もう逢えない、冗談ではなく永遠に




 久方ぶりの自室は、どこかよそよそしい空気を漂わせ、スコルピウスを迎え入れた。
 きちんと掃除がされていた室内は動く度埃が舞うような事態こそ避けられたものの、おざなりにされていた手入れのせいで壁が僅かに黄味を帯びてしまっている。幼少期の誂えそのままでは格好が付かないと考えたからだろう、それなりに見栄えのする物に変えられた新しい設えがそんな室内で浮いているように見えた。
 そして、実際こうして部屋の中に踏み入ってみても、室内を見回してみても、最早スコルピウスの中に自室という意識はない。それどころか、己が無粋な侵入者になったような居心地の悪ささえ感じるのだ。
 この部屋も、己が生まれ育った筈の宮殿そのものも、スコルピウスにとって何の感慨も浮かばない場所へとなり果てていた。
 想いを巡らせれば即座に浮かんでくるのは、己のいるべき唯一の場所はあの森の中にある小さな小屋。生活してきた時間こそ短かったが、それでも唯一あそこだけが只己としていられた場所なのだ。それだけで、如何にここで生きていた自分が空虚なものであったかを痛感させられるのだった。
 戻りたいと願うあの場所は既に遠く、取り戻したい家族も半数は喪われている。四面楚歌といえる状況に陥り囚われの身となってしまったが、それでも諦める気は毛頭ない。絶望するのは足掻くだけ足掻いて、それでも悲願果たせず息絶える瞬間でも遅くはない。

 スコルピウスが第一に掲げているのは、あくまでもエレフセウスとアルテミシアを無事取り戻すことであり、その為に卑怯な手を使うのも辞さない覚悟を決めている。だがもし彼等の思惑通りレオンティウスを手にかければ、確実に王に代わって傀儡とされるのは目に見えている。そうなってしまえば、たとえ二人の行方を掴んだところで取り戻すことはほぼ不可能だ。

 どう動けば彼等の目を誤魔化しつつ、必要な情報を探り出せるのだろう。ここまではスコルピウスが暗示にかかっていると思っている彼等に言われるがまま、唯々諾々と従う人形を演じてきたが、常に監視の眼は張り付いている。だが上手く操れていると思っているのか、その気配は思ったよりしつこくは無い。その証拠に、自室に入った途端、張り付いていた視線が外されたようだ。だが、気配を殺してこちらを窺う者が全て消えた訳ではない。スコルピウスには彼等がどこに潜んでいるかも把握できていたが、こちらが気付いているとは恐らく考えてもいないだろう。
 随分と侮られたものだ。と、スコルピウスの口元が皮肉気に歪む。いくら国の中枢から消えた身とはいえ、本来なら闇に葬られていた命と共にあったのだ。寧ろ、守られて暮らしていた時以上に神経を研ぎ澄ませていてもおかしくはないと思わなかったのだろうか。アカキオスのような己を基準にしてしかものを考えられない者達からすれば、スコルピウスなど所詮は野に下ることで権力闘争から抜け出して腑抜けという認識なのだろうが。勝手な解釈に腹が立たないと言えば嘘になるが、まあおかげでこちらが自由に動く為の隙が見つけ易くなるならば寧ろ歓迎すべきかと思い直した。
 今、スコルピウスが最も懸念しているのはアカキオスではない。勿論その背後にいる王の剣も含み決して簡単に乗り越えられる障害だとは思っていないが、それよりも気になることがあって。
 スコルピウスの脳裏に、謁見の間に座す王と、彼を取り巻く暗い淀みのような、影そのもののような姿をした冥府の主の姿が浮かんでくる。
 あれではただの腑抜けと同じだ。十中八九、彼等に冥府の主の姿は見えていないだろう。実際、スコルピウスもはっきりと視認出来ていたわけではない。ただ違和感を覚えたことに気付いた相手が、スコルピウスに見えるようにしたのだと思っている。

