馬鹿みたいに幸せな






 森の中に響く笑い声は、まるで木々に宿る妖精達の戯れのように。それ自体が光を放っているのではと錯覚を覚える程に、無垢で汚れのないものだと感じられた。
 スコルピウスは、駆け出した二人の姿を視界に入れ付かず離れずの距離を保ちながら、道なき道を分け入って森の奥へと進んで行くその後姿―正確には先頭を行くアルテミシアと、手を引かれつんのめる様に付いて行くエレフセウス―を追いかけていた。
 眉間に寄るのは、不機嫌の象徴のような皺。だが、今ではそれに心配という別の意味が込められている事に、それを浮かべている彼以外の者は気付いていた。少しずつ、だが確実にスコルピウスの中に戻り始めていた情。今やそこに、常に周りを拒絶していた姿は見られない。

 元々スコルピウスは薄情では無いかったが、守る為に敢えてそう有るべきと己に課している部分があった。それは、守るべきと定めた者達へ害が及ぶ事を無意識に恐れていたからに他ならない。己の立場の危うさを誰よりも自覚していたスコルピウスは、自分と親しくなる事が相手にとって何の益にもなら無いどころか、下手をするとその命までも危険に晒される可能性が高い事を知っていた。それほどに、王宮内でのスコルピウスの立場は細い糸の上を歩いているような危ういものだったのだ。唯一の例外がポリュデウケスであったが、それだとて当の彼が他ならぬ王の側近であり、王が信を寄せる相手であった事。また武勇にも優れ、一騎当千の戦士と目されるような人物だった為、そう簡単に危険な立場に追いやられる事も無いだろうと、そこまで考えていたからだ。そんな風に日々神経を尖らせていたスコルピウスは、王宮を出て初めて己の心のままに在る事に足元の定まらない思いがあったのは否めない事実。今まで囲いの中にあった者が急に自由を差し出されたところで戸惑いが生まれるのは当然の事。身の置き所の無かったスコルピウスの傍に半分とはいえ確かに血の繋がった彼等の存在があった事は、彼ににとって僥倖であったと言っても過言ではなかった。こう言っては身も蓋も無いのだが、二人はスコルピウスと同じ在ってはならぬ者だった。同じ男を父に持ち、神託という絶対的な力で殺されようとしていた二つの命。生きる事すら赦されざる、哀れな幼子達。
 世界に拒絶された彼等は、だが確かにスコルピウス救いとなった。
 二人に大事がないようにと見守るその姿に、昔の彼を知る者なら目を剥くほど驚くに違いない。
 擬似にも等しい家族との生活は、確かに彼の中の何かを変えたようだ。


 放っておくと、どこまでも森の奥へと突き進んで行く双子を上手く制御するのは、存外大変な事だった。
 アルテミシアは、今は隠された身であるとはいえ一国の王女であるのは否めない事実。これから先彼女自身がその事実を知る事は無いにしろ、あの正妃の血を継いでいるのだから、もう少しおしとやかであってもいい筈なのに、興味を引かれるものが目に入れば、後先の事など考えず片割れを巻き込んでどこへだろうと突き進んで行く。森の色には無い珍しい髪色を持つからこそ多少離れても見付けられるとは言え、怪我でもしては大変とスコルピウスは内心気が気ではない。
 一方、双子の兄である筈のエレフセウスは、男子とはかくも弱い存在であったのだろうかと首を傾げずにはいられない程、よく泣く。アルテミシアにからかわれる度、盛り上がる水の膜はもう既に見慣れたもので。それを個性と認めるよりも、些か将来が心配になってしまうのは仕方のない事ではないだろうか。
 己の幼少期を思い返してみても、そこまで頻繁に涙を流す事は無かった。それどころか、人前でそのように感情を露にした経験が皆無といっても良い。育った環境が悪かったとは言え、周囲からすれば全く可愛げのない子供だった事だろう。
 逸れそうになる思考を引き戻し、じゃれあう子犬のようにころころと戯れる双子に目をやれば、アルテミシアがどこからか見つけた木の枝を振り回している。幸いにも繋いだ手とは反対側なのでエレフセウスに当たる心配は少なかったが、転びでもしたらどうなるか分からない。スコルピウスははしゃぐ二人へと歩み寄り、枝を持ったアルテミシアの手をそっと押さえる。

「ミーシャ。顔にでも当たれば怪我をしてしまう」

 離しなさい。と優しく手から枝を奪う。女の子なのだからという言葉は使わない。それは双子故の事なのか、男女の別をこの二人が酷く厭うている事を知っていたからだ。
 手にした枝を細かく折り、遠くへと投げる。再びアルテミシアが手にするようなら本末転倒というもので。完全に無いともいえない可能性を考慮した行動を終え再び二人へと視線を戻せば、別の楽しみを見つけて遊びを再開していると思われた彼等は、きらきらと瞳を輝かせてスコルピウスを見上げている。どうやら二人は、スコルピウスの何かに興味を惹かれているらしい。

