一筋の瑩
深い深い井戸の底。見上げた先に見えたのは、中天に輝く銀色の光を放つ月。
冷たい光が遥か彼方にあるこの場所にまで差しこんでいた。
男はそんな月の姿を、暫しの間微動せずに見上げている。
その表情には恐怖も怒りも、況してや喜びなど欠片も見出す事は叶わず。また月も、そんな男の姿をただ冴え冴えと浮かび上がらせているだけだった。
男の耳に僅かな音が聞こえてくる。それは極々小さなオト。
悲鳴にも笑い声にも、風の音にも聞こえるその音は、しかし一瞬後にはまるで最初からなかったように消え去ってしまう。
後に残ったのは相変わらずの静寂。そして銀色の光。
男の腕の中、抱かれていた人形がかたりと音をたてた。
男はその音に引き寄せられるように視線を腕の中へと落とす。と、いつもは開かれている両の瞳が閉じられていた。
「……」
男の口から囁く様に漏れ出た声。それは彼の半身ともいえる人形の名。
しかし、いくら待てども人形から返事が返ってくる事は無く、それどころかまるで普通の人形になってしまったかのように、ぴくりとも動く事はなかった。男の表情が僅かに色を変えた。
それは細やかな変化であったが、普段余り表情を変えない事を鑑みるに、酷く困惑しているのは明白で。
男の唇が僅かに動く。空気と共に吐き出されたのは、先程と同じオト。だが、やはり 人形は僅かにも反応する事はなく…
男はそれ以上何も言わず、ただ腕の中の人形を見つめ、そこに在った。
不意に何かに引き寄せられるように、男の視線が頭上へと向けられる。
そこには数刻前と変わらない光景が。否、何かが違う。男の中の何かがそう訴えていた。
男は人形をその腕に抱いたまま、そこから『出る』べく動き出した。
久方ぶりに訪れた森は、変わらぬ闇を内包して男を迎えた。
黒く塗りつぶされた木々は、時折受ける月の光に僅かにその姿を晒している。闇の中に点々と浮かぶ血色の野薔薇は、いつの間にかその数を増やし、今では完全に井戸を囲っていた。
男にとって見慣れた、だが久しぶりに見る光景。
見た限り、常と変わらぬ沈黙を保ったその姿に、だがふと感じた違和感に、男の眉間に皺が寄る。
どこが、と問われたところで明確な答えなど出せる筈も無いのだが、確かに何かがおかしい。否、おかしいと言うのは語弊があるかもしれない。しかし、何かが違っていた。
男は違和感の正体を掴めぬまま、腕の中へと視線を落とした。
余りしゃべらない男と違い、普段の彼女は饒舌だった。それなのに、今はその力強い意識の輝きがまったく感じられない。
男の眼差しに困惑の色が浮かぶ。無理も無い、彼は今までの長いようで短い時間、常に彼女と共に在ったのだから。
目覚めた瞬間から傍らにあったその存在が、突然曖昧なものになってしまった感覚に、彼の中に湧き上がる感情。それは寂寥か、それとも別の何かなのか。男自身、その 答えを明確に表現する事が出来なかった。
その時、強く鋭い風が男と人形へと吹き付ける。
男は咄嗟に風から人形を庇うように抱え込んで目を閉じた。耳元を唸りながら通る風の発する鋭い音は、まるで怒りを抱いているかのようで。
一過性のものであった風が止み、男は再び瞼を上げ、そして息を呑んだ。
最初に目に飛び込んできたのは―――白。
酷く眩しいその光に、男の瞳が眇められる。じんわりと痛む眼球に、男は瞼を下ろす事で痛みをやり過ごした。
漸く痛みの引いた瞼を押し上げ、男は再び眼下へと視線を向け、愕然とした。
男に痛みを与えた正体は、井戸を囲むように咲く真っ白な野薔薇。光の届かない森の中にあって尚光を放つその姿に、男は瞬きすら忘れ、魅入られたように立ち尽くしていた。
どれ位の時間、そうしていただろうか。
どこからかやってきた一陣の風が男の髪を悪戯に乱す。と、同時に男の脳裏に閃くものがあった。
それは極僅かな記憶の欠片。一瞬の内に流れ、消えてしまうそれを男は無意識の内に手繰り寄せた。
次第にはっきりとしてくる記憶、それは…
突然の記憶の奔流に、男は殴られたような痛みを感じて頭を抱え、膝を折った。男の手から落ちた人形のたてる音が、静かな森の中、やけに大きく響く。
男と人形の動きに、足元に咲いていた野薔薇の花弁が散り、風に抱かれて舞い上がる。
男は苦痛に顔を歪めながら、それでもその光景から目を離そうとせず、否離す事が出来なかったのだ。何故なら、男はこの野薔薇を、それに連なる記憶を確かに持っていたから。
己が自らの手で唯一ともいえる友の髪に飾った記憶が、その時の彼女の微笑が、まざまざと脳裏に甦ってくる。
次々に甦ってくる思い出の断片。それと共に酷くなってくる痛みに、まるで記憶が甦るのを阻止するかのようなそれに、限界を迎えた男の身体が野薔薇の海に沈む。
「…エリー…ゼ……」
倒れた衝撃で散った花弁が風に乗り、男の周りで踊っているかのようで。意識が朦朧とする中、舞い上がる白を追っていた男の口から零れ落ちたオト。それと共に胸の内に湧き上がる温もりに、男の唇が無意識に弧を描いた。
しかし、意識を保っていられたのは、そこまでだった。
ゆっくりと落ちる瞼の向こう、現れた気配は男を見つめ、しかし彼がそれに気付く事はなかった。
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