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「エレフ!ミーシャ!!」

 己の声に覚醒を促されたのか、スコルピウスの瞼が弾かれたように開かれた。
 一瞬にして引き戻された意識、風の唸るような音が耳の奥で鳴り、心臓が痛みを訴えながら脈打っている。
 生理的な涙が目尻から零れ落ち、ぼやけた視界に飛び込んでくるのは何処にでもあるような天井。先程まで見ていた薄闇色の森では無かった。
 どうやら自分は夢を見ていたらしい。意識がはっきりしてくるにつれ、己の思考が導き出した答えに、スコルピウスは大きく深呼吸をしながら身じろいだ。が、己のものである筈の身体は、スコルピウスの望むように動いてはくれない。腕を上げようとしても何かに阻まれ、身体の下に敷かれた状態のまま動かないのだ。
 思わず叫び出しそうになるのを唇を噛んでやり過ごすと、スコルピウスは唯一自由になる首を持ち上げ、己の状態を確認する。痛みは無いので杞憂だとは思っていたが、そこにきちんと身体があることに酷く安堵し、無意識につめていた息を吐く。身体の下に巻き込んだまま長く放置されていた所為か痺れて感覚を失くした腕も、見える範囲での話ではあるが無事なようだ。だが、だからといって楽観視はできない。
 スコルピウスの自由を奪っている縄は、ただ闇雲に縛ってあるのではなく、動けないように関節を固定されている。そのことからスコルピウスを拘束した犯人は、そこらの夜盗の類ではなくそれなりに知識を持った者の仕業だと分かる。十中八九、あの者達の手によるものだろう。彼等の纏っていた闇に身を潜めて生きる者特有の気配を思い出し、スコルピウスは腹立たしげに舌を打つ。
 ただ王の命のみで動く彼等の存在を忘れていた訳ではなかったが、まさか彼等が動き出す事態になろうとは。考えていなかった訳では無かったが、その可能性は少ない筈だった。