 全く血の気の通わない、あの死人のような肌も、遙か頭上からこちらを見下ろすあの姿も、人あらざる者だというのをはっきりと感じた。その正体が神を冠するものだと知り、スコルピウスの中に恐怖が生まれた。それは自分とは明らかに次元の違うものに相対した際に沸き上がる純粋な畏怖で。
 そんなスコルピウスの様子をどう捉えたのか、冥府の主はその色のない顔に張り付けたような笑みを浮かべて言った。『役目ヲ果タセ』と。
 脳内に直接響く声は、スコルピウス以外いなかったようで。そちらに意識を取られている間、さぞや自分は間の抜けた様子だっただろう。しかし、その役目とは何のことだったのか。
 スコルピウスは咄嗟のことに、問い返すことも出来ずに眉を顰めた。常人ならば神からの声なのだ、迷わず自分に下された神託を思い浮かべるだろう。勿論スコルピウスも一瞬それが頭をよぎった。だが、いやだからこそ首を傾げざるを得ない。何故なら、スコルピウスには何の神託も下ってはいなかった。今考えると不自然なほどに。そんなスコルピウスの戸惑いなど詮無きこととでもいうのだろうか。冥府の主は再び同じ言葉を繰り返した。
 結局どうも要領を得ない相手の言葉に増す苛立ちのまま声を上げそうになる前にアカキオス達による茶番が終り、表面上は穏やかに済んだ謁見の場からこうして自室へと引き上げたわけだが。
 かの神が言う役目とやらが何なのかは分からないが、ろくでもないことのように感じるのは気のせいだろうか。
 そんな恐らくは間違ってはいないであろう嫌な予感に顔を顰めながら、埃の払われた椅子へ一先ず腰を下ろそうとした時だった。

「なっ!?」

 唐突に、脳裏を駆け巡る光景。見覚えのない夜の泉、その辺に立つ己の姿。何かに憑りつかれたようなぎらぎらとした眼差しと口元に歪んだ笑みを貼り付け、祈りを捧げるように天を仰いでいる。空から見下ろすように眺めていたのに、気付けば同化するように映像の中の自分と同化していた。途端に感じるのは明らかな高揚感。何に対しこれほど感情を高ぶらせているのかは理解できなかったが、己にとって喜ばしい事態であるのは確かなようだ。
 どうやらこの自分は神への呼びかけを行っているようだと気付いたのは、不明瞭な言葉が意味を成し始めた時だった。己には全く身に覚えのないことだったが、抵抗することも出来ずに腕が持ち上げられるのを他人事のように眺めていた。自らの手に握られている鈍色の光。気分は益々高揚しているのか、最早叫んでいるといっても過言ではないほど声を張り上げていて。そして、スコルピウスではないスコルピウスは、月光を受けて鈍く光るそれを唐突に振り下ろした。その先に、いたのは―――

「っ!!」

 ギリッと音が鳴るほどに歯を噛み締めれば、噛んだ拍子にどこかを傷付けたのだろう。口の中に広がる鉄錆の味。だが今は、そんなものにかかずらっている余裕は無い。
 床に転がるような無様な真似こそ免れたものの、椅子の背に立てた爪は白く、どれほどの力が込められているのか容易に察せられた。心臓が胸を突き破るのではないかと思うほど激しく脈打ち、耳の奥では命の脈動が轟々と鳴り響いている。落ち着くには暫しの猶予が必要だろう。だが、スコルピウスは混乱極まりない思考を何とか巡らせ、このおぞましい映像の意味を探る。するとそれはすぐに一つの筋道を辿った。 
 成る程、神というのはそれなりに要らぬ配慮が出来るようだ。確かにあの場でこれを見せられたのならば流石のスコルピウスでも咄嗟に己を取り繕うことが出来なかったかも知れない。だが、

「ふざけるな……」

 噛み締めた歯の間から獣のような呻き声が漏れる。最後の理性で叫ぶことこそ堪えたものの、あからさまに漏れ出す殺気を監視者たちはどう捕らえただろう。レオンティウスとの再会に改めて抱いた憎悪とでも解釈していればいいのだが。
 スコルピウスが向けた剣の先には、輝くような銀糸の一部に紫の入った髪を持つ美しき乙女の姿。その瞳こそ閉じられていたが、すぐに分かる。それは正に、スコルピウスが何としても取り戻したいと願う大切な家族の片割れ。
 吐き気と共に、生理的嫌悪感が頭をもたげる。神の傲慢さ以上に、スコルピウスにとって守護の対象であるアルテミシアを害せというのが我慢ならなかった。
 出来るなら今すぐに王の元へと取って返し、未だそこにいるであろう元凶にこの憤りをぶつけてやりたいが、それが得策ではないと考えられる位には理性が残っているらしい。このままでは埒が明かにと、一度強く目を閉じて自身に落ち着けと語りかけながら、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。右手を己の心臓の上に添えその鼓動に意識を集中させれば、元々感情の抑止に長けていたこともあり次第に鼓動も落ち着きを取り戻していった。









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