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 出来るだけ気配を殺して回廊を進む中、背中に感じるのは喉元に当てられた刃物を連想させるような視線。自分が僅かでも反意を抱いているという類いの発言をすれば、すぐにでも闇に葬ろうとする意思が込められているのが手に取るように分かる。だがそんな状況に置かれていながら、スコルピウスの口元は笑みの形に歪んでいる。演技とはいえあれだけ大人しくしていたというのに、随分と用心深いことだと。
 結局彼等にとって大事なのはどこまでも従順な自分という人形であり、そこに意思は必要ないのだ。きっと昔の自分ならばそれに反発し、逆に彼等の思い通りの行動をとっていたに違いない。だが、今の自分は違う。何を優先させるべきかを弁え、その為ならば自分の気持ちなどどうにでも御せる自信があった。
 それにしても、と気持ちを切り替えるように視線を巡らせる。足元から伝わってくる石の冷たさも、無駄に広い回廊も、記憶の中のものとさして変わりはない。ただ、そこここから向けられる視線に好奇の色が混じっているのは意外だった。逃げるように野に下った自分がこうして生きていたのが珍しいのだろうか。見世物にでもなったような気がして不快ではないと言ったら嘘になるが、そんなものは些末に過ぎないと意識の外に放り出す。
 昔であればそんな無礼な人間に対して侮蔑混じりの視線を向けていた彼とは大違いで、そのことが更なる視線を集めていたが、別のことへと意識を向けていたスコルピウスは気付いていなかった。

 ただ黙々と奥へと進むにつれ、近付いてくる目的の場所。スコルピウスは、そこに座し、己を待っているであろう人物のことを考えた。
 久方ぶりとなる親子の対面。だがスコルピウスにとってかの人物は親である前にこの国の王であり、同じ目線に立つことは許されぬ所に在るべき存在であった。故に、スコルピウスが王を父親と認識した記憶は無いに等しい。いつだって距離を開け、親しく言葉を交わすどころか、王の方から声をかけられたことが果たしてあっただろうかとすら思うのだ。それでも昔は王に認められたいという執着を持っていたように思う。
 だが今は、そんな感情は欠片も湧いて来ない。それは王が嘗ての彼ではなくなっている可能性があるから、では無く。恐らく、自分が変わったからなのだろう。何とも薄情なものだと、スコルピウスは己を評した。例え雲の上の存在だとしても、王がいなければ自分は存在すらしていないというのに。
 だが一度全てを諦め、そして救われた経験のあるスコルピウスにとって、それは当然のことなのかも知れない。今の彼にとっては、過去拠り所としていた全てが今はもう必要のないものなのだから。

 そんなことを考えている内に、目的の場所はもう目の前に迫っていた。出口を覆う厚布の前で一度立ち止まり、見張りの兵が室内に伺いを立てるのを静かに待つ。無意識に深く大きく息を吸い吐き出す自分に気付き、柄にも無く緊張しているのかと呆れにも似た息が漏れる。ふと、これではポリュデウケスのことを言えたものではないなと、ちくりと刺す胸の痛みと共に思う。まあ、ポリュデウケスはどちらかという苦手と言いつつも緊張とは無縁の人物だった。だからこそ、デルフィナとの件ではいつもの豪胆さはどうしたと思ってしまったのだが。
 そこでふと、彼のことを思考の中ですら過去形にして考えていると気付き、胸の痛みが更に増すのを感じた。後悔しても何も変わらないと分かってはいるのだが、それでも考えてしまう。相手は王の剣と徒名される影たちだ。仕損じるということはまずありえないだろう。しかも二人が崩れ落ちる様をこの目ではっきりと見ているのだ。その状況で生存を望むほど楽観的ではない。だがそれでも、とそう考えてしまう自分がいて。女々しいとも思うのだが、その諦めの悪さすら彼等と過ごすことで取り戻したものならば、許容しても良いだろうと思えた。
 そして、その想いの強さもまた子供達へのそれへと繋がるのだから。
 子供達を必ず取り戻す。何度目かも知れぬその決意を胸に、スコルピウスは視界を遮る布が捲られる様子を見つめていた。


(やはり……)

