在りし日の残照






 澄み切った青空の下、すべるように飛ぶ一羽の白い小鳥。
風と戯れ舞うその姿は、自由の象徴といっても過言ではないように見えた。
 やがてその小鳥の目の前に現れたのは、石造りの塔。その閉じられた様相は、自由を冠するものにおよそ相応しいとは思えず。だが、小鳥は真っ直ぐ塔を目指して飛んでゆく。



 沈黙を保ち聳え立つ塔、無骨な様相の壁面に窓たる窓は見る限り一つしかなく。
 天頂近くに穿たれた窓には、黒色の鉄格子が嵌められていた。それはまるで、内に抱きし輝石を覆い隠しているように。
 小鳥は何度か塔の周りを旋回し、やがて僅かにある足場へと降り立った。
 周囲を忙しなく見回しながら、小鳥は声を上げた。
 その嘴より奏でられる囀りに誘われるように、僅かな衣擦れの音がしたと思えば、鎧戸が内側へと開かれる。
 暗い室内に光が差し込み、そこに立つ人物の姿を浮き上がらせた。現れたのは、白き乙女。
 小鳥の訪れに頬を綻ばせた娘は、用意してあった餌を小鳥の足元へと撒いてやる。
 もう習慣となっているのか、小鳥は撒かれる様をじっと見つめ、娘の手が鉄格子の向こうへと戻ると同時に、足元の餌を啄ばみ始めた。
 娘はそんな小鳥の様子をしばし微笑ましげに、だがどこか寂しそうに見つめていた。

 晴れ渡る空は雲ひとつ無く、生命の営みを見守る太陽のその陽光が、惜しげもなく大地へと降り注いでいる。
 眩い世界。そんな光溢れた世界を見つめる娘の表情は暗く、その眼差しには諦めと羨望が入り混じっていた。
 娘にとって、太陽の光も明るい世界も、今や何の意味も無いものとなってしまった。 光が降り注ぐ只中に立っても、娘の脳裏にはあの薄暗い森の情景が焼きついて離れない。何故なら、娘はすでに自分の光を見つけてしまっていたから。
娘にとっての光。それは……
 ふっと息を吐き出すと、娘は思考を切り替えるように軽く頭を振った。いつだって心の中にあるそれは、油断するとあっという間に娘の思考を支配する。
 夢を見ながらまどろむ時はもう過ぎたというのに。これから考えなくてはいけないのは、過去への回顧ではなく未来への覚悟。
 向けられる先にあるのは格子が嵌められた狭い窓。今後の自分を示唆しているようなそれを見つめる娘の瞳には儚い光が宿っていた。それはともすれば弾け、消え去ってしまいそうな弱々しいもので。まるで今の娘の心の内を表しているかのようにも見えた。

 この塔の最上層に軟禁状態になってから、どれくらいの時が過ぎてしまったのだろうか。
 塔から出られないわけではない。今だって、この部屋唯一の扉には鍵がかかってはいないのだから。
 だが、一歩外へ出れば誰かしら監視のように見張っているし―実際、彼女の動向を見張る者である事は明白で―ひとたび塔の建てられている敷地内から出ようとすれば、途端に侍女達が寄って来ては何かしらの理由をつけて、結局は塔の部屋に連れ戻されてしまう。
 余りにもあからさまなそれに、彼等の行動の全てが何に起因しているか、どんなに鈍い人間だとて気付いてしまうだろう。

 理由は娘自身、よく分かっていた。
 この軟禁が始まったのが、あの日、彼女の兄との会話がきっかけであったとするならば、全てに説明がつくのだから。
 恐らくこの城から出る事が叶うのは、新たな『自分』に変わる時。夢見る事を許されなくなる、彼と共に過ごした日々を抹消する時。