 そう結論付けたスコルピウスは、次いで室内へと視線を転じた。目に飛び込んでくるのは己の寝かされている寝台らしき物と、そのすぐ傍にある質素な造りの棚。その上には見たこともない蓋付きの器が置かれ、盛んに煙を吐き出している。そして少し離れた位置にテーブルと、椅子が一脚。そのどれもがどこにでもあるような物だったが、そのどれもに見覚えはない。少なくとも、自分が訪れたことのある場所では無かった。
 これだけでは情報が足りず、浮かぶ手だても意味を成さない。かといってスコルピウスの意思を無視したこの状況を唯々諾々と受け入れる気はない。何より、自分が動けないとなると確実に危険の度合いが跳ね上がる、今この場にいない子供達のことが気がかりでならなかった。
 あの子等だけで逃げ出せた可能性は限りなく低い。共に捕らえられたのはまず間違いないだろう。もしすぐ近くにいるのなら良いが、そうでない場合、今のスコルピウスがその行方を掴むのは非常に困難を極めるに違いない。
 自分達を捕らえた者達の目的が何であるのか分からない。ポリュデウケスは王の命に背いた反逆者であり、スコルピウスは王宮を出奔し心情如何では王家転覆をも狙うと思われても仕方がない立場にある危険人物。そして子供達は神託により不吉の予言を背負わされた滅びの子。予測を付けるには、スコルピウス達には狙われる要素があり過ぎた。
 だがスコルピウス達からしてみれば、そんなものは周りが勝手に当てはめたものに過ぎず。権力とは関わりのない場所で慎ましく生きてきた。もう二度と王宮に戻る気も、己の持っていた地位に固執する気も無かった。ささやかな幸せを大切に生きて来たというのに、その全てを無情にも壊される道理はない筈だ。
 天井を睨みつけるスコルピウスの瞳にははっきりとした怒りが浮かんでおり、その脳内ではこの状況下から抜け出す最適な方法を見付けようと思考を巡らせていた。こうなってくると、自由に動けないことが返す返すも口惜しい。だからといって諦めるつもりは毛頭ないが、今まで以上に慎重に動かなくてはならないのに。もう頼りにしていた彼等はいないのだから。
 不意に浮かんできた二人の姿に、スコルピウスは唇を噛んだ。自分がもう少し慎重に行動していたら、彼等を失わずに済んだのではないか。後悔は意味のないものと知りながら、それでもあの時できた最良の道を探してしまう。全てはもう済んでしまったこと、そう割り切るには大切過ぎたのだ。スコルピウスは、じくじくと痛む心臓を鎮めようと大きく息を吸った。
 そして、ともすれば沈みそうになる思考を無理矢理切り替える。今しなければならないのはうじうじ考える事ではないのだと。
 その時、唐突に天井がぐにゃりと歪み、焦点が合わないのか視界に映るものがぼやけ始めた。同時に頭が痛みを訴え出す。
 何の前触れもなく起こったそれに、スコルピウスは違和感を覚えた。己の心情や、完全に覚め切っていない意識の所為と考えるには不自然なそれの原因を探ろうと考えたスコルピウスは、そこで漸くあることに思い当たり咄嗟に息を止める。犯してしまった失態に、その口元が悔しげに歪む。傍らの棚へと目を向ければ、変わらずそこにある蓋付きの器。目を凝らせばそこから僅かに煙が立ち上っている。そして、スコルピウスの息を止める寸前にその鼻腔を擽った酷く甘だるい香り。
 常ならば、真っ先に思い当たっていた筈のものを見逃してしまった。見慣れた器でなかったから、気付かなくても仕方がないとは思えなかった。
 だが、鼻が臭いに鈍くなっていることから、この香はスコルピウスが意識を失っている間も焚かれていたものなのだろう。既に充分身体に染み込んでしまっているそれを今更排除したところで意味は無い。せめてこれ以上無闇に香を吸い込むことが無いようにと、スコルピウスは身体を無理矢理反転させ、枕に口元を押し付ける。スコルピウスは浅く呼吸をしながら、ぼやけそうになる思考を必死に巡らせた。気を抜くと、再び意識が持って行かれそうになるのを、歯を食いしばって耐える。
 これ以上この部屋に居ては状況が益々悪化するのは目に見えている。漂う香りから判別するに、この香はスコルピウスの思考能力を奪うだろう。未だ敵方の目的を正確に把握しきれない以上、少しでも動ける内に脱出する手立てを講じなくてはならない。
 スコルピウスが散じる意識を必死に繋ぎとめようとしていたその時、部屋の扉が小さく音を立てて軋んだ。音の正体は扉を開ける音、次いで誰かが入って来る。だが、己の事で精一杯のスコルピウスは、それに気付けなかった。


「スコルピウス殿下、ご気分はいかがですかな」

 肌を撫でるようなねっとりとした声が耳朶を掠め、スコルピウスは香のことも忘れて顔を上げる。するとぐらぐらと揺れる視界の中、見覚えのある男が立っていた。

「……アカキオス」

 二度と関わることは無いと思っていた者の登場に、スコルピウスの表情があからさまに歪む。この男の所業は忘れたくともそう簡単に忘れられるものではなかった。憎々しげに吐き捨てられた声に、男、アカキオスは嬉しそうに目を細めた。