 久方ぶりとなる父王の姿に、スコルピウスの中に湧き上がったのはそんな一言。それは『父親』との再会の場に立つ者としては余りにも感情のないものだった。
 王の剣が王以外に付き従っている時点である程度の予想は立てていたが、これ程とは思わなかった。
 スコルピウスは無意識につめていた息をゆっくりと吐きながら、アカキオスの背中越しに見える王の姿を見つめる。胸の内に渦巻く不快さの原因ははっきりしている。長くこの場に留まっているのは苦行だったが、意識的に感情を殺すことで何とかこの場に身を置いていた。
 この場にいる者達がアカキオスの方に意識を集中させているのを幸いと、スコルピウスは視線だけで広間内を見回し、密かに人々の様子を観察する。
 アカキオスの弁にあからさまな不快感を表情に出す者がいないところを見ると、自分が出奔した時よりその地位は格段に上がっているのだろう。だが、スコルピウスには、その中にも表情を取り繕いながらも内心不快に思っているだろう者が少なからずいることが分かった。
 それはアカキオスとは対極の位置に立つ者であったり、末端に控える者であったり数は少ないものの確かに存在している。これならば、スコルピウスが行動を起こしたとしても全てが敵に回るということも無いだろう。
 そんなアカキオスに組することを善しとせぬ者達が一番多くいる一角には、やはりというか次期王であるレオンティウスの姿があった。必然的に、スコルピウスの視線はレオンティウスへも向けられる。
 記憶の中にあるまだまだ少年の域を出なかった姿とは違い、今のレオンティウスはまだ発展途上とはいえ精悍な青年へと成長を果たしていた。広間に入った時から、その視線が一心にこちらに向けられていたことは知っていたので、スコルピウスの視線が向けられれば、必然的に視線はかち合う。すると、レオンティウスの肩がほんの僅かに揺れる。記憶の中にあるすぐに顔色を変えていた頃とは違い、感情の制御も徐々にできるようになっているらしい。
 そんなことを思いながら、スコルピウスはレオンティウスに向けていた熱の無い眼差しを逸らした。スコルピウスの視線が外れた途端、レオンティウスの瞳が揺らいだことには気付かずに。
 スコルピウスは再び王の方へと意識を戻しながら、そっと安堵の息と吐いた。アカキオスの仕掛けた暗示に引き摺られるつもりは毛頭無かったが、自分の中にレオンティウスに対する消しきれない憎しみがあるのではないかという懸念があったが、どうやら杞憂に終わったらしい。
 それどころか、どうしてあそこまで関心を持っていられたのだろうと思う位に、スコルピウスの心は凪いでいた。少しは兄としてあの子達に恥じぬ人間になれたのだろうか。そんなことを考えながら、スコルピウスは改めて王へと意識を向ける。面倒事を増やさない為にも、この場を何事もなく乗り越えなくてはならないのだと、改めて気合を入れながら。
 スコルピウスは、記憶の中にある王の姿を思い浮かべた。彼の知るその姿は、英雄と呼ばれた時代を髣髴とさせるような堂々としたもので。同じ空間にいるというだけで、言葉を交わしている訳でも面と向かっている訳でもないのに言い知れぬ緊張を強いられたものだ。なのに今、かの王の姿にかつての威厳はなく。過ぎた年月の分だけ重ねた老い。その一言で片付けられぬほどに、その様子には精気がない。アカキオスの言葉に声を返すでもなく、ただそこに座している姿は、それこそただの人形のようで。
 スコルピウスは無意識に拳を握りしめた。噛み締められた歯が不快な音を立て、どれだけ力が入っているかが分かる。その様子は、端から見れば怒りと取られる類いのものだったろう。だが、今スコルピウスの中にあったのは得体の知れないものと対峙した時の、純粋な怯え。何故なら王のその濁った二つの硝子球には、何も映ってはいなかった。自分達だけではなく、この世の全てが。

「アカキオス」

 不意に王が口を開き、名を呼ばれたアカキオスが口上を中断し恭しく頭を下げる。何の変哲も無いその様子に、スコルピウスは強烈な違和感を感じた。その正体を探ろうと、目の前で繰り広げられる光景をじっくりと観察する。
 どうやら違和感を感じたのはスコルピウスただ一人のようで、何事も無く進んでいく王と臣下の会話。そこに可笑しい点は見られず、だがまともなものだとも思えないスコルピウスの眉間に皺が刻まれる。
 自分がこの場において酷く異質なものになっているようで、背を這い回る不快感に舌打ちしそうになるのを何とか堪えた。異様な場とはいえ、仮にも王の御前だ。いくらスコルピウスが王の実子といえど、不敬な行為はするべきではない。
 スコルピウスが一人己の感情を宥めている間にも、王の言葉は淡々とアカキオスにスコルピウスの処遇についての命を出している。流石に一度の出奔を理由に即刻処分されるようなことにはならないだろうが、嘗ての王であれば今後何者にも利用されないような場所に幽閉するという可能性もあった。だがそれは、スコルピウスの知っている王であり目の前にいる抜け殻ではない。









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