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 カシャカシャという音がこだまする中、その音の発生源となっている人物は、ただひたすらに己の手元を見つめ続けている。
 一向に理想の状態になってくれない事に感じるのは怒りではなく、己への不甲斐なさ。これが仕上げにおいてどれだけ重要な位置を占めるのかは考えるまでもない事で。故に表情には焦りの色が浮かび始めていた。

「おーい、ミーシャ」

 余程夢中になっていたらしい。声をかけられて初めて傍に人がいる事に気が付いた。驚きに跳ねる肩。その拍子に、手の中の物が滑り落ちそうになる。が、間一髪横から伸びてきた手がそれを受け止め事なきを得た。

「あ、ありがとう」

 心臓が早鐘を打つ中、驚きに固まった舌でそれでも礼の言葉を口に出せば、助け手となった相手は申し訳なさそうに表情を曇らせる。

「いや、かえって俺が声をかけなけりゃ良かったんだよな」

 ごめんな、と眉を下げるのに対し、アルテミシアは慌てて首を振る。

「そんな、オリオンのせいじゃないわ!私が気を付けてなかったのがいけないんだもの」

 第一、生クリーム一つ満足に泡立てられない自分が悪いのであり、他の者であったならこうはならなかった筈だ。今はオリオンの手の中にあるそれを見つめ、アルテミシアは唇を噛んだ。
 そんな風に考えている内に、どんどん思考は暗い方へと流れて行く。そうだ、双子の兄とは違いどんなに努力してもどうしても上手くなってくれない料理の腕は、こんな簡単な事すら満足に出来ないのだ。ああ、本当にいつになったら人並みにこなせる様になるのだろう。
 己の思考の淵に沈んでしまったアルテミシアの傍らで、いっかな動こうとしない彼女にどう声をかけて良いのか分からず所在無げに立っていたオリオンは、余程手持ち無沙汰だったのだろう。溜息を一つ、手の中にあるボウルの中身を泡立て器で掻き回し始めた。すると、アルテミシアがどんなに頑張っても中々固まってくれなかった生クリームは、あっという間に滑らかな固まりとなり、オリオンが持ち上げた泡立て器の先には見事な角が出来ていた。しかもほんの数十秒でそれを成したオリオンは、疲れも見せず涼しい顔をしている。
 あっという間に終わってしまった作業をつぶさに見てしまったアルテミシアは、表情を曇らせて視線を逸らした。趣味の域を越えた兄の腕前といい、大抵の事は出来るオリオンといい。どうして自分の周りにはこう器用な人間が多いのか。
 完全に深みに嵌ってしまったアルテミシアの様子に、その原因の一端を握っているオリオンはそんなアルテミシアの心情を察し何ともばつの悪い思いをしながら、それでも放っておく事など出来る筈も無く。傍にあったテーブルの上にボウルを置くと、改めてアルテミシアに向き直った。

「なあミーシャ。悪かったな、仕事取っちゃってさ」
「…そんな事、ないわ。寧ろ私なんかがやるよりよっぽど早いもの。かえって助かったくらいよ」

 何でもない風を装ったつもりだが、どうしても俯き加減になってしまう。素っ気無い返事をしてしまったのは自覚していたが、一度口にしてしまったものを取り消す事は出来ず、結果益々視線は床へと落ちる。
 幼なじみでもあるオリオンには、自分が料理を苦手としている事など疾うに知れている。そんなに浅い付き合いではないし、事実兄のエレフセウスとは親友と呼べる間柄で。だから今更なのだと、そう自分に言い聞かせているのに一向に気分は晴れる事は無く。胸中に渦巻くやり切れない想い。オリオンは優しいからどんなに失敗した、それがたとえ自分でも食べられないような物だって食べてくれるけれど。それが果たして美味しいかと言えば、決してそうではない事は作っている自身だからこそ痛いほど分かっている。
 いつか心から美味しいと思えるような料理を作って食べてもらいたいという思いは強く持っているけれど。現実は厳しくて、今のところその願いが叶えられる見込みは無い。努力をすれば報われるというけれど、それだけでは駄目なものがある事実に湧き上がる悲しみは、益々アルテミシアの心に重く圧し掛かってくるのだった。