 娘の視線が小鳥へと向けられる。
 餌を平らげた小鳥が、軽く毛繕いをして再び空へと舞い上がった時、娘はただ何の感情もない瞳を小鳥へと向けていた。
 自由に飛び回る小鳥を羨ましいと思ってしまうのは、己の今の状況が窮屈で、苦しいものであるから。軋む心は痛みを持って娘を苛んだ。
 あの小鳥は望むまま誰のものでもない空をどこまでも飛んでいくのだろう。
 娘とて、正式に降嫁すれば昔程とはいかなくても、自由に外に出られるのかもしれない。それでも、それは娘の望んだ空ではない。誰かの元で得られる空を飛ぶよりも、彼の大地を歩くほうが娘にとって何よりも魅力的だった。
 そんな詮無い事を考えながら、どうしたって叶う事のない事実に、娘の口元に自嘲気味の笑みが浮かぶ。
 いつまで続くか判らない己のみが疎ましく―だが終わる先に何があるのか知っている身としては、終わりを望む事も出来ないのだが―空を自由に飛びまわるあの小鳥が羨ましかった。
 今思えば、あの森の中にいた自分は鳥籠の中にいながらも自由だったのだと、こうなってみて痛切に感じた。
 いつでも外に出る事こそ叶わなかったが、それでも森の中を歩き回る事が出来ていた。周りの目を盗んで行われるその行為に対する罪悪感は、外への興味に掻き消され、後はもう楽しいばかりだった。
 それに、自分を外に連れ出してくれたのが他ならぬ彼であり、大好きな彼と共に駆け回る時間は、誘惑に抗う事の出来ない尊く楽しい時間だった。

 出逢いと別離。正反対の性質を持つそれは、しかし元を辿れば同じ根の元に存在している。故に『偶然』出逢った二人にいずれ別離が訪れるのは『必然』なのだ。
 狭い鳥篭の中、必要最低限の人間としか接触しない正に籠の鳥であった少女は、少々醒めた思考の持ち主であった。
 故に彼が別れを告げに来た時、頭の隅では事態を把握し理解していた。だが、そんな少女に奥底で眠っていた感情というものを呼び起こしてくれた少年の存在は、誰よりも得がたいものとなっていて。だから、少女は頭で考えるよりも先に、心の中に湧き上がった感情のままに、行動した。
 少女はその時、自らが抱く感情が幼心ゆえの飯事のような恋ではなく、狂おしいほどの恋情であると気付いてしまった。
 少年と過ごした時間が大切で、少年という存在が愛おしくて、少年の優しさに付け入り、約束という鎖で少年を縛った。更に、それが正しく交わされたものである事を示すように、『お友達』まで持たせて。
 傲慢だった己の所業は、彼の優しさに包まれていたが故に誤魔化されていたが、思えば何と浅はかな事をしてしまったのだろう。

 娘は、未熟であった幼き日の自分を思い返し、唇から溜息を漏らした。

 だからこれは罰なのだと、決して外れる事の無い格子を見つめ、思う。
 彼の死を知るまでは、いつか果たされる約束を夢に見、流れる時から目を逸らし続け、彼の死を知ってからも一欠片の思い出に縋り、それだけを胸に抱いて唯死なないだけの毎日を過ごしてきた自分自身への。

 娘は小鳥の姿が空に溶け込むように消えると同時に、まるで未練を断ち切るかのように目を逸らすと、鎧戸に手をかける。
 柔らかな陽光を遮るように鎧戸を閉めてしまえば、まだ昼間であるというのにその室内は闇に包まれた。
 娘はそのまま明かりを灯す事もせず、寝台へと近付き倒れ込む。
 上等な敷布の感触も、焚き染められた爽やかなカミツレの香りも、娘の顔に笑顔を取り戻す事は出来ず、娘は寝台に伏せたまま静かに肩を震わせた。

「メル……」

 彼が死んだと聞かされてからも、幾度となく呼んだ名を唇へと上らせれば、いつだって浮かんで来る優しい笑顔。
 どれ程の月日が流れようと決して色褪せる事のない思い出に身を委ね、少女はそっと瞼を下ろした。











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