歪んだ口元、微笑む目元
歯を食いしばり、森の中をただひたすら遠くへと。視界を遮る枝葉を腕で乱暴に打ち払いながら足を止める事無く走り続けた。
肩に乗せたエレフセウスが悲鳴を上げて頭にしがみ付き、左腕に乗せたアルテミシアが状況を良く理解出来ずに悲鳴のような叫び声を上げていたが、それを気にしている余裕は今のスコルピウスには無かった。
とにかくこの二人を一刻も早く安全な場所へと運ばなければならない。ポリュデウケス達を害した者達の目的は間違いなくこの子等であり、見付かれば子供達の命が危険に晒されるのは目に見えている。滅びの神託を受けたが故に生きる権利をも奪おうとする者達への怒りが今のスコルピウスの力となっているのは皮肉と言うもの。そしてそれを理不尽と考えられる思考を持てたのは、間違いなく今の生活があったからだ。
王宮を出奔した事は、スコルピウスにとってこの上ない幸運であったとつくづく思う。欲望という名の汚泥の中、逃げる事も出来ずに腐って行く所を救われたのだから。
「…っ」
脳裏には、床に倒れ伏したポリュデウケスと、微笑むデルフィナの姿が焼きついて離れない。二人を手にかけた者達への憎しみに心を押し潰されそうになりながら、誰よりも感謝すべき相手を救えなかった己の不甲斐なさに嫌悪を抱きながら、それでも足を止めないのは大切な家族の為。自分の中にある絶望は、ともすれば自らの命すら蔑ろにしようとする。だが、子供達を守る為と思えばそんな闇に誘われる事など出来ようも無く。スコルピウスは、確かにここにある温もりに一人唇を噛むのであった。
どれくらい走り続けたのか分からない。もう既に辺りは暗く、陽が完全に落ちたせいで常に薄暗い森は一層の闇を纏いスコルピウスの行く手を阻む。が、持ち前の勘の良さと常日頃から非常時を想定しての鍛錬を怠らなかった事、そして張り詰めすぎた神経が助けとなり、スコルピウスは殆ど速度を落とす事無く走り続ける事が出来ていた。
だが、どんなに体力があったとしても、生物の枠組みから外れない以上疲労は着実に蓄積されていくもので。それはスコルピウスとて例外ではなく、少しずつその速度は落ちていき。やがて走っているとも言えない程落ちた段になって漸く、スコルピウスは冷え切って殆ど感覚の無くなった腕に抱えた二人の存在を思い出した。
スコルピウスは隠れる場所はないかと首を巡らせ、進行方向に立つ老木に目を留めた。走る勢いのまま木の陰へと身を滑り込ませると同時に、慎重に辺りの様子を探る。害意ある者達の気配を取りこぼす事の無いよう、途切れかけた集中力を駆使して気配を読む。
どうやら上手く逃げおおせたようで、感じるのは本来の森の気とそこに息づく動物達の気配のみ。
心臓がどくどくと音を立て、口から漏れるのは耳障りな呼吸音。乱れた呼吸をそのままに、腕の中の子供達の様子を確認しようと視線を落とす。
子供達が、寒さからかはたまた恐怖故か、小刻みに身を震わせているのが布越しにもはっきりと伝わってくる。こちらを見上げる瞳は涙で濡れていて、鼻も赤く染まっている。何事か声を上げようとしているようなのだが、歯の根が合わずカチカチと鳴る音と、合間に漏れ出る息の音だけだった。
どう見ても良好とは言えない子供達に、危急とはいえもう少し配慮すべきだったかと思いつつ身に纏っていたヒマティオンを外して二人を包む。長めの布であった事が幸を奏し、小さな二人の身体を纏めて包む事が出来た。
少しでも寒さが和らげば良いと、身を屈め自分の方へと引き寄せしっかりと掻き抱いた。己の体温で少しでも寒さが和らげば良いと思いながら。
すると暫く続いていた震えが少しずつ治まって行き、強張った身体から力が抜けていくのが分かる。二人揃ってほうっと息を吐いたのを見て、ああやはり、と後悔の念が湧き上がる。
何の説明も無い上にこの強行軍で、しかも着の身着のままの状態で夜の森の中、剥き出しの肌を外気に晒され続けたのだ。どんなに不安で寒かった事だろう。だが泣いてこちらを困らせる事も無く、歯を食いしばって耐えてくれたのだ。かように弱く頼りない存在ながら、自分の事よりもスコルピウスの事を考えて。
本来なら命の危険など考える必要も無く、周囲に守られ不自由ない生活をしていたかもしれないのに。
腕の中の小さな命の尊さを知っているからこそ、スコルピウスは強く唇を噛んだ。
何が神託だ。今なら神にだって噛み付けると確信する。
たかがか弱き幼子二人がいるというだけで滅びる国など、最初から先は無いのだ。さっさと滅んでしまえばいい。いつまでも玉座にしがみ付く王も、己の欲望の為浅ましく王の傍に侍る者達にも嫌悪しか湧いて来ない。
市井で暮らすようになったスコルピウスは、民にとって大事なのは日々の生活であり、例え王の首が挿げ変わったところでその生活に影響が無い限りは然したる問題ではない事を知っていた。それを目の当たりにした時も、民に対しての怒りは無かった。何故なら、民をより良く導く為と言いながらそれを蔑ろにする者が横行する国に、どんな希望が抱けるというのか。
人を人と思わなくなったらお終いなのだと教えてくれたのはポリュデウケスだった。戦において人を屠るのはどんな大義名分があろうとも、結局は自らが生き残りたいが為の我欲でしかない。殺された者達にとってはどんな理由があろうとも正義には成り得ないのだから。だからこそ命とは真摯に向き合うべきなのだと。そう、教えてくれた。
