿下におかれましては―――」

 明らかに何事か言いたいことがあるといった体でいたカストルを、スコルピウスはとり敢えず室内へと促した。
 最初は遠慮していたカストルだったが、不機嫌を前面に出したスコルピウスの様子に意を決して室内へと足を踏み入れ、布が元のように下りると同時に膝を付いて形式に則った口上を述べる。普段にはない緊張に酷くぎこちない言ではあったが、スコルピウスが遮る様子はなく、何とか最後まで言い切れた。
 一方スコルピウスはというと、意識の端でそれを聞きながら思考は別の方に向いていて。
 カストルとポリュデウケスの年は然程離れていないと聞く。その所為か、随所に似通った部分が見られた。特徴的な癖の強い髪も、武人としての体つきも、その声も。脳裏を過ぎる懐かしい面影に、スコルピウスの口元が僅かに持ち上がる。だが、顔を伏せていたカストルがそれに気付くことはなかった。
 結局、口上に対する反応が返って来ない所為で完全に顔を上げるタイミングを逃したカストルは目的を果たすことの出来ぬまま、顔を上げることもできずにいて。沈黙を保ったままただ時間だけが過ぎていくのだった。

 カストルの予想では、一言二言嫌味でも言われると思っていたのでそれなりに覚悟はしていたつもりだ。だが、実際には何も言われないどころか会話に繋がる呼び水も向けられぬままでは沈黙を打破するきっかけが掴めない。
 もしやこの沈黙は、遠まわしにさっさと立ち去れと言われているのだろうだろうか。そんな風にカストルが考えたはじめた時だった。スコルピウスが盛大な溜息を吐いたのが聞こえ、次いで漸く待ち望んでいた声がかけられた。

「何か用があるのか」

 やっとかけられた声に、カストルは緊張と警戒を緩めることなく顔を上げ、僅かに目を見張った。
 記憶の中にある嘗てのスコルピウスのような空気はそこにはなく、表情も心なしか穏やかに思える。やはり先程感じたのは気のせいではなかったようだ。だが、拒絶に近い硬質な空気こそないものの、どこか緊張を孕んだ様子に何がそうさせるのか分からない。
 疑問をそのまま口にしようとカストルが口を開いたその時、スコルピウスは自然な仕草でそれを遮り、暫しの逡巡の後、身振りでカストルを促した。









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