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 男の言を聞くごとに落ちていった顔を意識的に上げ、ポリュデウケスは思考を切り替えるように呼吸を一つ、真っ直ぐに男の目を見返す。と、男はそんなポリュデウケスの瞳に宿る意思の光に僅かに目を見開き、やがて面白いといわんばかりに笑みを深めた。それが何を意味しているかなど今のポリュデウケスにはどうでもいい事で。今重要なのは大切な家族を守る事、ただそれだけなのだから。

 王に捧げた忠誠は本物であり、これから先も王以外に膝を折ることはないだろう。自分の浅はかな行動が王の不審へと繋がった事も、今まで築いてきた絆を断ち切る結果となった事も最早どうにもならぬものであり。ならば、それを弁明するよりもやらなければならないのは、たとえ裏切りの意志を自ら明確にする事に繋がると知っていても曲げられぬ大切な者達への想い、己の中に唯一つ残ったその意志を貫き通す事ではないだろうか。脳裏に浮かぶのは、数刻前いつものように連れ立って森へと向かった大切な子供達の背中。喜色満面な二人の子供に手を引かれ、笑いさえしなかったが当たり前のように付いて行く青年の姿にデルフィナと二人微笑みを交わしたのが随分前のように感じられる。高かった日は傾き始めており、いつもならもう帰って来ても良い頃合。この包囲を掻い潜り知らせに走る事は不可能であり、何より家の中にはデルフィナがいる。見捨てて逃げる選択肢は端から無かった。

「王の命に逆らうのか?」

 これ見よがしな言に男のいやらしさが垣間見えるようで、ポリュデウケスは嫌悪に歪みそうな表情を意志の力で押し止め、無理やり口元を引き上げた。

「貴方が本当に王の勅命を受けているのか、私には判断が付きません。なれば、私が優先すべきと思う事をするまでです」

 これが男の独断ではない事は知っていて、ポリュデウケスは敢えて知らぬ振りをした。何の意味も無いと知っていながら、それでも己を奮い立たせるように胸を張る。
 そんなポリュデウケスの虚勢に、男の顔から先ほどから常に浮かべていた笑顔が消える。頑として譲らないポリュデウケスの態度が気に入らなかったのだろう。忌々しそうに表情を歪めあからさまに舌打ちをすると、目を眇めた。

「だからお主は愚かだと言うのだ。その所為で儂がわざわざこんな所まで来る羽目になったのだからな。まったく、大事な駒を連れて行きよって」

 吐き捨てる男にポリュデウケスは僅かに眉を顰めた。
 ポリュデウケスの行動が男のどんな思惑を狂わせたというのか。その口ぶりからして男にとってそれなりに重要なものをポリュデウケスが持ち去ったのだという。だが、あの時殆ど身一つと言っても過言ではない状態で出奔したのだ。何かを持ち出す余裕はなかった筈。
 一体何に対して男はそう言うのか、そこまで考えたポリュデウケスの脳裏に閃いた可能性。あの時突発的に取った手。幼い頃から人間の汚さを見せ付けられ続け、歪んでしまった輝き。それでも森での暮らしの中徐々にではあったが人間らしい感情を見せてくれるようになった。大切な家族の一員。

「っ!?まさか…」

 ポリュデウケスが気付いた事に、男は再び笑みを浮かべその通りだというように頷いた。

「お主は甘い。儂ならば、もっと有効的に奴を使って見せようぞ」
「使う、だと?」

 自分の理想に酔っているのか、恍惚とした表情でその考えを語る男に、ポリュデウケスは込み上げる怒り―否、これはもう憎悪と言っても良いかも知れない―を隠す事なく睨み付ける。強く噛み締めた所為か口の中に鉄の味が広がるが、そんな事は全く気にならない。
 そんなポリュデウケスに、だが男は自分の勝利を確信しているのか、どこ吹く風というように全く相手にしていないようだった。

「くくく…。そう、何の価値も無い堕ちた王族に儂がわざわざ光を当ててやろうと言うのだ。寧ろ感謝して貰いたい位だよ」

 目の前が真っ赤に染まる。きつく握り締めた拳は血の気を失って白く、怒りに触発され頭に血が上った所為か眩暈までしてくる始末だ。
 これまで目の前の男には何度も辛酸を舐めさせられてきたが、それがどれほど取るに足らないものであったのかを思い知らされた気分だった。
 今にも斬り込んで来そうなポリュデウケスがどうあっても考えを改める気は無いと悟った男は、つまらなそうに息を吐く。
 男の中にほんの僅か、その腕を惜しむ気持ちがあったのは事実だったが、思い通りに動かない駒などいつ足元を掬われるかも知れない。となれば切り捨てる事に躊躇いは無い。ポリュデウケスは揺らがない、ならば邪魔でしかないのだから。

「これ以上は時間の無駄というもの。儂とて暇ではないのでな、そろそろ手打ちとしようか」

 言うが早いか男の手が持ち上げられ、あっさりと横に振られる。と同時にポリュデウケスを囲む気配に変化が生じた。
 それまで息を潜めてこちらを窺うだけだった複数の獣が、唐突にその姿を現した。暗殺では無いのだから姿を隠す必要は無いという事なのか、皆一様に武器を手にポリュデウケスと対峙している。戦場の方がいくらかましのようにも思えるその状況に、手に込めた力は如何ほどか。血の気を失うほど握り締めたクシポスの柄は、ポリュデウケスの熱が移り生温かくなっていた。
 ポリュデウケスは、己と対峙している者達の顔を視線のみで確認する。数にして五人、その約半数に見覚えがあった。感情をそぎ落としたような表情からは、相手の内面を窺い見る事など不可能で。こうして目の前に立たれているというのに、目を閉じてしまえば彼等の存在を感じるのも難しい程にその気配は希薄であった。まるで己のみがそこに在るような錯覚を覚える程に、極限まで潜められた気配。正に生きた人形になったかのようなそれこそが、彼等を王の影足らしめるのだ。
 緊張か、はたまた恐怖か。鳴る喉の音が己の中、やけに大きく響く。彼等を退ける事が出来れば、ある程度の時間は稼げる筈。だが、己が生き残れる可能性が限りなく低いと感じるほどには、彼等の存在を知り過ぎていて。それでも諦めるわけにはいかなかった。
 不意に対峙している者達の姿が揺らぐ。音も無く動き出した彼等を油断無く見つめるポリュデウケスに対し、牙を露にした獣達が一斉に襲い掛かった。


