料理は迅速かつ慎重に






6月某日、とある城の厨房にて…


 一瞬の油断が招いた失態。あっ、と思った時にはもう遅い。手から滑り落ちたそれは、重力に逆らう事無く真っ直ぐに落ちていく。反射的に延ばされた手は届かず、ただ空しく宙を掻くのみで。数瞬の後、けたたましい音と共に粉々になった白い破片が床へと散らばった。

「っ…!?」

 散乱する破片を見つめる彼女の表情は悲痛に満ちていて。己の犯した失態にただ言葉も無く立ち尽くしている。

「どうしたの?エリーザベト」
「まあ、お皿を落としてしまいましたのね。お怪我はありませんか?」

 少女二人がその音を聞きつけて傍らへとやって来ると、エリーザベトと皿を交互に見ながら声をかけてきた。エリーザベトはその声に我に返り弾かれた様に顔を上げ、途端ぶつかった二つの眼差しに、そこに浮かぶ心配の色に慌てて首を振る。

「私は大丈夫。でも…」

 言葉が尻すぼみになり、眼差しは再び床へと落ちる。あんなに気を付けていたのに、と口元から零れ落ちた声はただひたすらに己の失態を嘆いていた。料理など生まれてこの方した事がなく。それでも、誰よりも尊敬するあの方の為にと張り切ったのがいけなかったのか。こんな事になるくらいなら大人しくしていれば良かったのだ。胸中に渦巻く後悔の念は容易く拭う事は出来そうになくて、エリーザベトは己の浅はかさに悔しげに唇を噛んだ。きっと二人も内心は呆れているに違いない。こんな事なら普段から少しぐらい料理をしていれば良かった、と嘆くエリーザベト。しかし、いくら料理が出来たところで皿を割るのは別である事に彼女は気付いていなかった。
 対する二人の少女、ライラとヴィオレットは、そんなエリーザベトの胸中など露知らず、まるで怪我をしているかのように表情を曇らせる様子に心配そうに眉を顰め、俯くエリーザベトの顔を覗き込んだ。

「ねえ、ホントに大丈夫?ヴィオちゃん、一応救急箱持ってきてくれない?」
「あ、はい。そうですね―――」
「あ、ち、違うの!本当にケガは無いの。ただ…」

 戸棚へと向かうヴィオレットを制し、エリーザベトは顔を上げる。だが、心配そうにこちらを見る二人の視線とぶつかり表情を歪めた。

「私が出しゃばったばかりに、大事なお皿を割ってしまって。それが、申し訳なくて」

 ごめんなさい、と頭を下げるエリーザベト。しかし、謝られた当の二人は驚いたように顔を見合わせ、すぐにあっけらかんと首を振る。

「何だ、そんな事気にしてたの?」
「え!?」

 何の含みも無い声に、エリーザベトは弾かれたように顔を上げ目を瞬いた。呆然とするエリーザベトに、ヴィオレットは慰めるようにその手を取る。

「そうですわ。たかがお皿一枚ではありませんか。ムシュー・イヴェールなどその日使う食器に困る程でしたのよ」
「へえ、ヴィオちゃんのご主人様も不器用なんだ。うちのシャイターンも食器棚ごとひっくり返しちゃった事あるよ」
「まあ、そんな事が?」
「手伝ってくれようとしたのは分かるけど、流石にあれにはびっくりしちゃった」

 肩を竦めて苦笑するライラと、口元に手を当て笑うヴィオレット。そして、その話の中に出てくる人物達の破天荒な行動に、エリーザベトの表情も自然と和らぎ、口元にはいつの間にか笑みが浮かんでいた。やがて、その口元から鈴を転がすような笑い声が漏れた。
 その声を聞きつけたライラがにんまりと口元を引き上げてエリーザベトを見る。

「ね、そんな事、でしょう?だからあんまり気にする事ないのよ」

 ヴィオレットと頷き合い、エリーザベトの肩を軽く叩く。二人のお陰で随分と気持ちが軽くなったエリーザベトは、はにかみながら顎を引いた。

「では、片付けて料理の続きをいたしましょうか」

 ヴィオレットが意識を切り替えるように言うと、壊れた皿を拾うべくライラと共に腰を屈めた。エリーザベトは慌てて二人に制止をかけると一人膝を折る。

「片付けるくらいは一人でも出来るから大丈夫よ」

 これ以上心配をかけまいと、気遣わしげな二人の眼差しに笑顔で頷いて見せた。するとその笑顔に安心したのか途中だった自分達の仕事に戻っていく二人を見送ったエリーザベトは、深呼吸を一つ。ここで怪我をしては本末転倒と慎重な手つきで破片を拾っていく。粗方の大きな物を拾い終えると、今度は箒で残った細かい破片を集め、塵取りに乗せて捨てに行く。
 今度は失敗する事無くやり遂げたエリーザベトは、使った道具を片付けほっと一息。と、視線の先に見慣れぬ箱を見付けた。

「何かしら?」

 それは一抱えもある蓋付きの箱。誰もその存在に気付いていないのか、テーブルの下にぽつんと置き去りになっていて。その様子が、まるで所在無げに見えたエリーザベトは釣られるように近寄ると、屈み込んで蓋に手をかける。
 何の抵抗も無く持ち上げられた蓋を持ったまま視線を落とせば、箱の中身が目に止まる。それは、あまり使われていないと思われる銀食器だった。一つ一つ丁寧に磨かれたそれは一点の曇りもなく。箱の中、整然と並べられていた。特別な日にのみ使われるそれは今日という何事にも変えがたい日の為に用意されたに違いない。だが、これはこちらにあるべきものでは無かった筈だ。

「ライラちゃん、ヴィオレットちゃん」

 確かめようと顔を上げれば、呼ばれた二人はすぐさま反応しエリーザベトの元へとやって来る。そんな二人に箱の中身を示せば、それを認めた途端二人は表情を変えた。どうやらエリーザベトの認識は間違ってはいないようだ。

「あらら、誰よ間違ったの」
「セッティングの方で必要ですのに、困りましたわね」

 唇を尖らせるライラと、表情を曇らせるヴィオレット。それもそうだ、本来ならこれを必要としているのは厨房ではなく会場の用意をしている者達の方なのだから。今頃きっと困っているに違いない。

「あ、ちょっと―――」
「じゃあ私が持って行くわ」

 傍を通りかかった男手に運搬を頼もうと声をかけたライラの声を遮るエリーザベトの瞳には、決意の光が宿っていた。
 そして、そんなエリーザベトを驚いたように見つめる二人を尻目に、蓋をまた元のように被せると箱の両側面に付いた取っ手を掴み立ち上がる。

「届けたらすぐに戻って来るから」

 二人が驚きに目を見開いて固まっているのに気付かずに、エリーザベトは実に柔らかな笑みを浮かべて踵を返した。その表情に苦痛の色は見られず、いつもと全く変わらぬ様子で足取りも軽く厨房を出て行く。
 そんなエリーザベトの後姿を見送る二人は、その姿が完全に見えなくなるまで信じられないような眼差しを注いでいた。

「ねえ、あの箱って…」
「はい、相当…」

 人数分と予備の分。合わせて相当数の銀食器が詰められたその箱は、とてもではないが女性一人で運べる物ではない。だが、男性でも運ぶのに苦労するであろうそれを難なく持ち上げ運んで行ったエリーザベト。驚くのも無理からぬその行動に、正気に戻るまで暫しの時間を要したのは言うまでもない。











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