何も考えずに命ぜられるままに剣を取り、殺し、忘れるのは至極簡単で。だがそれでは生きながら死んでいるのと何ら変わりが無かった。あの時のままの自分であったなら、その考えを改める事は無かっただろう。だが、宮殿を出て、もう一度人に生まれ変わったのだと思っているスコルピウスだからこそ、それではいけないのだと気付けたのだ。人である事の尊さを、人としての心を取り戻せた今、再び抜け殻に戻ろうとは思わない。
「にい、さま…?」
「ね、とうさまとかあさま…は?」
漸く寒さが和らいできたのか、子供達のか細い声が耳に止まる。が、その内容に、スコルピウスはあからさまに身体が強張るのを感じた。脳裏にはあの時の光景が。どうあっても楽観視できようも無いポリュデウケスの倒れ伏した姿が浮かび上がる。ああ、自分達の進む先に彼等はもういないのだ。それを思うと、知らず唇は震え必死に押し込めていた熱い塊がせり上がってくる。
『どうか生き延びて幸せに』
そう言って微笑んだデルフィナの顔が脳裏に焼き付いて離れない。彼女は自分が助かる事よりも、スコルピウス達に生きて欲しいと言ってくれたのだ。堪えようとする意思とは裏腹に、溢れ出そうになる涙に呼吸が不自然に乱れる。だが、今は泣く訳にはいかなかった。まだ安全だとは言えない状況で取り乱してどうする。そして何より不安に苛まれ押し潰されそうになりながらも必死に耐えている子供たちの前で、みっとも無く泣いてなどいられないではないか。
こちらを真っ直ぐに見上げてくる二対の瞳から逃れるように、手の平で瞼を覆う。二人がどれだけ自分を慕い、頼りにしてくれているかを知っているからこそ、情けなく歪んだ今の顔を見られる訳にはいかなかった。こちらの気を引こうと小さな手が服の裾を掴んで引っ張っているのを感じる。そんな可愛らしい自己主張に、自然と口元に笑みが浮かぶ。
大丈夫、自分はまだ、この子達がいる限りは決して折れずにいられるから。
気持ちを落ち着かせるように大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。漸く先程までの疲労も少し和らいできた。これならまだ動ける、まだ子供達を守って走れる。
己の中で気持ちを切り替えると、スコルピウスはそこで漸く手を下ろし二人の眼差しを受け止める。不安に揺れる瞳がそれだけで明らかな安堵を浮かべるのに、スコルピウスは力を貰ったような気がしながら唇を開いた。
「父様と、母様は……っ!?」
不自然に途切れる言葉尻。どう話すべきかと考えあぐねるスコルピウスの神経に、何かが触れた。それは一瞬前まで欠片も感じなかった人の気配。ポリュデウケスの命を奪ったあの場にあった者達のものと同一の気配。
囲まれていると気付いた時にはもう遅い。先程まで影も形も無かった筈が重く沈んだ闇の中、滲み出るように浮かび上がる人影に、スコルピウスはクシポスを手に立ち上がった。
声を上げた子供達を己の身体と木の幹の間に隠し、腰を落として攻撃に備える。周りの者達からは殺気の類は感じられず、こちらを窺うような視線にスコルピウスは忌々しげに舌打ちをする。こうして相対してみると、ポリュデウケスが苦戦していた理由が良く分かる。目の前の者達は、ただ強いだけではない。それは闇に生きる者達の気配。一切の感情を廃し、唯忠実に王の命に従う為だけに存在する集団。王の影と徒名される者達に間違い無いだろう。存在は知っていたが、こうして実際存在を確認するのは初めてだった。
そして、この者達が差し向けられたという事はそこに王の意思が介在しているのを決定付けていた。
活路を見出すのは難しいかも知れない。
影達は決して自分達の考えで行動する事は無い。つまりは彼等を説得するのは不可能というもの。だからといって諦めるつもりは毛頭無いのだが。
影達の動きに警戒しながら、スコルピウスは突破口を見出そうと必死に思考を巡らせる。最悪子供達だけでも逃がせればそれで良い。言葉による状況の打破は不可能で。ならば…
「…やっ!!」
後ろに引かれる感覚とエレフセウスの悲鳴に、スコルピウスは弾かれたように振り返る。エレフセウスを闇の中に引きずり込もうとする存在に、目の奥が赤く染まった。
「気安く触るなぁ!!」
咄嗟にエレフセウスの腕を引き寄せ。怒りに任せてクシポスを振るう。力の加減など考える余裕は無く、相手の腕が吹き飛んだ。
噴き出す血を目の当たりにした子供達の口から劈くような悲鳴が上がる。咄嗟の事で余裕を無くしたスコルピウスは、その声に我に返り子供達の方へと意識が逸れた。その一瞬の動揺と油断。それが命取りとなった。
後頭部に感じた衝撃。と同時に、スコルピウスの視界が急速に狭まっていく。己の意識を奪う目的で振るわれた暴力、だが抗おうとする意思とは裏腹に身体から力が抜けていくのを感じる。
(エレフ…ミーシャ、逃げ……)
意識が落ちきる瞬間、見えた子供達の姿に手を伸ばしたが、その手はとうとう届く事は無かった。
崩れ落ちる身体。手から滑り落ちたクシポスが、鈍い音を立てて地面に転がる。
完全に意識を失い倒れ伏すスコルピウスに縋り、泣き叫ぶ2人の子供。それを囲む者達は無表情にその様子を見下ろしていた。
運命の歯車は、再び軋んだ音を上げ動き出した。
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