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 完全に意識面も感情面も平素の状態に戻ったのを確認し、スコルピウスはゆっくりと立ち上がると改めて椅子に腰をおろした。冷や汗の所為だろうか、額にかかる前髪がしっとりと濡れて張り付いている。視界に入るそれが邪魔で乱暴に掻き上げると、その口から深い溜息が漏れた。
 自分が対峙するべき人間以外でも、神という途方もない敵がいるという認識に、流石のスコルピウスも疲れを禁じ得ない。
 造作もなく人の思考に侵入し、あまつさえ意のままに操るのすら容易く為してしまうような存在だ。先程の己の意思が自然に同化を果たしていたことを考えれば、拒絶しなければスコルピウスの意識はあのまま絡み取られていたかもしれない。そう、今もその手の内に捕り込まれている王のように。
 神が本気になれば、スコルピウスの意識など虫を潰すより簡単に踏み躙られるのは目に見えていた。
 だが、それを知って尚抵抗することに果たして意味があるのかと問われれば、スコルピウスの出せる答えは一つしかない。元より勝算の少ない戦いなのだ。これ以上悪くなったところで引く道理はないというもの。ただ、

「神などという存在に比べたら、人など造作もない」

 神という途方もないものを相手取るのに、同じ人相手に躓いてなどいられない。そんな考えが湧き上がってくる。
 そう、子供達への障害になるのならば神だとて容赦はしない。その覚悟を想えば、人に対峙するのは何と容易いことだろう。勿論不確定要素の多い現状で油断するなどもっての他ではあるが、少なくともスコルピウスの最大の敵はアカキオスではない。
 ただ、もし子供達との再会の先に神の望むあの光景があるとするのならば。最後の時、奪うのは彼女ではなく己の命と覚悟しよう。間違っても、あのような暗く濁った眼差しを子供達に向けてなるものか、と。

 気付けば数刻前まで抱いていた神への畏怖など綺麗に拭われていて。その要因となったのが恐怖を上回る程の憤懣やるかたない思いだったからなのか、気分はさほど悪くなかった。子供達への強い想いがなかったならば、冥府の主が伸ばした触手に心を絡み取られていたかも知れないと思えば、またその存在に救われたのだろうと思う。
 さてどうせなら、無理矢理望みもしないものを見せられた礼をするべきなのだろうか。などという少々物騒な方向に思考を巡らせながら、スコルピウスはこれからの計画を練り始めた。決して容易くはない道だが、是が非でも勝利を掴み取る為に。

 まず何よりもしなくてはならないのは、この宮殿内である程度の自由を確保することだ。少なくはない監視の目、これからはアカキオス側だけではなく、レオンティウスの周囲を守る者達にも気を付ける必要がある。出来れば一人でも協力者がいれば動くのは格段に楽になるのだが、生憎と心からの信用と信頼を寄せられる人物に心当たりはなかった。
 勿論、ここで生きてきた時も誰彼かまわず敵視していた訳ではないのだが、レオンティウスが産まれたのをきっかけに周囲の反応が腫物を扱うようなものに変わっていったので、あまりこちらから心を開かなくなってしまったのだ。特に、邪な考えを持ちそうな者達とは積極的に距離を取っていたせいで、スコルピウスの使える伝手は驚くほど少ない。
 周りを拒絶し続けたつけが今更回ってきたようで、スコルピウスに眉間に皺が寄る。子供達に怖いと言われてからは気を付けていたが、ここにいる間は控える必要もないだろう。
 スコルピウスは膝の上に置かれた自分の手へと視線を落とした。拳の形に結ばれたその手は決してきれいなものではなく。森での暮らしで負った傷は大小さまざまな跡となって残っている。でも、そんな豆が出来て固くなった手は、スコルピウスの誇りだ。
 ポリュデウケスに色々と仕込まれたおかげで大抵は器用にこなすし、剣を扱えばそれなりに扱える。だが、それが一人の域を出ない程度のものだというのも知っている。孤軍奮闘を気取ったところで目的を果たす前に倒れるのは目に見えていた。だからこそ、信頼を預ける相手の存在は不可欠だ。嘗ては下らないの一言で済ませていた、人に寄り添うことの大切さを痛感する。
 不意に浮かぶ懐かしい面影に、慣れてしまった痛みがスコルピウスを襲った。彼等との出会えたことがどれほどの幸運だったのかを改めて感じ、同時に込み上げてくるものを誤魔化すように吐いた息は湿り気を帯びていて。
 スコルピウスが全幅の信頼を預けていた二人はここにはいない。そして、あそこまでの信頼を寄せる相手にはもう会えないだろうことも痛切に感じる。
 ポリュデウケスは宮殿にいた頃からスコルピウスの唯一と言っていい味方だったし、何もかも不慣れな自分に生きる術を教えてくれた。そしてデルフィナは、互いの立場故に最初こそぎくしゃくしていたものの少しずつ歩み寄ることができ、気付けば共にいるのが当たり前となっていた。
 まさかたかだか髪ひとつであそこまで怒るとは思わなかったが、と。スコルピウスは森を出てから伸びるに任せていた髪を摘み上げた。
 結局髪を切ったこと自体は許してくれたものの、以後伸びる度に髪を切るのはデルフィナの役目だった。たかだか髪ひとつで、などと言えば彼女が怒ることは目に見えていたのであえて口にはしなかったが、どうして女性というのは髪に固執するのか未だに分からない。ポリュデウケスに聞いたところで、そちらの方面にはとんと疎い彼から明確な答えを聞けることはなかったろうし、この件に関してはスコルピウスを庇うことはなかった。でも、怒られるのを覚悟で一度くらい聞いておけばよかったと、誰もいなくなった今になって思うのは感傷なのかも知れない。
 時間を無駄にしない為にも、一人でいられる時を有効に利用してこれからのことを考えなくてはならないというのに、一度彼等のことを考えた途端に泉から水が湧き出るように溢れてくる思い出たち。思い出に逃げようとする自分を情けなく思いながら、精神的疲弊を理由にして持ち上げた両の手の平に顔を埋める。

 何不自由なく暮らしていた宮殿から抜け出し、何もかも自分でやらなくてはならない日々。最初こそ戸惑いも多かったが、ポリュデウケスに習い少しずつ出来るようになっていくのは決して嫌いではなかった。何もない真っ新な自分になって改めて生き直しているような、もう一度己の生と向き直っているような感覚は、宮殿を出たからこそ味わえたもの。継承権を持たずどんなにいらぬ王族と言われても、スコルピウスは王族として生きている限りその血に翻弄され続ける。
 そんな自分がただ一人の人間として生きられた場所こそが、あの森の中だったのだ。慎ましい生活の中、家族と呼べる人達との穏やかな生活。スコルピウスは、正しく幸せだったといえる。

 スコルピウスは態勢を変えないままゆっくりと息を吸い、吐き出した。鼻腔を通るのは埃を纏った空気。間違ってもあの慣れ親しんだものではない。そんな違いがスコルピウスに追い打ちをかけるように現実を突き付ける。疲弊した精神にはそんな些細なことすら害になるが、だからと言って逃げるわけにはいかない。

「私などよりあの子達の方が余程心細いだろう」

 まだ自分にも出来ることはあるのだから、俯いてばかりもいられない。大きな荷物を背負い、それでも笑っていた彼等の恩に報いるためにもこの手で道を切り開いていかなくてはならないのだ。
 失くした思い出に縋って俯くのはこれで最後にしよう。一人きりの部屋の中、スコルピウスは決意と共に両の手を握りしめた。まるで、そこにある大事なものを取りこぼさないようにするかのように。









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