 一方、半ば八つ当たりのような言葉を投げられたにも拘らず、オリオンの眼差しに不快な色は無い。ただアルテミシアの隠し切れない思いを肌で感じ、己の軽はずみな行動を悔やむばかりだった。
 彼女は、料理の事に関してもそうだが、自分が不器用であることをまるで罪のように感じている節がある。だがオリオンとしては、そんなところも可愛いと思っていて。それにアルテミシアが自分の為に作ってくれるものを不味いと感じた事は一度もなかった。それはオリオンの味覚云々の話ではなく、ただ自分の大切に想う娘が他の誰でもなく自分の為に作ってくれたのだという事が重要だった。アルテミシアはオリオンが無理をしていると言うけれど、そんな事は無く。美味しいと思うのは、間違いなく本心だった。それだけかの存在がオリオンにとって特別なのだから。
 だがエレフセウスでさえ気付いているというのに、当のアルテミシアだけがそれを知らないのは己が彼女の中でそこまで特別な位置に無い証明のような気がして、そこまで深く聞く事は出来ずにいたのだが…
 どこか重苦しい雰囲気が辺りに漂い始め、自らも暗い思考に傾きかけていたのだと気付いたオリオンは、暗い思考を振り切るように頭を振る。と、その拍子に視界に入ったアルテミシアの横顔に見慣れぬものが付いていて。オリオンは教えようと口を開きかけ、暫しの逡巡の後そのまま口を閉ざす。何を思い付いたのか、その瞳に悪戯っ子のような光を宿しながら、アルテミシアを見つめて口元を引き上げた。


 軽く何かが頬を掠めたような気がして、アルテミシアは驚いて顔を上げた。するとそこには自分とは違う、しっかりとした骨格をした長い指が。その先には固まりきっていない生クリームが付いていて。

「え?」

 呆けたように漏れる声。そんなアルテミシアを余所に、オリオンは指に付いたそれをぺろりと舐めるとおどけた様に片目を瞑って見せた。それが自分の頬に付いていたものだという事に気付いた途端、音を立てて頬が染まる。今まで気付かなかった事よりも、オリオンが取った行動が恥ずかしくて仕方がなかった。どうしてこんな事を自然に出来るのか。慣れてない自分は咄嗟に冗談めかす事もさらりと流す事も出来ずに固まっているというのに、オリオンは何でもない事のように振る舞い、そこには羞恥の欠片も無い様で。
 何だかそれが悔しくて、アルテミシアは上目使いでオリオンを睨む。と、効果があったのかオリオンは僅かに怯んだようだ。その事に気を良くしたアルテミシアは、そこで漸く先程まで渦巻いていた暗澹たる気持ちが払拭されている事に気が付いた。そして、オリオンがわざとそれを狙っていたという事に。
 また気を使わせてしまったのだと何事か言わなければと思うものの、中々どうして上手い言葉が思い浮かばない。

「さて、じゃあ飾りしちゃおうか。どうする?手伝うか?」

 一瞬前までの雰囲気などどこへやら、上に伸び上がりながら快活に笑うオリオンは返事を待つように小首を傾げる。何でもないその様子を見ていると、うじうじ考えていた自分が馬鹿みたいだ。

「じゃあ、お願い」
「他ならぬミーシャの頼みとあらば、喜んで」

 わざとふてくされた様に言えば、おどけた仕草で腰を折るオリオン。それが何だかおかしくて、アルテミシアは声を上げて笑う。先程までの気持ちなど嘘のように、胸の中には暗い気持ちは無く。ただ楽しさとはまた別の熱を感じながら。











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