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(まさか!?)

 スコルピウスの脳裏を占めたのは、その一言。

 足を動かそうとするも、まるで地面に縫い止められてしまったかのように僅かにも思う通りになる気配はない。だが今のスコルピウスは、そんな事に苛立ちを覚える余裕は無く、視線は唯ひたすらに目の前の光景に釘付けとなっていた。
 驚愕に見開かれた眼差しの先、家の入り口付近では黒の装束を纏った者達がポリュデウケス達を取り囲んでいる。手前にいた男が腕を後ろへと引く、と同時にまるで糸が切れたように崩れ落ちるのポリュデウケスの身体。色の褪めた銅色のヒマティオンは、デルフィナが子供達に手を借りながら染め上げたものだった。森の木々と同じような色合いになったそれをポリュデウケスはいたく気に入ったようで、今朝の見送りの際にも身に纏っていたと記憶していが、何故見慣れたその色は見る影も無く真っ赤に染まっているのだろう。ポリュデウケスの影から現れたデルフィナの表情もまた、驚愕に彩られていて。完全に静止しているスコルピウスとは違い、デルフィナはポリュデウケスの身体を追うように膝を付くと必死にその身体を抱き上げようと腕を伸ばしている。大粒の涙と共に、絶え間なくポリュデウケスの名を呼びながら。
 信じられない、否信じたくない。普段の冷静さはどこへやら、スコルピウスの脳内では相反する二つの思考が混沌と渦巻いていた。最悪の事態を想定していなかった訳では決して無い。寧ろ己の置かれている立場をそれによって生じる不利益を誰よりも理解していたスコルピウスは、いつだって最悪の想定をしていた。だが、実際目の前に広がる情景はスコルピウスに想像以上の衝撃を齎した。
 咄嗟に声を上げなかったのは、本能による自己防衛だった。それが功を奏し未だスコルピウスの存在に気付いている様子はない。それに、スコルピウスが様子を探ろうと覗き込んだのが丁度階段に遮られ死角になっている窓だった事も幸いした。

 どれ位の時間が経ったのか。恐らくはそれほどの時間は経過していないだろうと思われるが、余りの事に脳が上手く働いていなかったようで、酷く長い時間が経ったように感じられた。
 未だデルフィナはポリュデウケスにしがみつく様にして嗚咽を漏らしている。僅かに冷静さを取り戻しかけたスコルピウスの視界の端、デルフィナの前に立つ者がゆっくりと掲げた腕の先、握られた血濡れの凶刃を見止めたスコルピウスは、その段になって漸く我に返った。明らかな意図を持って掲げられたそれを阻もうと、クシポスを手に足に力を入れる。
 これ以上理不尽に奪われるのを許容出来る筈も無い。奴等の気をこちらに向ける為、声を張り上げようとしたその時、ポリュデウケスを見下ろしていたデルフィナの顔が持ち上げられた。不意打ちのようなそれに、スコルピウスは声を出すタイミングを失い、その瞳は再び驚きに張られる事となる。

 目が、合ったように感じた。向こう側からは踏み板に遮られてよく見えないだろうに。だがその僅かな隙間を通し、デルフィナの視線は確かな意志を持ってこちらを見つめていた。頬は涙で濡れ、だがその口元は柔らかな笑みを形作っていて。その微笑みは普段となんら変わりなく、姉のように母のように、自分を見守ってくれていた慈愛に満ちたもので。固まるスコルピウスの視線の先、僅かに動いたデルフィナの口元。唇が、何事かを紡いだ。

「           」

 弾かれたように走り出したスコルピウス。その表情は痛ましげに歪んでいた。それはデルフィナの言葉を聞き取れなかったからではなく、寧ろ何を言っていたのか分かったからこその反応で。最後の言葉は自分だけではなく、子供達に向けた言葉であり、ならば少しでも早く遠くに逃げなければならない。歯を食いしばり、込み上げる激情に耐えながら、デルフィナの言葉に突き動かされるかのように子供達の下へと全力で森の中をひた走る。


 茂みの中息を殺して蹲っていた子供達は、茂みが揺れる音に恐る恐る首を伸ばし、木々の間から覗く見慣れた朱色に安堵の表情を浮かべ立ち上がった。それでも余程不安だったのだろう、隠れているという約束も放り出しまろぶようにスコルピウスの方へと駆け出す。スコルピウスがそんな二人のを見止め速度を緩める。と、

「「にいさま!」」

 軽い衝撃と共に二つの塊が飛び込んでくる。耳障りな己の声を聞きながら視線を落とせば、腰の辺りにもう離さないとばかりにしがみ付く子供達の姿が。
 子供達の心を乱してしまった事に心が痛んだのは一瞬、時間がないとすぐに意識を切り替える。
 スコルピウスは息が入りきらぬ内に子供達の腕を取り、一歩後ろに下がろうとした。それというのも、このままでは話もままならないと思ったからだ。だが、二人とも折角戻って来たスコルピウスが再びどこかへ行ってしまうとでも思ったのか、嫌だと言わんばかりに首を振り頑なに離れようとしない。スコルピウスとて鬼ではない、いつもなら二人の様子が落ち着くまで待つのだが今は非常事態なのだと言い訳をし、乱暴に二人の身体を引き剥がした。驚き目を見開く二人の瞳に僅かな怯えを感じ取るも綺麗に無視し二人を見下ろす。細やかな気配りをしている時間も余裕もないのだ。

 驚きこちらを見つめる二つの視線を感じながら、スコルピウスは何と説明したものかと考えあぐねる。見た事を、ポリュデウケス達の死を、子供達の命を付け狙う者達の存在を包み隠さずに話すのは簡単だったが、子供達がその重圧に耐え切れるとは思えず、もう少し精神的に強くなってからの方が良いのではと思われた。
 それにスコルピウス自身、まだ彼等の死を受け止め切れてはおらず、言葉にしてしまう事が恐ろしかった。そんなスコルピウスの心情を知る筈も無い子供達はただ常には無い事に怯えを抱き、そして思った疑問を素直に口に出した。

「…スーにいさま?」
「とうさまと、かあさま…は?」

 脳裏に甦るのは、床に倒れ付したポリュデウケスとそしてデルフィナの…
 スコルピウスは目頭の熱を振り切るように一度強く頭を振り、せり上がってくる熱い塊を必至に喉の奥へと押し込むと、無言で二人に手を伸ばした。驚く声を耳の端に捉えながら、エレフセウスの身体を肩に担ぎ上げる。次いでアルテミシアの身体を掬い上げるように持ち上げ肩口へ押し付ける。両の手が塞がっている状態ではいざという時の対処に困るという考えはスコルピウスの中には無く、少しでも早く、遠くへ逃げる事で頭がいっぱいだった。

「少し揺れる」

 しっかり掴まっていなさいと、言うが早いかスコルピウスは全力で地を蹴り茂みの中へと身を投じた。訳も分からず悲鳴を上げる子供達を気遣う余裕は無く。ただひたすらに前へ。











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