「どうした?」

 何か言いたい事があるのだろうかと腰を折り、上体を屈めるようにして目線を合わせれば、二人はより一層嬉しそうに笑みを深める。だが、スコルピウスとしてはその理由に思い当たる節など無く。不可思議な思いを表情に乗せ、首を傾げる事しか出来ない。
 そんなスコルピウスの困惑を余所に二人は何度かちらちらと視線を交わしていたが、その内アルテミシアがまるで重大な秘密を話すかのように口元に手を当て、スコルピウスの方へと身を寄せる。そして、

「スーにいさま、とうさまみたい」
「なっ」

 思っても見ない言葉に固まるスコルピウスを余所に、2人はその発見が余程嬉しかったのか、顔を寄せ合いくすくすと笑っている。

「だって、とうさまとそっくりよ。ね、エレフ」
「うん、おなじだった」

 楽しそうに頷き合う二人に、しかしスコルピウスは咄嗟に声が出てこない。
 二人の言う「とうさま」とは勿論ポリュデウケスの事であり、本当の父親の事ではないのは重々承知で。しかし元より血の繋がりなど皆無なのを知っているだけに、似てるといわれたところで素直にそれを飲み込む事が出来ない。だが、まだ穢れを知らない純粋なこの子らが嘘を言うとも思えず、スコルピウスは混乱した思考のまま、呆けたように口を開いた。

「そうか、似ているか…」

 漸く返って来た反応に、二人は視線をスコルピウスへと向ける。そして、おしゃまなアルテミシアが得意げに胸を逸らした。

「そうよ、おやこがにるのはヒツゼンなのよ」

 どこで覚えてきたのか。きらきらと目を輝かせ、ませた口調で言い切るアルテミシアと、その隣で意味が分かっているのか同意を示すように何度も頷くエレフセウス。スコルピウスはそんな二人を前に、胸の中湧き上がってきたものに自らの口元が綻ぶのを感じる。
 スコルピウスは、己があの王宮の中でどんなに足掻いても手に入れる事の出来なかったものが今はこんなにも近くにある事に、言いようの無い喜びを感じていた。悪意と言う闇に身を浸し、それを許容せざるを得ない己に嫌忌を抱きながら、微かな希望すら抱く事を禁じていた毎日。それでも信頼できる者がいたからこそ人としての自分を失わずにいられたが、そうでなければどうなっていたか。生きながらにして死んでいたのだろう事は容易に想像がつく。
 スコルピウスにとって、ポリュデウケスは命の恩人と言っても過言ではない。だがそんな簡単な一言では済まされない、言葉では到底言い表せぬほどの恩義を感じる相手だった。あの王宮内で飼い殺しにされていたとはいえ、腐っても王の血を引く者であるスコルピウスにはまだ利用価値があったのだ。そんなスコルピウスに出奔を促す行為がどれ程の危険性を孕んでいたのかなど、少し考えれば分かる事。それでもポリュデウケスは躊躇う事無く手を差し伸べてくれた。陽の光の下へと連れ出してくれた。スコルピウス自身の望むままに生きて良いのだと言ってくれたのだ。それがスコルピウスにとってどれだけ大きな救いになっていたのか、ポリュデウケスは知らないのだろう。恐らくそれを言ったところで、それは単なる結果論で自分はそこまで考えてなどいなかったと笑うのだ。スコルピウスが重荷に思わないように。彼はそういう男だ。
 苦労が目に見えていながら頼られると無視出来ない性格に、渋面を作って忠告した事は一度や二度ではなかった。それでもポリュデウケスはただ自分がそうしたいからしただけなのだと己の不利益になろうとも満足げに笑うのだ。
 レオンティウスが生まれてからというもの誰もがあっさりと手のひらを返しスコルピウスに背を向けた。そんな中、それでもスコルピウスの元に留まってくれたのは彼だけで。それが、他の誰でもないポリュデウケスであった事こそがスコルピウスにとっての幸運だったのだ。お陰で、暗く淀んだ世界しか知らない己ではなくなったのだから。
 ただ一つだけ、スコルピウスを幼少より知っているだけに色々と知れている彼には、いつまで経っても勝てる気がしないのが、悔しい気もするのだが。

「スーにいさま?」
「どうしたの?」
「どこかいたいの?」

 どうやらすっかり己の思考の淵に沈んでいたらしく。口々に問いかける声に我に返ったスコルピウスが顔を上げると、心配そうにこちらを伺っている二対の瞳にぶつかり、眉間に込められていた力が自然と抜ける。当たり前のように目の前にある二つの頭を交互に撫でれば、きゃあと歓声を上げながら沸き立つ二人に益々笑みが深まるのだった。
 心配ない、と声をかけるまでも無く。笑みを浮かべるスコルピウスに気を良くした二人は、笑いながら身を翻すと再び興味は森へと移り、二人手を繋ぐと揃って駆け出した。
 再び遊びを再開した子供達に柔らかな眼差しを向けるスコルピウス。口元に刻まれるのは自分という存在全てで感じる幸せ、その象徴のような柔らかな微笑。
 このままずっと穏やかな日々が続いて欲しいと願うスコルピウスの脳裏に、不意に甦ってきたのは泣きそうに顔を歪め、それでも目を逸らさなかった幼子の眼差し。











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