「私の名を覚えていて下さるとは、光栄にございます。随分とお探しいたしましたぞ。よくぞご無事で」

 横たわるスコルピウスに視線を合わせるように腰を落としたアカキオスは、安堵の表情を浮かべている。
 スコルピウスは盛大に眉を顰めた。背筋を這う悪寒は本能的なもの。向けられる眼差しが余りにも白々しく、信用できない相手であるのが一目で分かる。懐かしい顔ではあったが、だからといって沸いてくるのは感慨ではなく嫌悪。男に対し欠片の信頼も抱いていなかったスコルピウスにとって、これは当然のことだった。
 王への忠誠を誓いながら、その舌の根が乾かぬ内に王を踏み台にする策を弄するような男を信用せよという方が無理というもの。だが口だけは妙に上手く、人を丸め込むのが得意だった。
 この男にとって必要なのは、あくまでも自分の地位を確固たるものにするのに利用できる人間のみ。そしてスコルピウスはそこから運よく外れた存在の筈だった。改心した、などとは死んでもあり得ないと知っている。だから、男がここに居るという事は、スコルピウスに何らかの利用価値を見出しているということで。
 一つだけ感謝するとすれば、香の所為で茫洋としていた意識が怒りという強い感情ではっきりしたことだろうか。

「貴様が何をしようとしているかは知る気もないし、知りたいとも思わん。今更私を利用できると思うな」

 あからさまな拒絶に、だが男に動揺はない。それが予想していたからなのか、それともそんなものは男にとってどうでも良いことなのか。

「殿下はあの者に騙されているのです。あの者は、殿下の優しさに付け込んで、謀反を働いたのですぞ」
「何をっ!?」

 ポリュデウケスを侮辱され、スコルピウスは怒りを露わに反論しようとしたが、不意に力が抜け、上げていた頭が沈む。同時に今まで以上の眩暈が襲い、スコルピウスは堪らず目を閉じた。

「私は王直々の命で殿下をお迎えに上がったのです。それが嘘偽りでないことは、殿下自身がよくご存じのはずです」

 そんなスコルピウスを気遣うでもなく、アカキオスは更に言い募る。そして、ちらりと後ろに控える者達へと視線を投げ、その意味を知るスコルピウスが悔しげに声を漏らすのを聞いてほくそ笑むのだった。
 そう、どう考えてもあの王がこんな愚かなことを考えるとは思えない。だが、王の影がこの男の命に従っている以上、王は何らかの形でこの男を容認していると言う事なのだ。
 否定しても、奥底から肯定の言葉が返ってくる。まさか己自身に裏切られようとは思ってもいなかった。
 苦悶するスコルピウスの傍ら、香の焚かれた器から先程以上の煙が立ち上っていた。

「殿下、陛下は殿下を王位継承者として据えるよう、私に命ぜられました。他の誰でもない、貴方様が王となられるのです」

 そんなものには欠片も興味がない。それなのに、とうの昔に消してしまった筈の感情がアカキオスの言葉に誘われるように蘇って来る。
 王の息子として生まれ、次代の王として生きてきた誇りを踏み躙った者達への恨み、己の居場所を奪ったレオンティウスへの憎しみ。次々と溢れ出す負の感情に、血が滲むほど噛み締めた歯の間から苦悶の呻きが漏れた。

「殿下は大分お疲れのご様子、もう少しお休みください。後は私めにお任せください。殿下の望みはこの私が叶えて差し上げましょう。私だけが、スコルピウス殿下の味方でございますぞ」

 香の効果に半ば以上飲み込まれかけているスコルピウスの様子に、アカキオスは満足げに笑う。

 敵の思惑通りに事が運んでなるものかという必死の抵抗も空しく、抗えぬ睡魔に瞼がゆっくりと落ちていく。否定しようと口を開いても、漏れるのは意味のない音のみ。次第に狭まってくる視界、と同時に思考にも靄がかかっていくようで、スコルピウスから抵抗する意思を少しずつ殺ぎ落としていった。

「次にお目覚めになる時には、色よい返事をお聞かせ願えると信じておりますよ。何せこれは他の誰でもない、貴方様自身の為なのですから」

 アカキオスの囁きを最後に、スコルピウスの意識は闇へと落ちた。ほんの少し前まで常に傍らに在るのが当たり前だった家族の笑顔が急速に遠くなっていくのを感じながら。











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