 おりから起こる剣戟の響きが、本来ならありえぬ大きさで森の中に響く。剣を弾かれたポリュデウケスは、追撃を警戒するように半歩後ろへ。すると、次の瞬間ポリュデウケスの身体があった場所を音を立てて通り過ぎる鈍色の輝き。ポリュデウケスの動きがあと僅かでも遅ければ、確実に捉えられていただろう。全く淀みの無い動きに、ポリュデウケスの背中を伝う汗。嘗ての同胞とも言える者達は今やポリュデウケスを排除すべき敵と認識しており、そこに一切の情は無い。そして、それこそが王の影として求められる資質の一つだった。
 誰がどう見ても無謀としか思えぬ一撃は、やはりあっさりと弾かれる。だが防がれる事を想定していたポリュデウケスに、動じる様子は見られない。

 僅かに逸らした視線の先、口元に薄く笑みを刷き悠然と佇みポリュデウケス達を眺める男の首を跳ね上げる事が出来たのならばどれ程胸が空く事だろう。だが、実際のところそんな余裕などある筈も無く。防戦一方の彼に勝機を見出す事は難しい。
 ポリュデウケスはそれが己の疲労へと繋がる事を知りながら、何度も同じ事を繰り返す。傍目には軽挙妄動と取られている事など百も承知で何度も飛び込み、弾かれては下がる。何の考えも無いままにただ悪戯に体力を消耗させるポリュデウケスに、男は内心呆れているのだろう。だが、そこに何よりも意味を持たせているポリュデウケスにとって男の心情などどうでも良かった。
 そんな余裕は無いと自覚していながら、時折男達から視線を逸らす。その先にあるのはポリュデウケスの置かれた状況など知らぬというように、いつも通りの姿を晒す森の姿。だが、ポリュデウケスが気にしているのは森の中連れ立って分け入った三人の事。勘の良いスコルピウスなら、この音を耳にすれば何が起こっているのかを察し逃げてくれるだろう。それは期待ではなく確信。スコルピウスがいつも不測の事態を想定している事は知っていたから。
 結局宮殿での生活があったからこそ、スコルピウスがいつでも警戒心を忘れないようになったのだ。この状況においてそれは大いに役立つ事とはいえ、彼の置かれていた状況を知る身としては皮肉としか思えない。

 危機的状況にありながらそんな事を考えていた所為なのだろう。対峙する人数が足りない事に気付くのが一瞬遅れた。
 嫌な予感に襲い来る凶刃を身を低くしながらかわす。その体勢のままクシポスを振り上げ別の刃を弾き飛ばすと、牽制するように振り下ろしながら後ろに下がり、体勢を立て直す。クシポスを構え直しながら視線を彷徨わせれば、目当ての姿が離れた位置、家の扉の前に見えた。
 ポリュデウケスの表情に焦りの色が浮かぶ。何故なら、扉の向こうには戦う術を持たないデルフィナがいて。彼等の目当てが何なのかは明白だ。
 ポリュデウケスは、弾かれたように走り出した。形振りなど構ってはいられず、心を占めるのはただ愛しい人の存在、それだけだった。



 目の前で光が弾けた。と同時に、熱した鉄の棒を押し当てられたような痛みが腹部を襲う。ポリュデウケスの腕の中、耳を劈くような悲鳴を上げるデルフィナ。腕の中の温もりが失われていない事の安堵感に、ポリュデウケスの口元が僅かに緩む。
 急速に失われていく血の所為か、震える身体から徐々に感覚が無くなっていく。
 狂ったようにポリュデウケスの名を呼ぶデルフィナの背を、あやすように撫で、その耳元にそっと言葉を乗せる。と、それを最後にポリュデウケスの視界が暗転した。


 崩れ落ちるポリュデウケスの身体。抱きとめられずに膝を付いたデルフィナは、涙に濡れた瞳でポリュデウケスを見つめながら、震える腕を精一杯伸ばしてその身体を抱き締める。嗚咽交じりの声は、何度もポリュデウケスの名を呼んでいて。
 そんなデルフィナの背後で振り上げられたのは、数瞬前にポリュデウケスの命を摘み取った凶刃。その音を聞きつけたのか、デルフィナは僅かに身じろぐと、ゆっくりと身体を起こした。ポリュデウケスの顔を見下ろしながら、まだ温もりの残る頬に指を滑らせる。
 何度かそれを繰り返した後、顔を上げたデルフィナの顔には、涙の残滓こそ見受けられるものの、その瞳から新たな雫が零れる様子はない。どころか、柔らかな笑みすら浮かべていた。
 それはいつも子供達に対して浮かべていたものと同様のもので、まるで目の前に彼等がいるかのようだ。
 その唇が僅かに動き、零れた声は囁きよりも尚小さく。

「          」


 折り重なるように倒れる男女の傍ら、佇む影はただ無情にそれを見下ろしていた。











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